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「他者のような自己自身」 ポール・リクール

久米博 訳  叢書・ウニベルシタス  法政大学出版局

読みかけの棚から
読みかけポイント:序言のみ。

目次
謝辞
日本語版への序文
序言 自己性の問題
第1研究 「人物」と同定的指示-意味論的アプローチ
第2研究 言表行為と語る主体-語用論的アプローチ
第3研究 行為者なき行動の意味論
第4研究 行動から行為者へ
第5研究 人格的自己同一性と物語的自己同一性
第6研究 自己と物語的自己同一性
第7研究 自己と倫理的目標
第8研究 自己と道徳的規範
第9研究 自己と実践的知恵-確信
第10研究 いかなる存在論をめざして
訳者あとがき
主な邦訳書文献
参照文献
原注
索引

 「他者のような自己自身」が初手から示唆するのは、自己自身の自己性はきわめて内密に他者性を含意しているゆえに、一方は他方なしに考えられず、ヘーゲル的語法で言えば、むしろ一方は他方に移行していくのである。
 他者に似た自己自身という比較の意味だけでなく、…としての自己自身という含意もである。
(p5)

 (デカルト的懐疑あるいは方法は)その順序はもはやまっすぐな鎖のようにではなく、円環のように現れる。到達点から出発点へと逆向きに投影する
 われわれにとっても、問題は、理由の順序に円環の形を与えることによってデカルトが〈コギト〉を、したがって「私」をその最初の孤独から引き離す手続きを、巨大な悪循環にしてしまったのではないかどうかである。
(p12)


デカルトの〈コギト〉の証明の後の、神の存在証明で、〈コギト〉の存在理由を神の存在に依ってしまったことで、〈コギト〉は最早第一原理の座を降ろされる、そこから導かれるデカルトの円環。
今日はここまで。
(2023 02/06)

この本の特に前半部分は、英米の分析哲学の理論を検討しているところでもある。あまり現代哲学(のこの時期…2000年越えた現在では行われ始めているいるときく)では、例がないかも(英米内、またはフランス内では盛んなのだけれど)。これはリクールがシカゴ大学に勤めた経験からなのかもしれない。
(2023 02/07)

 疑惑は証しに特有の反対であるから。ここで証しと証言との類縁性が確かめられる。「にせ」の証人なしに、「真の」証人はない。しかし他のもっと信じられる証言よりほかに、にせの証言に反対する手段はない。そして、もっと信頼できる証し以外に、疑惑に抗する手段はない。
(p28)


解釈学(と上にあるような分析哲学との対話)は迂回の学問である。「証し」はハイデガーの概念。

訳者あとがきから(読み終わったわけでは、もちろん?ない。読み終わったのは「序言」のみ)。

 他者のような自己自身は、自己自身のような他者と交換できる。また自己を他者として評価することは、他者を自己として評価することに等しいのである。
(p440-441)


これまでの現代哲学における先例。リクールによる見立て。
フッサール「デカルト的省察」…私以外の他者を私として考える方向のみで、自己を他者として考えなかった。
レヴィナス…徹底的に「他者」から。「他者は私を喚問する」。リクールの見るところ、他者の声を聞く私、私の声として聞く事がなければその声は到達しない。
ハイデガー…良心論、ハイデガーの良心は他者に結びつかない。良心の声は他者の命令(リクール)。
(2023 02/16)

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