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「シルトの岸辺」 ジュリアン・グラック

安藤元雄 訳  ちくま文庫  筑摩書房


グラックは「半島」の作者として知っていたが、「シルトの岸辺」という本をみつけた。前者は白水社、後者はちくま文庫。まだ、どちらも未体験。後者の前半部分はあのブッツァーティ「タタール人の砂漠」に似ているとのこと。

シルトの岸辺


次の本は小説かなあ…それもまずは自分好みのものを…ということで、カリンティの「エペぺ」と悩んだ結果、グラックの「シルトの岸辺」にした。

 そのまどろみの上には一つの夢があらん限りの重みでのしかかっているかと思われる。その動きをいつまでも目で追っていると、持ちあげた敷石の下で無心に右往左往する蟻の動きを思わずじっと見つめてしまうときの、あの何ものかに魅いられた異様な感じが湧きあがってくる。
(p34)

 われわれを安楽な人生航路からそらすまいと守ってくれる、あの目に見えない磁石の針を狂わせてしまうものーいっさいの理屈をぬきにして、ある魅力的な場所、文句なしにそこにとどまりたくなるような場所をわれわれにさし示すものであった。
(p37)


じっくり読むのにぴったりな息の長い描写。なんでもないオブジェがなんだか作品のキーになりそうな感じ。ありがたいことに全くページが進まない(笑)。

ここで示されている大きな石が、どうやら語り手の上司であるマリノらしい…ってところか、今日は。

ちなみに、この作品取り上げる時に必ず併記され、比較される(傾向のある)ブッツァーティの「タタール人の砂漠」に関しては、とりあえず自分はあんまり意識せず、とりあえずこの作品に集中しようと思っている。あくまでも、とりあえず…
(2012 01/11)

灰色の中の色がついた舟


この文庫の表紙の印象もあり、作品全体が一面に灰色のイメージ。
舞台となっているのは、なんかベネチアを思い出させるような海洋都市国家オルセンナ。その緩慢な衰退にさしかかっている都市の倦怠に嫌気がさしてオルセンナ領域の最南端にある最果ての地シルトに軍務につく語り手。芦のような草が一面に生えているだけのこの辺境は、なぜだか寒いのか暑いのかよくわからない…
その灰色の中を、ただ一つだけ色がついて存在しているのが、対岸の仮想敵国ファルゲスタンと関わりがありそうな小舟…ただ、色がついているのは語り手自身の空想がそれを作り上げているのだ…という説あり。少なくとも語り手の友人にはそう指摘される。舟自体は確かに存在しているのだが…

 砂に呑まれた死骸が、一人の頭上に一人と、厳密な鉛直線をなして積み重なり、ずっしりとした重みがかかってくるたびごとに、その垂直の注列を地下へめりこませて行く。
(p92)

アドリア海の浅瀬の上に建てられたヴェネッツィアの土台の木組みも連想させる。幾何学的(無生物的な)表現の中に人の死骸が織り込まれてゆく。この異種混合な表現はグラックの特徴でもあり、特にあらゆる場面に執拗に海とその要素が織り込まれてゆく(のはマンの「魔の山」みたい)。
(2012 01/12)

シルトの岸にて


「訪問」の章から。

 彼女はむかしのままだった。うすい絹のように繊細なその顔のおもてには、情念や思考が形づくられるというのではなく、むしろ生れ出るのだった。
(p116)


ここなどは、グラックがシュルレアリスムから受け継いだと思われるところ。「生れ出る」・・・そんな純粋な泉のような知性を持った女性(別に男でもいいのだろうけど)など、そんな現実的にいないとは思うけど、そういうものを理想としているのにシュルレアリスムを感じる。
続いてp143の描写は、前に書いた「海とその要素を織り込んだ描写」の典型だといえる。

 人声が漠然と入り混じり、それが私の耳には、際限なく高まったり低まったりする潮騒そのもののように聞えた。私は自分がその人声の波をはね返す岸ででもあるかのように感じた。
(p143)


今、この文章を引用して初めて気づいたけど、「海の描写」の件とは別に、ここで「岸」という言葉、作品名で使われている言葉が出て来ている(「岸辺」と訳さなかったところは訳者の美意識か? 隠されたものが符丁する。それはあまり明示しない方が良い、という)。
ここでは個人の人格というものが独立して成立したものであるというテーゼを暗に批判しているような感じがする。自然や他人の言葉や思想、そういったあらゆるものが自分という「岸」に波としてぶつかり「岸」をつきぬけてゆく。人間の意識とはそういうものの総体である。そんな意思表明を控えめにしているのだろうか、作品名も。

 彼がここへ戻ってくるのは、眠りすぎるのが気持が悪いからよ。眠りがあまりに重苦しいと、誰でも寝返りを打って、寝床のもっと柔らかくない場所、くぼんでない場所を探すものだわ。
(p153)


これはこの作品のヒロイン(なんだろうか・・・)ヴァネッサ(ヴェネッツィアを暗示しているのだろう、後で重要な場所になるらしい島の名前も同じこと)の言葉。「彼」とは語り手アルドーの上司マリノ。だけど、アルドーが海図室に入っていろいろファルゲスタンのことを調べているのも同じこと。とヴァネッサは言う。このテーマは(あまり意識しないはずだったが)ブッツァーティーの「タタール人の砂漠」と共通かもしれない。

その共通のテーマとは「何かを待つ」「期待する」。オルセンナを離れ国外にいたらしいヴァネッサは、帰国して「人々に死相が現れている」と気づく(p149)。また、「特務機関員」のベルセンツァは「何かがうまくいっていない」と感じる(p141)。
こうした度々現れるものは、作品の中ではオルセンナという国の衰退という「運命」を表すものだといえるが、作品を外れて考えると重度の「期待」が裏返しになって「死相」になったのでは?と思う。
人間が期待する、その目的物が自分でもわからなくなった時、その待つものは「死」なのかもしれない。ブッツァーティーでも、グラックでも、砂漠や海の彼方を人はじっと見つめている。何かが来るのではないか、と。
(2012 01/13)

脳髄の比喩…発熱


今日は「発熱」の章。相変わらずグラックの比喩表現は意表をつき、長く執拗に続くのだが、だんだん比喩の連続があるリズムを形作るようになっていく。

砦の人員を普段は近くの農場にやっているのが、「近くに不穏な動きがありそうなので」との理由で、今回は農場側から拒否される。浮いた人員をどうするか。結局、マリノの部下の発案で砦の「清掃」ということになった。が、マリノはそれを聞いてなんだか不安?らしい。

精神力が奥に引きこもった感じで、逆にたち現れてくるのが砦そのもの。ひょっとしたら、この砦はマリノの脳髄の類似物、というよりそれそのものとされているのではあるまいか。自分の頭の中を見知らぬ人大勢で片付けられるのは、特に年を取ると嫌なものだ。
それに加え、この事業?で砦に活気が戻ったこと、白くなった砦そのもの、そして農場側が理由にした「不穏な動き」…倦怠の中で眠っていたかのような砦がさわさわと、ざわざわと…春の動き、戦争の予感。この章のタイトルである「発熱」とはこういうものを指している…いい章題。
(2012 01/16)

岬と何か


島行きと降誕祭…

 彼女はあの、岬の崖の上でいつ帰るとも知れぬ帆を待ち続ける、喪服姿の人影とそっくりの姿になった。
(p222)

幻想的な作品読む時よく感じるのだが、一幅の絵を次から次へ見せるためだけにこの作品の筋を作ったのではないかと、そうまた思ってしまう。
続いて降誕祭の章から。

 人間の深部の崩壊につけこんで何かあるものが抜け目なく発言しはじめた、とでも言おうか。
(p230)

 そしてこの埋没のうしろから何かがおもむろに身を起こしてくるような、そんな気持がしてならなかった。
(p237)


何か…って、何?
普段の意志でコントロールしている状態が崩れた時に吹き出してくるもの、ということだと思われるが、だとすればフロイトが「不気味なもの」で指摘した、それ、だろう。それ、をシュルレアリスムの人々?も重要視した…でも、この作品中では、それ、以上、アルドーという語り手の意識以上の包括的な、オルセンナ全体にかかっている気がします。前の日記で書いた「発熱」もその兆候ではないか。

続くヴァネッサとの逢い引きの場面では、息の長い表現が続くせいか「失われた時を求めて」との類似性を感じた。ひょっとしたら、グラックは「タタール人の砂漠」の筋(だけ)借りて、プルーストを模倣したかったのでは?ベネチアが鍵となっているし…
(2012 01/18)

様々な人間の現れと人間の定義、立ち現れる小説世界


今日読んだところは、「降誕祭」の章の後半。聖ダマスス教会での説教、ルドゥータブル号航海の準備(マリノの頭の中の延長のような船室)、そして(前に出て来た農場主の)カルロとの対話、など。
まずは降誕祭に湧くマレンマから。

 たとえば、微熱が出はじめるときの最初の悪寒に、かえってぞくりとする魅力を感じたり、あるいはもっといいあらわしがたい自己認識の感情を経験したりするようなものだ。
(p255)


マレンマの仮装行列?は異国風の(言ってみればファゲルスタン風の)人々も多く、それを演じる側も見る側もなんだか二重の意味を込めているらしい。もともとその衣装などは、イエスが東方からやってきたという故事に由来しているのだが。

この文章。あなたは悪寒に魅力など感じるだろうか? 普段何も感じずに日常を過ごしている時には意識もしてなかった、それでいながらずっと自分の中に共にいる何ものかが(また)、こういう時ふと現れる。その何ものかは、自分由来というか自分そのものであるのに、現れると自分ではない気がしてはじめて驚く(「不気味なもの」?)。それが「自己認識の感情」なのだろう。
驚いているのは個人だけではあるまい、オルセンナ自身も(というのが個人を国家(社会)に拡張したグラックの考えだろう)。

 自分の作ったものを持ち上げられなくなったら、それがつまり墓の蓋ってことさ
(p285)


これは農場主カルロの言葉。そんなに高齢でもないカルロがぐったりしていて、なおかつ自分の農場に火をつけようとした(だから要塞の人達を返したのか?)。その原因はここにある、と彼自身は思っているようだ。どうだろう、持ち上げられなくなるターニングポイントは40代か?

今、思ったけど、この言葉は人類全体に与えてもいい言葉でもある。人類はいろいろ文明を造りあげてきたけど、結局その文明によって滅ぼされる。戦争しかり環境破壊しかり。文明が人類の墓の蓋になるのはまず間違いないだろう。
結局、人は自分の中に他人(のような自分)をみつけ、自分に埋もれて死んでいく。崩れる自分と、そこから生まれる自分と。

(解説に「この小説の主題は「宿命」である」と書いてあったけど、自分の印象としては「宿命」より「人間」(の様々な現れ、階層を移っても人間的構図はそのままであるという(マリノ個人のレベルと、海図室もしくは船室のレベルと、要塞そのもののレベルと、それからオルセンナというレベルと))という気がする。人間は様々に定義でき、個人というのはそのほんの一例に過ぎない、とでもいったような)

で、次の章からは、ルドゥータブル号で沿岸航海へ向かうわけだが、そこでオルセンナの線を越えてしまう(人間の線も越える?)そこは確かにブッツァーティとは異なる次元・・・その後半へ。
(2012 01/20)

生まれる前の物語と生まれた後の物語


「巡航」の始めの方だけ読んだ(昨夜)。以前書いたように、ここからが踏み出してしまう後半部分。その最初に、語り手がこれを書いている時点からの視点がちらほら出てくる。前半部分ではほのめかしくらいにちょこっとそういう記述もあったが、ここのはまさしく予告。
(2012 01/23)

「巡航」「使者」と物語の後半が始まった。

 いま初めて、表現ということの意味が自分にあかされたような気がした。それは、生きていることを知らせることにほかならない。
(p339)


永らく死火山であった島のテングリが煙を吐いて、それに近づいて対岸のファゲルスタンから威嚇射撃?くらったアルドーらの船。これも永らく平和というか怠惰というか…の状態にあったオルセンナの眠りを覚まして、対岸との接触。象徴的にはこれは受胎なのではないか?と思う。生まれる瞬間の物語…「タタール人の砂漠」は生まれてからの物語…折り返し点は自分という存在。

その存在は存在していることを、まるでそれが奇跡であるかのように(違う?)常に知らせたい、という願望を持つ…らしい。人間はそういう他個体と過剰なほどの関係を持つ。それが「表現」の原点。
あと、今日読んだところでは、物語の発端の理由は忘れ去られ、皆物語の中へ没頭していく…という記述も面白かった。行ってしまえば、あとは自動…らしい。それもまた人間の一側面…

 みんなが一斉にとびこむ瞬間というものが来るんだわ…(中略)…たとえ死ぬにしても、船といっしょに沈むのは厭だから。生きたまま死骸に縛りつけられているくらいなら、どうなってもかまわないと思うから。
(p370)


ヴァネッサの言葉。ヴァネッサ発案、実行アルドー…という関係らしい。前章の「巡航」は。
沈みゆく船がオルセンナだとすれば、ヴァネッサにしてもアルドーにしても沈没する船から逃げ出す合図を仲間に出す鼠の役だったのかもしれない。合図を出す当人にそういう意図があったにしろ、なかったにしろ、一旦動き出した鼠の群れは止めることができない。人間もその点、鼠とあまり変わらない…
(2012 01/27)

誕生または憑依と、父と子


「使者」の後半と、「最後の巡察」。

 誰かが自分の体を通じてー誰だかわからない、ほんとうに誰だかわからないけれどー何かあることを望んでいる、それはたしかにあり得ることなのよ。怖ろしいことだけれど、・・・わかるかしら、これから生れようとするものを自分の体に感じるのは、それはまた、何とも言えず心が休まることでもあるのよ。 
(p387) 

 一度でも何かがほんとうに生れてきてしまえば、それはもう《たまたま起きた》ことではなくなるんだわ。その瞬間から、もうほかの見方はできなくなってしまうの。それが存在しなかったかもしれないなどということは、問題にならなくなってしまうの。それでいいのよ。 
(p388) 


ちょっと、ヴァネッサの言葉の引用が長くなったが、これがタイトルの前半部分。後の方の文の「存在するそれ」とは宿命のことだろう。何かを生み出すこと、生み出そうとするものを体の中に宿しているのは、そういう感じがするものなのだろうか?ここはヴァネッサという女性の立場でないとわからないのだろう。こうやって歴史は動いて来た。そういえば「宿命」とは「宿すいのち」と書く。憑依される心地よさ?? 

タイトルの後半は、「最後の巡察」の章から。最後になるのは自殺?したマリノであると思うのだけれど、多分アルドーもそれからこの砦自身にとっても「最後」になるのではないか。
この章は、農場主カルロの葬儀と巡察を通してずっとマリノとアルドーの対話。それが父と子の構図。マリノは最初の頃海図室でアルドーと偶然会った時、驚いたというエピソードが回想されるが、マリノにとってはアルドーの目つきに何か予感を感じ取ったらしい。平安の膜を取ってしまうような目つきを・・・そしてそれは現実のものとなってしまうのだが、でも、父親というものは子供に対しそういう感情を持つものなのだろうか? 
これで、「シルトの岸辺」も最後の「都の真意」の章を残すのみとなった。でも70ページある・・・
(2012 01/29)

現代社会は常時発熱状態…


いよいよ最後の章「都の真意」。果たしてその真意とは(前半)…
アルドーは家に帰った翌日と翌々日、オルセンナの都をいろいろと歩いてみる。

 いわばその情報は、池の氷のように刻一刻と固まって行って、その上を人が歩けるほどになってしまうわけであり、少なくともそれが気温の異常変化を証明していることだけは事実だった。
(p439)

 長いこと一つのゲームに遊び慣れ熟達してくると、精神がしだいにそのゲームの規則に屈服してしまい、自分がただあまりにも大きな犠牲を払って身につけたものだからというそれだけの理由で、それが精神をも押し曲げたのである以上その規則は木や石のように現実に存在するものだと思いこんでしまう
(p444)


どれも今の社会のことを言っている気がする。
気温の異常変化というところは、前に章の名前でもあった「発熱」を思い出させる。気温が上昇すると、気ぜわしくなるだけでなく、いろんなものが弛んでくる。ここでのオルセンナもそんな感じ。
後の文では、ゲームとは書いてあるけど、それはいわゆる遊びのゲームだけでなく、人が拠り所とするあらゆる架空の取り決めも含む。それなくては人は生きてはいけないけど、でもそれらが過剰になった時には…
この物語、ファルゲスタン側から見たらどうなのだろうか?

カノン小説…


ついさっき「シルトの岸辺」読み終えた。

世界というものはね、アルドー、誘惑に負ける人びとによって栄えるのだ。世界そのものがたえずゆさぶられることによってのみ、世界は正当化されるのだ
(p476)


自分は毎日、誘惑に負けているが…
それはともかく、この文は何も誘惑に負ける人々をけなしているわけではなく、どちらかと言えばその逆。禁断の知恵の林檎を食べたことが人間の始まり…誘惑というものはそこからついて回る。未来を想像し期待する能力がなければ誘惑というものも存在しない。
この言葉自体は小説の最後の章でいきなり?登場する老ダニエル(名前違う?)の言葉だが、この人物の小説構成の立ち位置が自分にはいまいちよくわからなかった…

 この小説は、その最後の章まで、決して火蓋の切られない一つの海戦に向かって、カノンの進行をする。
(p500)


解説にあったグラック自身の言葉。幾度も重ねて用いていた長い比喩も、動かなかった中盤から徐々に動きを得るために用いられる。
この小説の原動力はカノンか…カノンは大砲という意味もある。
(2012 01/30)

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