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「聖なる天蓋 神聖世界の社会学」 ピーター・バーガー

薗田稔 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

バーガーとルックマン


訳者はバーガーの「異端の時代」も翻訳(「聖なる天蓋」の方が先)。
バーガーとルックマンは同じシュッツの影響での宗教社会学を展開しているが、ルックマンは現代社会でも「宗教的事例」は様々に展開しているとするのに対し、バーガーはユダヤ教以来の聖俗分離で分かれた俗の部分が聖の部分を駆逐?したが、俗の部分が担保しない限界状況?のため、現代社会は不安に貶められている、という。訳者はどちらの見解に立つかまだ決めかねていると。その為にはシュッツまで立ち戻らなくてはならないと。
バーガーの「社会学入門」もある。
(2020  02/17)

外材化・客体化・内在化

 人間の実存とは、人と肉体、人と世界とのあいだにおける不断の〈平衡運動〉にほかならない。
(p19)
 文化は、人間の手で不断に生産され、再生されねばならない。その構造は、だから本来的に不安定で変化すべき運命にあるのである。文化に欠くべからざる安定性と本来不安定な文化の性格があいまって、人間による世界構築の営みに根本的な問題を投げかけている。
(p20)


まあ、そこで登場したのが宗教だ、という運びになるのかな。
外在化(人間が世界に向けて流出、行動する)、客体化(人間が作った世界があたかも元々あったかのように見える)、内在化(それをもう一度個人の内に取り込む)…社会の基本的な弁証法的過程の三つの契機

 完全に社会化された個人があり得ないように、いつの場合にも共同のノモスの外側か周辺にとどまっている個人の意味づけがあるものである。実際、もう少しあとで判明するように、個人の境界的経験は社会的存在を理解するためにかなり重要である。
(p41-42)


(2020 03/06)

 かくして宗教は、人間の世界構築の営みに戦力的な役割を果たしてきたということができよう。宗教は人間の自己外材化の極致であって、現実に対して彼自身の意味を最大限に注入したものがそれである。宗教は人間秩序が存在全体のなかに投射されていることを示している。いいかえれば、宗教とは宇宙全体を人間的に意味ある存在として想念する大胆な試みなのである。
(p56)


(2020 03/08)

時間経ったので、もう一度…

社会の形成
外在化…人間存在がその物心両面の活動によって世界にたえず流れ出す。
客体化…人間が活動することにより、流れ出たものが、その人間の外部に「現実」として立ち現れる。
内在化…同じ人間による現実の再専有。内的意識に取り込み変容させる。

 人間存在は本質的にも本来的にもたえず外在化し続けるのである。
(p17)


自己が外部に流れ出るという発想が興味深いと思う。それは他の動物のように生まれてからすぐ自分の世界が確立しているわけではなく、自分自身の営みにおいて作り上げていく、というところからきている、とバーガーは言う。
(2022 08/26)

 完全に社会化された個人があり得ないように、いつの場合にも共同のノモスの外側か周辺にとどまっている個人の意味づけがあるものである。実際、もう少しあとで判明するように、個人の境界的経験は社会的存在を理解するためにかなり大切である。
(p41-42)


とても気になるテーマ。そしてそうした体験は、何も特別なことをしなくても、身の回り近くに満ち溢れているのではないだろうか。

 社会的に構成された規範秩序(ノモス)はすべて、規範喪失(アノミー)へと崩壊する不断の危険に直面しなければならない。社会の視角で見ると、あらゆる規範は大量の意味喪失から彫り出された意味の領域であり、混沌として暗く、つねに不吉な密林のなかのほんの小さな開墾地なのである。個人の視角から見れば、すべての規範秩序は生活の明るい〈昼の部〉を代表し、〈夜〉の不吉な影に対抗してやっと持ちこたえている。
(p48-49)


ノモスとアノミー、コスモスとカオスとの対立構造はさておき?後半のイメージの鮮やかさに惹かれる。バーガーは文学的素養もあるのでは…

 制度上のプログラムはある存在論的な地位を与えられており、それらを拒否することは、それ自身であること、すなわち、事物の普遍的秩序の存在と、結果的にはこの秩序内の自己存在とを否定することになる。
(p50)


〈同性愛のパニック〉って何?
とにかくこの辺り、非常に文学的なテーマと絡み合っている。

 社会的に確立された規範秩序(ノモス)があたり前だという実質を達成すれば、その意味が、宇宙に内在する基本的な意味と考えられるものに合同するようになる。ノモスとコスモスとが共存するようになる。
(p50)


それが現代では人間存在に寄り添った〈科学〉となりやすい。いずれにせよ、こうして形成された秩序が宇宙に〈投射〉される(投射はフォイエルバッハからマルクス、ニーチェへと受け継がれた概念)。

 宗教は、それによって神聖なコスモスが確立する人間の事業である。別の言い方をすれば、宗教は神聖な様式におけるコスモス化である。
(p51)


「コスモス化」はエリアーデの概念。
置き去りにされた2つの問い
神聖の現れの共通形態が、文化伝播か人間に共通する宗教的想像力の内的論理からか(p52)
現代科学は神聖を取り除き、徹底的世俗によるコスモス化だという。そこから…

 ところが、元来はすべてのコスモス化が神聖な性格をもっていたと言って差し支えない。
(p55)


本当に「差し支えない」のか?
とりあえず、以前読んだ第1章までは終了。今度こそ先読み進みようね。
(2022 09/11)

正当化

第2章のテーマは正当化。これはある社会が社会構成員に対して提示する「この社会ではこれこれを守って、こんなふうに生きてね」というものが含まれる総体。特にバーガーは、理論化を求める人々だけでなく、庶民レベルでの正当化を強調している。そこで最も効果的なのが宗教なのだという。

 社会秩序を正当化する小宇宙/大宇宙という図式は、未開社会と古代社会の典型ではあるけれども、おもな文明のなかにも形を変えて現れてきた。そのような変形は、厳密に神話的世界観、すなわち、そのなかでは神聖な力がたえず人間経験に浸透しているという世界を乗り越えた思想上の一定の発展に応じて、おそらく避けられないことであろう。
(p66)


これは(「発展段階」とまでは言えないとも思うけど)先の庶民レベルに対してのわかりやすさをも持ち合わせる。宇宙と同じことがこの家庭内でも言える、とあれば父親の威厳はそれだけで説明つく。そうして神聖な役割を受託した父親は、またその構図を宇宙空間に反射させて見る。

 人びとは忘却する。だからこそ、繰り返し繰り返ししてそれを想い起こさねばならない。まさしく文化を確立するに太古以来のもっとも重要な前提条件のひとつがこのような〈想起させるもの〉の制度なのだと言うべきであって、何世紀にもわたるその制度のすさまじさは、それらがこの〈忘却性〉と闘うためにこそ工夫されたのだという見方からすれば、まったくもっとものことだと思われるのである。宗教儀礼は、この〈想起させる〉プロセスの核心的な手段のひとつであった。
(p74)


フロイトのいう「喪の仕事」、喪にふくすことによって個人的な感情を宗教的に回収し日常生活に戻すのを入口とすれば、ここの「想起させるものの制度」の宗教儀礼はそうした感情の出口となるのだろう。
十字架上のキリスト像とか、アリー及び仲間の死を忘れないためのシーア派の儀礼祭など、そういう「想起させるもの」にはさすがに事欠かない。
(2022 09/30)

 人間の歴史のかなりの部分を通して、意識の夜の側面に属するこうした他の現実が、別種とはいえ真実としてしごく真剣に捉えられた。宗教はこうした現実を時には(われわれの現代的な方法とは対照的に)それらをより高い認識的地位に帰属せしめることによって、日常生活の現実と、ひとつに統合するのに役立った。
(p80)


夢、狂気、そして最大なるものは死への直面。「エクスタシー」の文字通りの意味は「平常通りに規定されたままの現実の外に立つ」ということらしい。

 すなわち、信憑構造が堅固さを失うほど、世界を維持するための正当化の必要度はそれだけ痛切なものになる、と。したがって、典型的には、複雑な正当化の開発が、信憑構造が何らかの形で脅かされる事態のもとで促進される。
(p87-88)


こうした仕組みをバーガーは〈社会工学〉と呼ぶ。

 この事例(中世のキリスト教とイスラム教相互間の脅威)は、敵対する理論家たちがたがいの目的は矛盾反立するものでありながら、基本的にはともに酷似した知的枠組みを採用しているが故に、いっそう示唆に富む例なのである。
(p88)


こうした〈社会工学〉の例はp90で挙げられている。中世にこうした異端の興隆と弾圧が起こるのは、人間の流動性が増し、他の宗教集団との接触が増したことによる。それが原因で弾圧する社会が結果であり、その逆ではない。またp92には、安定した宗教社会から外に出る個人の視点が書かれているが、これも接触が増加する流れに乗って起こってくる事象。
社会理論的には、バーガーがデュルケームの宗教社会学の弱点を、社会全体を覆わず下位構造の宗教社会が競い合っているような実態を解釈しにくい、と指摘している点が興味深い。
本のタイトル「聖なる天蓋」は、夢、及びそこから覚めていく個人を上から見守るベッドの天蓋、そしてそれに擬せられた宗教を示唆しているのだろうか。
これで第2章読み終わり。
(2022 10/02)

第3章「神義論と被虐愛」


まずは神義論。これは、宗教による不条理現象の説明。バーガーはこの神義論の多くをウェーバーによっていると注で述べているが、そのウェーバーによると、神義論の類型はp98の注にある「現世における代償の約束」「来世における代償の約束」「二元論」「業の教理」の四つになるという。
バーガーの数直線理論?は後ほど(今読みかけているところ)出てくるが、このウェーバーの方はなんとなく字面でわかるような…「二元論」とはマニ教とかよく出てくる、善の世界と悪の世界の戦い的な世界観、「業の教理」というのは「まあ世の中こんなものだから我慢しなさい」とか「お前は前世でこんな悪い行いしてたから仕方ない」とか説明になっていないもの…って、勝手に空想するのは楽しいけれど、あってるのかな?

 その結果、ノモスのかぶさる防護用の天蓋が拡大して、個人を吠え立てる獣性に戻しかねないこの種の体験さえもかばうようになれば、苦痛はいっそう辛抱しやすく、恐怖は一段と薄らぐようになる。
(p99)


ノモスは(繰り返しだけど)規範秩序、そして天蓋(キャノピー)、タイトルの「聖なる天蓋」(The Sacred Canopy)。まずは個人の上にあって守ってくれるものという意味で使われたが、(たぶん)この後も別の意で使われそうな予感。

ところが?次に出てきて第3章の章題にもなっている「被虐愛」…と書かれると難しそうに響く(言いにくいし(笑))が、これは「マゾヒズム」のこと。突然なんなのかとも思うが、絶対的神を加虐愛者として崇拝する被虐的愛、これが宗教だと言われると、無神論的感覚の自分としても「これ、大丈夫なのか?」と心配になってくる。ここでいうマゾヒズムはサルトルの「存在と無」で展開されているものを持ってきたらしく、精神分析的意味ではなく、「自己物象化の特殊形態として理解して差し支えない」(p102)…差し支えある(笑)全然理解できない…とも、言ってられないので、うっすらとした理解で先進むことにする。とりあえず「存在と無」が読みたくなった。

 図式的にいえば、時には驚くべき冷静さをもって人間の苦痛を説明すべく工夫された論法を編み出している神学者の姿を思い浮かべる場合に、われわれが少なくとも忘れてはならないことは、その神学者の平静な容貌の裏には、君主の威厳をもって罰をくだし破壊する神の前では泥にまみれても官能的な歓びをもってひれ伏す崇拝者の存在が隠れているかも知れないということである。
(p105)


こういう説明聞くと、ますますもって、ここでのマゾヒズムから精神分析的解釈を除外する必要性が無い気もするのだが。それはともかく、この本の特徴の一つは、厳密に書かれて理解しにくい文章のあとでこういう鮮やかな比喩や具体例が出てくる、というところ。

 神義論が第一義的にもたらすのは、幸福ではなく、意味なのである。しかもあり得べきことは(たとえ被虐愛的なモチーフが繰り返し現れることを別にしても)、激しい苦悩のさなかで意味を求める気持ちは幸福への欲求と同様に強く、時にはそれよりも強いことさえあるということである。
(p105)


乗っていた列車が緊急停止した時、何があったのかを知りたくなり、わかると(事態は止まったままなのに)安心するように、人間とはいかに因果の鎖の中にいると安心する動物なのであろうか。だから宗教も幸福という利益を提供するよりも、徐々に意味のみを差し出すものになっていく。

 二つの別個の神義論-一方の集団には不幸の神義論、他方には幸福の神義論-が社会のなかに成立する。この二つの神義論は、それぞれ異なった方法で、つまり〈釣合い〉の程度を異にして相互に連関する。いずれの場合にせよ、社会的不平等を正当化する神義論の信憑性が分裂することは、その結果において大変革を起こす可能性をもたらすが、この点については、しばらく措いて後に詳論するつもりである。
(p108)


この予告、とても気になるので先読みしたくなる。社会上で分裂し変革が起こる、という原因がここにある、という。
で、先程書いたバーガー流神義論の類型分類-数直線上プロット技法が登場し、今はその端に社会構成員がほぼ同一化を果たした社会についての記述のところまで。
長くなったけれど、まだ第3章半分も終わっていない…
(2022 10/03)

一応、第3章読み終えたけれど、破壊的な眠さなのでここでは少しだけ。上のバーガーの数直線の一方の端が、小宇宙/大宇宙の連綿と続く子孫へのつながりだとすれば、今日出てきたもう一方の端は、インドのウパニシャッド哲学や原始仏教(パーリ語経典系)の因果鎖とつながりを切られた個人というもの。その間にウェーバーの四類型のいろいろ(現世利益(千年王国など)、来世利益、二元論などが入る。
(2022 10/04)

第4章「宗教と疎外」


この本冒頭の章で、外在化→客観化→内在化という動きで、人間は社会世界を構築するということを見た。ところがそうしたことに気づかず、外の世界と、内在化した自己内の他者を、全く関わりのない「他者」としか認識できない場合もあって、これが「疎外」と言われるもの。

 未開人と幼児の意識は、ともに社会文化的世界を本質的に疎外された方法で-事実、必然、運命として理解する。わずかに、歴史上のずっと後代、あるいは特定の歴史的環境に生きる個人の後半生になってから、ようやく社会文化的世界を人間の仕業のひとつとして把握する可能性がその姿を現わすのである。
(p155)


疎外→統合の弁証法という順であって、その逆ではないということ。

 宗教は、それがまた強力で、おそらくもっとも強力な疎外の執行機関であるが故にこそ、非常に強力な規範化の執行者であった。
(p157)


またなかなか常識に反したこと言っている…宗教は疎外を執行する…とか。疎外と規範喪失(アノミー)は異なる。前に見たように、宗教は規範喪失から身を守るためにある…その発動が疎外を産む。宗教は他者性のもので、多くの宗教体験が全くの他者としての啓示を語るが、それら他者だと思われたものは実は自己の「投射」(これはフォイエルバッハの概念)なのだという。
(2022 10/05)

一箇所だけ、昨日の続き。宗教を疎外と同一視しないこと、これがマルクスらの主張との違いを出しているところである、とバーガーは言う。
(2022 10/06)

第4章読み終わりで第1部終了(昨日)。

 逆に、宗教の諸構造は、その基盤に働きかけてそれを修正する能力をもっている。ところが、この事実はひとつの奇妙な結果-つまり、脱疎外そのものが宗教的に正当化されるという可能性をもっている。この可能性が把握されないようであれば、宗教と社会との関係をめぐる一方に偏った見解はまぬがれがたい。
(p172)


宗教は個人に対しその社会内部に疑問や反抗を持たせないようにするために、個人と社会との弁証法的構造から目を逸らせようとする。これが疎外。一方、脱疎外は逆方向に導く。宗教という一因子が固定された一つの機能しか持たないという単純モデルでは、社会のダイナミクスは認識できない。
(2022 10/08)

第2部「宗教と歴史」の第5章「世俗化の過程」


まずはヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に沿うところから始まり、そしてその「世俗化」の源泉としてのユダヤ教に着目する。これはヴェーバーでいうと「古代ユダヤ教」にあたる。

 古代イスラエル宗教の核心には、エジプト版とメソポタミア版の宇宙秩序の双方に対する激しい拒絶が内在し、当然のことながらその拒絶は前イスラエル時代のシリア=パレスチナ土着文化にも及ぶものであった。
(p205)


小宇宙/大宇宙の図式からの脱却。

 旧約聖書はコスモスの外側に立つ一神を設定する。コスモスは彼の創造であるが、彼はそれに対立するのであって、遍満するのではない。
(p206)


「外側」というのが重要(強調点もついている)。ヤーヴェという神は土着の神ではなくイスラエル人と契約した『機動的な〉神で、それは契約の箱の持ち運び可能な性格によく現れている、という。この辺り、本村氏の「一神教と多神教」も読み返したいところ(ひょっとして種本?)。

 旧約聖書における神の徹底した超越化がもっともよく見出されるのは、ほかならぬ非イスラエル宗教の諸要素が組み込まれた場所にである。
(p208)


こちらは宗教史的な関心というより、テキスト論的関心。他の要素を取り込む時、そこがどう変容し、オリジナルの箇所とどう調和(あるいは不調和)するのか。こうした古代テクストから落語の噺の変化に至るまで自分の興味をひくところ(だからといってこういうテーマの文献が思いつかないのだけど)…本題に戻って、ここでは創世記の天地創造における、(元の)メソポタミア神話との「カオス」の概念の変化。前者は華麗、後者は孤独。

一方、キリスト教は、こうしたユダヤ教の世俗化のモチーフからの「退行」を示しているという。超越化、合理化の二つの側面においては、カトリシズムとギリシア正教はその住民たちに逃げ道を与え、いわば古代エジプト・メソポタミアへの回帰とも言える傾向がある。ところが、歴史化のモチーフについては、キリスト教はこれを温存したのだ、という。

 かくしてカトリック系キリスト教は革命的な種子を、たとえそれがカトリック世界がもつ〈コスモス化〉の効果のおかげで長い間の冬眠を繰り返したにしても、その身内に蓄えていたのである。
(p218)


この種子が芽吹いたのが宗教改革でありプロテスタントである、という流れ。これに加えて、カトリックには教会制度という宗教機能に特化した建物という(唯一ではないが、結構珍しい事象なのだという)特色があり、これが聖と俗を分け世俗化の空間を作り出すのに機能したという。
次章は、非宗教化によりノモスから切り離されアノミーに直面する一般庶民の話らしい…
(2022 10/09)

第6章「信憑性の問題」


近代資本主義経済が発達していくにしたがい、宗教領域は二極化(経済社会の中心は合理化が一番進み、国家と家庭という社会の端に追いやられる)が進む。国家では、宗教はイデオロギー的に残るしかなかった。家庭では…

 基本的な特性のひとつが、いわゆる〈個人化〉である。その意味するところは、私化された宗教が事実上共同の結合的資質を欠いて、個人または核家族の〈選択〉や〈趣好〉の問題ということである。このような私的宗教性は、それを採用する個人にとってどんなに〈リアル〉なものであっても、もはや宗教の古典的な働き、つまりそのなかでは社会生活の全体が何人にも結びつく究極的意味を与えられるような共同世界を構築する働きを果たすことができない。その代わりに、この宗教性は近代社会の世俗化した分野から効果的に隔離されるところの社会生活の特別保護区に限定される。
(p234-235)


その特別保護区の宗教(的なもの)は、果たして神聖さを欠いた嗜好的なものにも適用されるのか否か。ここバーガーとルックマンで見解違うところでしたっけ?
あと、2ページ先で、こうした私的宗教性は共同体による力に欠けているため脆弱で、宗教性の対象が次の別なものに変わっていきやすい、という指摘がされている。
(2022 10/10)

 宗教的伝統は、かつては威信をもって強制することのできたものが、今や市場化されねばならない。もはや〈買う〉ことを強制されていない顧客に〈売り〉込まねばならない。多元的状況は、なかんずく一種の市場相場なのである。
(p242)


アメリカに始まる各宗派の並立という多元的状況。競争相手は宗教だけでなく、「革命」とか「ナショナリズム」とか「性の解放」とかのイデオロギーも含まれる。こうして全体から見ると市場化が進む一方、各宗派内部では官僚制が進む。その結果、宗派ごとの傾向が似てくる。そのため売り込むためには宗教的伝統をイメージ広告に変容して差別化しなくてはならない。あとは、宗教各派がカルテルを組んで寡占状況を作る(完全に統一「独占」ということはない)とか、ますます経済的社会とのアナロジーが進んでいく。
(2022 10/11)

まず第6章残り。

 宗教はもはや宇宙や歴史を語るものではなく、個人の実存または心理に語りかけるのである。
(p263)
 事実として、個人は宗教を自分の主観的な意識の内部に〈発見し〉、ともかくも自分自身の内に〈沈潜する〉-だから、実存主義者やフロイト派の理論家はただこの〈発見〉を理論のレベルで明らかにするにすぎない。
(p264)


例えばフロイトの無意識の発見は、発見ではなく結果だということ、時代変化によって宗教がになってきた分野が個人の心理的領域に移ってきたことが、フロイトに確認された、という立場。ギンズブルグがいう徴候的読解もその別側面。自分としては惹かれる考え方ではある。この立場が現時点でどのくらいの賛同を得ているのか、反論はどのようなものか、まだ自分はわからないけれど…

第7章「正当化の問題」


19世紀プロテスタント自由主義(フリードリッヒ・シュライエルマッヘル)世俗思想の取り入れと駆け引き
→キェルケゴール→カール・バルト新正統派神学…キリスト教の本質は個人を超えたもの(自由主義の反動)
→ルドルフ・ブルトマン、パウル・ティリッヒ、ジョン・ロビンソン…新自由主義(政治的なものとは無関係)、新正統派神学への反動

 宗教が指示する現実がその宇宙あるいは歴史から個人意識の方へ移し替えられるのである。宇宙論が心理学になる。歴史が伝記となる。
(p287)


先のp263の文章と被っている。宇宙から個人意識なら、もともと個人意識だった幾ばくかは、宇宙へと放射されたのだろうか。
今日で本編は終わり。あとは補遺とあとがき。
(2022 10/12)

補遺と訳者あとがき


「社会学における宗教の定義」では、盟友ルックマンの「本来的に人間的なものはすべてそれ自体で宗教的」(p300)という説には懐疑的。
「社会学と神学」では、〈宗教〉と〈キリスト教信仰〉を分断して前者だけを社会学(等)の対象にしようとする、新正統派神学寄りの分析を前の著書ではしていたが、今ではそうした分断は不要で前者後者どちらにも社会学(等)のアプローチをすべきだという。
(2022 10/13)

昨夜寝る前に最後まで読み切る。
訳者あとがきでは、訳者薗田稔氏の関心に沿って書かれる。バーガーとルックマンの違いと、そこで薗田氏自身の立場については、一昨年2月に読んだ時に書いている。
薗田氏は主に日本の祭りを主要テーマにしている。日本の祭りは聖と俗、ノモスとカオスの分離ではなく、それが交代で現れることによる再生の場でもあるのだ、という。

 カオスを徹底的に忌避する聖書的伝統とは異なり、カオスとコスモスの交替というか、カオスに触れることによってコスモスが再生する構図を基本的にもつ宗教の伝統もある。
 本来の祝祭世界はカオスを拒まない。そういう眼からみると、本書には決定的に祝祭論を欠いている。
(p333)


(2022 10/14)

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