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「弓と竪琴」 オクタビオ・パス(前)

牛島信明 訳  岩波文庫  岩波書店

長いので前後編で(それでも長い)。
今年読んだ「泥の子供たち」と並ぶパスの詩論(こちらの方が早い)。
「弓と竪琴」の邦訳は、最初は国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書(1980)、続いて訳者も改訂に関わったちくま学芸文庫版(2001)、そしてこの岩波文庫版(2011)。岩波文庫に入れるにあたり、既に訳者は故人となっていたので、ちくま学芸文庫版のあとがきは割愛し、山口昌男の論考を収録。


「ポエジーと詩」

 答えは変化する、なぜなら、問いが変わるからである。不動性など幻想であり、運動の幻想である。しかし、運動もまた別の幻想であり、その変化のそれぞれにおいて繰り返され、かくして、変化しつつある-常に同じ-問いを、絶えずわれわれに繰り返している(同じもの)の投影である。
(p12 「再版への序」から)


スラッシュや括弧の中は元々?それとも訳者注?
(2022 07/08)

 ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに内的解放の一方法でもある。ポエジーはこの世界を啓示し、さらにもうひとつの世界を創造する。選良の糧であり、同時に呪われた食物である。それは孤立させ、また結合させる。旅への誘いであり、故里への回帰である。
(p17)


まだまだ1ページ分くらい続くのだが、この辺で…

 詩的なるものが、まだ形を持たない状態におけるポエジーであるのに対し、詩は創作であり、頭をもたげたポエジーである。
(p20)


詩的なるもの…ポエジーが、自然物等を含む状態のものであるのに対し、詩(言葉の詩に限定しない)は、誰かの創作物ではある。

 そして、いかなる作品もついには意味をなす。人が手を触れるものは何でも志向性を帯びることになる。-(…に向かって)行くのである。人間の世界は意味の世界である。それは曖昧性、矛盾、狂気、あるいは混乱を耐えることはできるが、意味の欠如を耐えることはできない。
(p29)

 詩人は自らの素材を解放する。散文家はそれを拘束する。
(p33)


素材を解放することにより、歴史のなかにいながら、歴史を乗り越えることができる。

 磁気を帯びたものであり、多くの相対する力の密かな遭遇点である詩によって、われわれは詩的体験に近づくことができる。詩は、人間の気質、性向、知性といったものには関わりなく、あらゆる人びとに開かれた可能性である。
(p39)


詩の読者も読み自体もまた多様性を持つ。詩的体験が詩を読む理由になるとパスは絶えず強調している。
おまけ
例えば、アステカの詩は、他の時代の詩作品を参照するより、同時代(アステカ)の建築とか装飾を参照した方が理解しやすい、とあるけれど、どうだろうか。
(2022 08/23)

「詩」から「言語」


昨日読んだ序論「ポエジーと詩」に引き続き、今日は各論一つ目、3つの問いの最初、「詩」から「言語」。

 人間とは言語のお蔭で、すなわち、人間を他者に変え、自然界から引き離した始原的隠喩のお蔭で人間なのである。人間とは、言語を創造することにより自己を創造した存在である。ことばを介して、人間は自らの隠喩となる。
(p54)

 言語の水面には、日ごと、ことばや語句が、その冷たい鱗片からまだ湿気と沈黙をしたたらせながら現われ出る。そして、まさしくその瞬間に、他のことばが消滅する。疲弊した言語の荒地が、突如として、突出したことばの花で覆われる。光り輝く生きものが言行為の繁みに住みつく。とりわけ、貪婪な生きものが。
(p55)


言葉は何らかの辞書に載っているものの総体ではなく、使っている言語行為そのもの、言語と他者(の発見)というのもまた表裏一体。たまに思うのだが、消滅危機言語で話者がとうとう一人だけの言語とかは、実際にはもう言語の態ではないのだろう。
下の文は、内容云々より、ただただ詩人パスの技を堪能する文章。「湿気と沈黙」とか。もう、「論文詩」ってジャンルをパスの為に作ってあげたいくらい…
というわけで? 読みは進んでいないけれど、楽しめてはいる…
(2022 08/24)

詠嘆の展開と、詩と社会の関係史

 どこかでヴァレリーは、「詩とはある詠嘆の展開である」と言っている。〈詠嘆〉と〈展開〉の間には、相矛盾する緊張がある。そしてわたしなら、その緊張こそが詩で〈ある〉とつけ加えよう。
(p74)

 詩とは、詠嘆が言わなかったことを言わんとする声を聴く耳である。
(p75)


「言語」の章読み終わり。ただの詠嘆は、聞き手を持たない情感の吐露。その省略されてしまった聞き手になり、そこの言葉を豊かに掘り起こす。それがここでいう〈展開〉なのだ。
その少し前、p71では詩と社会、国家との関係を論じて、社会や国家の頽廃期には偉大な詩人が出てくるという通説は、本当は詩人の層やレベルは一定なのだが、社会の線が低すぎる為に目立つだけなのだ、いう。
このテーマはこのページの注にあるように、補遺Ⅰで扱われるということだから、気長に待つか…
(2022 08/25)

リズム

 言語は宇宙と同様、呼びかけと応答、上げ潮と引き潮、結合と分離、吸気と呼気の世界である。あることばは互いに引きつけ合い、またあることばは反発し合うが、すべてが呼応している。言行為は、天体や植物を統べているのと相似たリズムによって動く、生きものの総体である。
(p82)


「リズム」、言語の構成要素をパスは「句」としている。単語ではない。幼児も単語ではなく、句から覚える、というが本当だろうか。その真偽はともかく、ここで言われている他要素との関わり合いの総体が言語、言行為だというのは、p81注のヤコブソンの言葉にもあるように当たっていると思う。
(2022 08/26)

パスの時間論

 あらゆるリズムは何らかの方向であり、意味である。つまり、リズムとはただ空疎な拍というだけではなく、ひとつの方向であり、意味なのである。
(p92)


ハイデガーは、あらゆる計測単位が「時間を実在させる形式」である(p92)と言っている。時間は外在しているものではなく、内在しているものなのだ。

 つまり時間は、意味としての自らを否定し続けるところのひとつの意味-常に自らの外に、さらに向こうに行こうとすること-を持っている。自らを破壊するが、破壊されるたびに自らを繰り返すのである。
(p93)


ここと、一昨日からもう一度最初から読んでいるピーター・バーガー「聖なる天蓋」の外在化は、根底は同一なものから派生しているのではと、ここまで読んできて思う。外在化し、自分が外部に立ち上がる(客観化)と、内部と外部の自己にズレが生じる。それが時間というものを生み出す契機となっているのでは。
自己と時間が同一だ、と想像してみる試みが、とても楽しい。
(2022 08/27)

韻文と散文

 リズムはあらゆる言語形態に本然的に存在するのであるが、詩において完全に発現される。リズムなくして詩はない。また、リズムだけでは散文はありえない。
(p110)

 言語は、それ本来の傾向として、リズムになりがちである。ことばは、あたかも重力の霊妙な法則に従うごとくに、自動的に詩に帰着するのである。
(p111)

 詩は、ひとつの円、あるいは球体として現われる-それらは自ら閉じる何かであり、自己充足的宇宙であり、そこにあっては、終わりとはまた、回帰し、反復され、再創造される始まりでもある。
(p112)


最初は論文らしく、言語形態の分類から始まるのだが、だんだん詩人パスの側面が見えてくる。自動記述での例の多くが韻文に帰着するというのは、この(p111)の結論を見る限り自明のことになるのではないか。
(2022 08/29)

エリオットとパウンド

 いずれの言語においても、詩人たちは〈詩的〉語法の虚偽性を具体的なイメージによって置き換えんとした。ところが、フランスの詩人たちが音韻的韻文の〈抽象性〉に反逆したのに対し、英語の詩人たちは、リズム的な詩の〈曖昧性〉に反抗したのである。
(p124)


この英独とその他の大陸系との比較…確か、「泥の子供たち」でもそういう視点があったと思った。
続いて、エリオットとパウンドの比較。両者とも、英米詩(ラテン文学の伝統の離脱者)からの離脱であるという。

 近代人がエリオットにおける主人公である。彼にはあらゆるものが疎遠であり、彼はいかなるものの中にも己れを認めることはない。それはあらゆる類推や照応を否認する例外的存在である。
(p128)

 パウンドは墓掘人のように、英雄的な態度で引用を積み重ねていく。エリオットは難破船の破片を引き上げる者のように、引用を整理する。前者の作品は、おそらくわれわれをどこにも連れてゆくことのない旅であり、エリオットの作品は先祖の家の探求である。
(p130)

 彼(パウンド)の作品全体が、彼と彼の国が失ってしまった伝統の劇的な探求である。しかしその伝統は過去にはなかった。つまり、アメリカ合衆国の真の伝統は、ホイットマンに表現されているように、未来で〈あった〉-同志たちによる自由な社会であり、新たな民主的なエルサレム。
(p131)


(2022 08/30)

フランス詩とスペイン詩

 論理的な国民の間に、イメージの森が、つまり毒を塗った武器で寸分のすきもなく身を固めた新たな騎士団が湧き出た。ドイツ・ロマン主義から百年を経て、詩はふたたび同じ前線で戦いを始めたのである。
(p142)


こちらはフランス詩。詩の韻律にすなわち「詩の音楽性」に対して「戦い」を起こしたという。

 もしバロックが動的な遊び、明暗法、これとあれとの激しい対立であるとするなら、われわれは言語的宿命によりバロック人である。
(p146)


そして、こちらはスペイン詩。韻律かリズムか、の線引きだとスペイン語は中間地点にいる。そしてスペイン詩は、舞踏と演説、行進の二つの要素を兼ね備えている。
(2022 08/31)

今日はウィドブロとネルーダについて

 前衛には二つの時期がある。最初は一九二〇年頃のウィドブロを中心とするもので、ことばとイメージの気化であり、二番目はそれから十年後のネルーダによるもので、事物の内奥への忘我的没入。それは大地への回帰ではなく、重くゆったりとうねる潮の大洋への没入である。
(p160)


(2022 09/01)

「イメージ」

「イメージ」の章に入る。ここでの「イメージ」は映像とかの意味ではなく、「比喩、直喩、隠喩、ことば遊び、地口、象徴、寓意、神話、寓話」(p163)などの言語形態を指す。

 存在は非=存在ではないのだ。この最初の分離-なぜなら、それは原初的混沌から存在を引き離すことであったから-が、われわれの思考の基礎を形成している。こうした概念の上に〈明晰な観念〉の体系がうち立てられたのであるが、もしこれが西欧の歴史を可能にしたとするなら、これはまた、こうした原理に基づかない別の方法で存在を把握しようとするあらゆる試みを、一種の不法行為として断罪してきたのである。かくして神秘主義や詩は、矮小化された隷属的な地下生活を送ってきた。
(p168-169)


最初の分離はパルメニデスが行った。詩は、存在は存在であるし、非=存在である、石は石であるし羽毛でもある、という原理にのっとった表現形態。
(2022 09/02)

 詩における椅子は瞬間的かつ全体的な存在であって、不意にわれわれの注意をかきたてる。詩人は椅子を記述しない。それをわれわれの目の前に置くのである。
(p181)

 詩は言語を超越する。
 詩はことばから生まれるが、ことばをしのぐ何かの中に流れこむ。
(p185)


しかし、詩を表現するのはことばだけ…

 詩とは変身、変化、そして錬金術的作用であり、それゆえそれは魔術、宗教、そして人間を変え、〈この人〉や〈あの人〉を彼自身であるところの〈他者〉にしようとする他の試みと境を接しているのである。宇宙は異質なものの広大な貯蔵庫であることをやめる。
(p188)


イメージは、違うもの同士を、そのもの自体を変化させることなく、同化させ、一体化したものを人間に提供する。p181の椅子はその例。石は羽毛であり、「彼を彼自身に戻す」(p189)。一旦、自分を「彼」と他者へ外部へ置くことがそれにとっては重要なことのようだ。
「イメージ」の章終了。とともに「詩」の部が終了。

「詩的啓示」の「彼岸」

ここからは人類学的に濃厚になってますます鬱蒼とした思想の密林へ。
詩と神性世界、原始宗教や深層心理学との関わりについて。パスはこういう関わりの傾向を「近代人のノスタルジー」と規定する。

 まず一方でわたしは、詩と宗教が同じ泉から湧き出るものであり、詩を当りさわりのない文学形式と化してしまう危険なしには、詩を、人間を変えようという詩の主張からは分離することはできないと考えるからであり、また他方では、近代詩のプロメテウス的企ては、宗教に対する好戦性にあり、それは今日の教会によってわれわれに与えられている〈聖域〉に対抗する、新たな〈聖域〉を創造しようとする意図の源泉である、と思っているからである。
(p195)


前半部分が意味取れない。後半は興味深い指摘。「泥の子供たち」にあったかな。

 それゆえ、これらの両極端から離れ、われわれ自身がその一部となっている全体性といった現象を受け入れなければならないだろう。それはその主人公から遊離した制度でもなければ、制度から遊離した主人公でもない。…
(p200)


〈原始的心性〉論(属人)(ピアジェやフレーザーはそれを批判する立場)と、ユベール、モースの社会制度論。その双方を批判しつつ。

p194にある
 また人類学は、人間が異常状態に陥ったり、ノイローゼになったりすることなく、夢と想像に支配された世界に生きうることを示している。
というの、どんな研究があるのだろう。あまり聞いたことない…
p195レヴィ=ブリュール(融即)って?
(ユベールも初だが)
レヴィ=ブリュール(1857-1939)
フランスの人類学者、哲学者。だいたいベルクソンと同年代で、ベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」で、このブリュールの著作を批判的に取り上げているという。ブリュールの主著(でいいのか)で邦訳あるのは「未開社会の思惟」(岩波文庫復刻版)で、たぶんさきのベルクソンが取り上げていたのもこれ。そこでブリュールは、未開社会の心性(今は思惟というよりこっちの言葉か)が、前のフレーザーのように未開社会-文明社会と発展していくのではなく、文明社会とは全く異なる心性だと主張。その心性が「融即」。何かが動けば他の何かも動いて影響し合う? 確かにラテンアメリカ幻想文学始め納得できそう。
ベルクソンの批判は、未開社会の心性もそこまで隔絶はしてないのでは、というもの(これに関しては、「未開社会の心性」読んだという稀有な?ブログあるのでそれ参照。
カッシーラーの言語哲学にも影響(カッシーラー自体も不勉強)。
戦前、戦争直後くらいまでは、結構影響力あったらしいが、レヴィ=ストロースの「野生の思考」出てからは、影が薄くなる? ベルクソンとどう違う?(ベルクソンもいろいろ批判されているだろうし)。
(2022 09/03)

神の絶対的不条理と他者

 すべてがここに在り、ここである。しかし同時に、すべてが別なところに、そして別の時間の中に在る。自らの外に在りながら、自らによって充溢している。そして、事象は恣意的で気まぐれであるという感覚は、あらゆることが、われわれとは根本的に異なる不可思議な何かに支配されているのだという直覚に変わる。決定的飛躍は、われわれを超自然的なものと直面させる。超自然的なものと向かい合っているという感覚が、あらゆる宗教的体験の出発点である。
(p211)


その前のところから。ここでパスが取り上げているスペイン古典戯曲「不信堕地獄」と「悪魔の奴隷」という戯曲の筋が、スペインらしいといえばらしいのだけれど、なんか神の絶対的不条理で自分の中で居座りが悪い。逆にケベードのソネット(p208-209)は、鬼気迫る情景が浮かぶ。
気まぐれな事象が何か別なものに支配されている感覚になる、それが宗教の源泉だというのは、前見た確率変動の話(不確かさの中で予言し、当たったことが記憶的に強化される)と直結するのだろう。
(2022 09/06)

 われわれが皆孤独なのは、われわれが二つになっているからである。未知の人、つまり他者はもう一人のわれわれである。
(p224)

 他者は常に不在である。不在であって存在している。われわれの足元には虚が、くぼみがあるのだ。人間はやっきになって、しかも苦悶しながら、自分自身であるその他者を探し求める。
(p225)


こういう他者、現代文学ではよく出てくる。ドッペルゲンガーものは元より、この間の「前日島」のロベルトにとってのフェッランテだったり、カフカの短編によく出てくる二つで一組のもの達もこういうイメージの具体化なのだろう。
そして、毎夜、夢の中でこの他者と融合する…
「彼岸」はこれで終わり。
(2022 09/07)

「詩的啓示」

 生まれた時、子供は自分が息子であるとは思わないし、父性や母性の概念などまったく持ち合わせてはいない。彼は根こそぎにされ、見知らぬ世界に投げ出されたと感じるだけである。
(p241)


このこと自体が正しいのか、はいろいろな立場でいろいろな意見があるだろう。でも、ここでパスの言う、宗教的起源という点からは重要な原体験と言えるとは思う。ハイデガーとパスは実は近いのか。
(2022 09/08)

この文章の「投げ出されている」というのを見れば、パスはハイデガー(この本の表記ではハイデッガー)から基礎を得ているのがわかる。

 宗教と同様、詩の出発点は人間の本源的状況-そこに在ること、敵意のある、あるいは無関心な世界である〈そこ〉に投げ出されていることを知ること-と、その状況を何にもまして心もとないものにしている事実、すなわち、人間の一時性と有限性である。詩人は、それはそれなりにまた否定的な道を通って、言語の縁に到達する。そして、その縁は沈黙、すなわち空白のページと呼ばれる。湖のような、滑らかで緊密な表面のような沈黙。
(p248-249)


「詩的濃縮金太郎飴製造機」のパスのことだから、上の文章後半のゾクゾクする表現はザラにある。

 われわれの存在は、ただ存在の可能性の中にのみある。存在にとって残されているのは、ただ自らが存在することだけである。その本源的欠陥-否定性の基盤であること-ゆえに、存在は自らのために、その豊満、あるいは充実を創造することを余儀なくされる。
(p261)


永生の死たる宗教や、死の準備たる哲学と異なり、詩こそが死を含む生、生を含む死の実践、充溢の体験なのだ、とパスは言う。宗教や哲学の分野の人がどう思うかはわからないが。そしてその充溢は、他者性を受け入れることで初めて会得される。この前の箇所でパスは、女性への愛(女性読者がいる、などということはパスは考えない? そしてここでいきなり「君」なる呼びかけが出てきて面食らったりする。具体的な誰かへのメッセージなのか、と勘ぐりたくもなる)や、自然との一体感(与謝蕪村の句も出てくる)など。
「詩的啓示」終わって、次は「インスピレーション」の出だし。

 詩は感じられるのではない-言われるのである。つまり詩的体験とは後になってことばが翻訳する体験ではなく、ことば自体がその体験の核を形成しているのである。
(p266)


詩は何かの翻訳ではなく、ことばの体験自体なのだ、という前提が、前の「リズム」の章にもここにも現れている。
(2022 09/09)

インスピレーション

主にその「他者性」を巡って、近代・現代詩史を。プラトン・アリストテレスからダンテに至る近代以前は、自己ではない他者、自然の声を聞く、一体となることが自然に行われていた。ところが、近代に入り、デカルトが近代的自我を確立すると、その自我とインスピレーションの他者性に裂け目が生じる。
ドイツロマン派(主にノヴァーリス)から、ボードレールやポーなどへ、そしてシュルレアリスムの20世紀へ。このインスピレーションに関していえば、ノヴァーリスとシュルレアリスムが他者性に開いた、その中間は裂け目に苦しんだ、という見立てをパスはしている。
ということで、まずはノヴァーリス。

 矛盾は不断の過程において、同一性から生まれる。人間とは絶えず自らと和合し、合体し合っている、しかし同時に、絶えず分裂し合っている、複数体であり対話である。
(p282)

 「詩人は」とノヴァーリスは言う、「作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」。
(p283)


ここの「人」とは誰を指すのか、パスは考えていく。このノヴァーリスの言葉は、この後変形されて再登場する…

 詩的なるものは外部に、つまり詩の中にある何かではないし、内部に、つまりわれわれの中にある何かでもない。そうではなく、われわれが作る、そしてわれわれを作る何かである。従って、ノヴァーリスの格言をこのように修正することができよう-「詩は作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」
(p286)


あれ、どこが違うのか、ひょっとして同一? とも思ったけれど、「詩人は」が「詩は」になっている。この「詩」は、「詩的なるもの」と呼ばれているものだろう。

 未来の詩を前にして、詩人は裸で、ことばも持たずにいる。創造以前に、詩人が詩人として存在しているわけではないし、創造の後においてもまたそうである。詩人は詩によって詩人なのである。詩人は詩による創造であり、詩は詩人による創造である。
(p286-287)


そして、シュルレアリスム。パス自身もそこから胚胎したシュルレアリスムは、ノヴァーリスの後継であり、主体と客体の葛藤を解消していくための冒険である、という。

 シュルレアリスムもまた客体を攻撃する。客体を溶解するのと同じ酸が、主体をも分解してしまう。自我もないし、創造者もいない。あるのは一種の詩的な力だけで、これが所かまわず駆け巡り、根拠のない、そして説明し難いイメージを生み出してゆく。
 われわれは誰でも詩を作ることができる、なぜなら、詩的行為はその性質上、無意識的なものであり、常に主体の否定としてなされるものだからである。詩人の使命はそうした詩的な力を吸引すること、そして自らが、イメージの放電を可能にするような高電線と化すことである。
(p291-292)


インスピレーションを、これまでのように扱いに困るものとしてみるのではなく、武器として扱い、そしてインスピレーションによって成り立つ社会の樹立を企む。

 われわれは〈他の声〉が、注意の不寝番が見すごしている隙間から入りこんでくることを知っているが、それは一体どこからやって来るのか、そして、その到来と同様、なぜ、かくもあわただしく去って行くのだろうか? シュルレアリスムの実験的作業にもかかわらず、ブルトンは、「われわれはこの声の起源については、相変わらずほとんど知らないままである」と告白している。ついでながら、われわれはいささか知っていると言おう-その〈声〉を聞くたびに、また思いがけぬ出会いが生じるたびに、われわれ自身の声を聞いているような、そして、すでに見たことがあるものを見ているような気がするのだ。
(p296)


後半の〈声の既視感〉については「また触れる」そうなので、そこまで楽しみながら待つとして、ブルトンはなぜ「ほとんど知らない」と言うのだろうか。パスはそこに「インスピレーションの純粋に心理的な解釈に対する、内心の抵抗」がある、という。それは何か。それは〈他者性〉を問いかけとして開かれているものとして定時することを可能にする、そのような戦略ではないか、とパスは考えているようだ。
(2022 09/11)

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