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「ディフェンス」 ウラジミール・ナボコフ

若島正 訳  河出文庫  河出書房新社


謎の始まり方


昨日夜遅くから、ウラジミール・ナボコフ「ディフェンス」読み始め。こんな始まり方。

 彼をひどく驚かせたのは、月曜日からルージンと呼ばれるようになるという事実だった。
(p15)


彼は父親(彼もルージン、姓なのだろうか)からそう言われたらしい。と、(当時のロシア人ならわかるのかもしれないけれど)よくわからないが、何か少年から成人になる通過点なのだろう。と、読み始めていく。

 そのひと夏というもの-すばやく過ぎていく田舎の夏は主に三つの匂いからできている。ライラック、刈ったばかりの干し草、それから枯葉の匂いだ-
(p15)


同じページからもう一箇所。それも文の一部分だけど、巧い文だなと思う。短いロシアの夏を動きをもって表している。

さて、話の筋は、どうやら息子ルージンはペテルブルクの学校に行かされるらしく、近くの駅に馬車で向かう。ペテルブルク自体には毎年行っているらしいが、今回は今までとは違うらしい。
ちょっと脱線。馬車で走っている時、集落の入口に消えかかっている立て札に「村の名前と「魂」(ドウシヤ)の数」が書いてある、これは…ゴーゴリの「死せる魂」で出てきた農奴のことだ…あと、この時代のロシアのそれも田舎の駅にガチャガチャがあったらしい(もっとも故障していた)。

さて、話は駅のプラットフォームに一人でいる息子ルージンが、プラットフォームの一番先から逃げ帰ってしまう展開に。

 そこで地面から立ち上がり、見覚えのある小道を見つけて、根っこにつまづきながら、仕返しのつもりで屋敷に帰ってやろうかとぼんやり思って走りだした。そこに隠れて、冬を過ごし、食料貯蔵庫にあるチーズとジャムだけで生きてやろう。
(p23-24)


いいねえ…少年の、後からそれだけは記憶に残っている、そんな体験(ここまでで充分わかっていると思うが、この一家は上流階級)。この叙情性は、実はロシア文学の一つの側面かも。
でも結局は屋敷の屋根裏部屋に潜んでいた息子は、両親他に捕まってしまうのだけど。

とここまでが第1章。実は、この前に作者のまえがきがあって、ナボコフらしい様々な仕掛けに溢れている。実際には存在しない場面をさぞあるかのように「似非書評家」に提示したり(p9の後半辺り)、最後に書かれた「桃の種」(p12)…これが小説中どこかに出てくるから探せ、と注に指示されている…見つけられるかな…
注といえば、これはナボコフの仕掛けではなく訳者若島氏の仕掛けなのだが、普通の注のようにその箇所に「*」など全く付いてない。ただ作品と訳者解説の間に注釈が載っているだけ。
それは置いても、ナボコフ作品の入口として読みやすい(少なくとも「青白い焔」とかより)。この作品の最大の特徴である、主題だけでなく作品構造自体がチェスに見立てている、という面を全く見逃しても楽しそうな予感。
(2023 01/30)

記憶、そして蛾と蝶

 このもの静かな少年は、…(中略)…学校時代のルージンはどんなだったか思い出そうとしても、背中しか思い浮かべることができなかった。教室で前に座っていて耳が突き出ている姿か、または喧噪からできるだけ遠ざかろうとして廊下のむこうへ逃げていく姿か、あるいは橇馬車で家に帰る時の姿だ-雪が降るなか、両手をポケットに突っ込み、大きな白黒斑模様のランドセルを背負って…。走ってルージンを追い越し、その顔を見ようとしても、忘却という特殊な雪が、豊かに音もなく降る雪が、記憶を不透明な白い霧で包み込んでしまうのだった。
(p34)


この小説の隠れたテーマの一つは記憶ではないだろうか。この「もの静かな少年」は今日読んだところ(第4章まで)でもう一回出てくる。
第3章は息子ルージンとチェスの出会い。

 チェスがいかにもろいものかを知ったのは、ルージンにとってこれで二度目だった。
(p57)


一度目は叔母との対局。ここの「チェス」はなんとなく性的な匂いも含意されていそう。
第4章はチェスの海外大会に出るまで。といっても14歳らしけど。

 太鼓腹をして毛のふさふさした蛾が、目を輝かせながら、ランプにぶつかってテーブルの上に落ちた。庭にそよ風がかすかに吹きわたった。客間の時計が上品な響きで十二時を打った。
(p77)


この小説(恐らく他のナボコフ作品も)は、細かい描写が楽しみの一つ。ここなど、蝶採集の経験も生きているのだろう(蛾と蝶はロシア語では同じ単語なのか)。

 そうしたすべてが妄想に加わり、幻影のようで、ぐらぐらして、たえずばらばらになる盤の上での途方もない対局のようなものの形を取った。
(p83)


身の回りの風景などが、全てチェスに関わりのあるように思えてくる。これも精神疾患の始まりなのだろうか…という読みはナボコフから見るとこじつけで、実際は何かにつけて読者にチェス要素を植え付けようとする、作者のサービス精神?なのかも。

第4章では後年の息子ルージン(といっても30代らしいが)、この海外遠征?の旅で訪れたホテルなどに再訪する姿を見る。この30代ルージンは、この小説の出来事を全て経験した後の神の視点を不完全ながら持つ人物なのだろうか、それとも小説の途中で引き抜かれて放り込まれた人物なのだろうか。
(2023 01/31)

母の名前の謎


今日は第5章。章の冒頭で息子ルージンの母が亡くなったことを、父が付けている喪章で知らされる(第4章最後で、何か電報を父ルージンが持って叫んでいるシーンは、母の死の知らせだったのか)。
と始まったこの章、10ページほどの短い章で、その最後は父ルージンのあっけない死。
ここでは今のところのポイント2つ。

1、母の名前の記載無し。最も「ルージン」というのも姓だか名前だかよくわからないけれど。母の場合はそれすら無い。それから浮気者らしい夫とどんどん遠くなっていく息子、どちらからも繋がりは無く、孤独を感じている。この作品の映画化「愛のエチュード」では、彼女にスポットライトを当てて、名前も付けて、息子のチェスの試合に協力したりもする、という。そういう物語が可能だ、ということは、逆に言えば、何故この小説の母には名前がないのか、という問いになる。

2、父ルージンは第5章において、息子ルージンのチェス試合行脚の小説を書こうとしている。ここでいつもながら心配になるのは、今読んでいるこの「ディフェンス」という小説自体が、それ(すなわち父の書く小説)ではないか、という疑念。それとも、こういう構造のチェスの技でもあるのか。まあ、ナボコフの場合そういう大雑把な?展開ではなく、もっと緻密な構造を作っているとは思われるが…
(2023 02/01)

はっきりかつぼんやり

第4章p85で「こぼれてしまう」云々言っている、その場面から始まる第6章。ここではルージンのフィアンセ?が登場する。ポケットに穴が開いていたらしく、たてつづけに何かを落としながら歩くルージンの後を歩く彼女(こちらも名前は書いていない)。

 彼女はハンカチと硬貨だけ拾って歩きつづけ、ゆっくりと追いつきながら、また何か落としはしないかと奇妙にも期待していた。
(p102)


これも何かのチェスの技というか手筈なのだろうか。

 彼に比べられる人間といえば才能を持った奇人か音楽家や詩人くらいのもので、そのイメージはローマ皇帝とか宗教裁判官とか喜劇に出てくる吝嗇家みたいにはっきりかつぼんやりしていた。
(p104)


なんだ、その「はっきりかつぼんやり」って…まあ、読者のルージン感もそんなとこだが。次のp106辺りには、ロシア革命前後のロシアから見たフィンランドという、これまで自分は意識してなかったテーマが垣間見られる。

 おそらくは木造の別荘や、樅の林や、水面に松が黒く映っている湖に浮かんだ白いボートがとりわけロシア的で、国境の向こう側では禁じられている宝物のような気がするからだろう。
(p106)


ここの場面は、レオニド・アンドレーエフという作家が元になっている、と注に有り。
続いては、ルージンの「目隠し対戦」。

 その代わりに、あちこちの架空の枡目をはっきりとした集中的な力が占拠しているのがありありと感じられ、駒の動きは発射として、衝撃として、稲光として見えてくる-そしてチェスの場全体は緊張でふるえ、その緊張を彼は統括し、あちらで電気的な力を蓄えてはこちらで発散する。
(p108)


たぶん、ナボコフが作品書く時もそうなのではないか。その時は駒は人間で、その様々な動きにより何かの電気的な力が、人間社会の引き合い方に現れて変容していく。

 彼女がはっきりと悟ったのはそのときだった。この男は、好むと好まざるとにかかわらず、人生から追い出すことのできない人物であり、どうやらもう長いことどっしりと腰を落ちつけて動かなくなってしまったのだと。
(p122)


自分の陣地に入ってきたキング?
この辺り、ルージンを彼女の母親に紹介する場面の、彼女の頭の中のリハーサル。ちょっとだけモラヴィア「倦怠」の、彼女の家とか亡くなった画家の部屋などの家具の配置についての記述が多かったのを、思い出させる書き方。
(2023 02/02)

枡目と明滅の先回り


今日は第7章(短い)、第8章(長め)の途中まで。

 陽光で斑に染まった遊歩道を散歩するのは忘れがたい体験で、心地よい日陰には先見の明がある天才によってあちこちにベンチが置かれていて、その忘れがたい散歩のあいだ、ルージンの足どりの一歩一歩が侮辱のように思えた。
(p134)


斑とか格子とか…をルージンは素早く察知し反応してしまう。太っていてすぐ息を切らすルージンが、この時の散歩では突然とんでもない早足になる…それが特にフィアンセの母親にとっては「侮辱」に感じられる。この他、今日読んだところでは、p141の電灯に光った絵画、p146のケーキの上のチョコとクリームの枡目、そしてルージンの幻視で枡目を描く陰(p151、152)。この幻視の他に、ルージンは人と対話している時に、ズレというか相手が何を期待しているのかをわからず話すことが結構ある(典型的なのはp143からのフィアンセの父親との会話)。

 そしてそのころには、チェスとフィアンセの家との境界がもはや明瞭ではなくなり、まるで動作の速度が増したみたいで、最初のうちは入れ替わる画面のように見えたものが今では一つの瞬きになっていた。
(p149)


これもルージンの幻視(イリュージョン…ルージンという名前の由来)であるが、こうしたこの頃出てきた映画のような視覚への拘りは、ナボコフ特有の読みどころ(前に読んだ「マルゴ」とか)。

 しかしこの夢の最も驚くべき点は、まわりすべてが、明らかに、眠っている者自身がはるか昔に捨て去ったロシアであるところだった。
(p158)


夢のロシアとチェスの現実(p159)の明滅。ロシアの方はこの章最後に関わってくる。このチェストーナメント、宿敵とも言えるイタリア人トゥラーティとの対戦。音楽用語を交えながら描く文章は、チェスの試合説明とか抜きで嵐のような書きぶり。

 ルージンの思考は魅惑的で恐ろしい迷宮の中をさまよい、ときおりそこで同じものを必死に求めているトゥラーティの思考と出会った。
(p165)


ルージンの怒涛の思考とともに揺れ動いた読者は、試合の終了(?)らしいのに全くわからないルージンとともに放り投げられ、ルージンとともに屋敷に帰ることになる。しかし帰り道が何かおかしい。

 もう道の半分は過ぎている。まもなく川に出て、製材所に来れば、葉をつけていない灌木の隙間から屋敷が顔をのぞかせるはずだ。そこに隠れて、大小さまざまなガラス瓶に入っているものを食いつないで生きていこう。
(p169)


先程見た「はるか昔に捨て去ったロシア」、第1章で駅から抜け出して屋敷に隠れた時の考えが甦ってくる。ただ、今回はその途上で何ものかに押しつぶされて失神してしまう。
第8章読み終わり。
(2023 02/03)

海辺の小石の数と空っぽのエレベーター

第9、10章。
第9章はトゥラーティとの対戦で疲れ、帰り道で倒れたルージンを、酔っ払った二人の若者がフィアンセの家に連れてきて(例のルージンのポケットに入っている葉書の住所から)、ルージンを入院させるまで。
気になるのはp177の「たちまち彼らは…」から「しかししばらくすると彼らも姿を消し」までの「彼ら」とは何かというところ。このすぐ後で若者二人は家を出て行くのだけどそれとは違うし、ちょっと前に書いてあったこの家に出入りしている様々な人々のことかとも思ったけれど、何か書き方違う。印象としてはネズミとかそんなイメージ。ルージンに少し戻ったチェスの記憶?

第10章は、チェス小説の反対側の白眉の章だろう。この後、表の筋でまた別の白眉が待っているのだろうが。

 ときおり不思議な内部の動きで皺が寄る、この薄く黄色がかった額の奥を突き抜け、のろのろと揺れ動きおそらくは分離して一個の人間の思考へと凝縮しようと懸命になっている不思議な靄を突き破りたいと、ひたすら願っている者にとっては。
(p188)


ここからルージンの回復の再生の描写が始まる。意識を描く一つの精妙な語り口。
p189には、「ぼくは昔あの木々の下に何かを埋めたことがある」とルージンが思うシーンがあるけれど、ここはひょっとしてまえがきp12で言及のある桃の種なのか。
ルージンの回復の物語に時折現れるチェスとトゥラーティの「影」。それを排除しようとフィアンセや精神科医は気を配る。

 チェスに熱中している人間は、永久機関を発明しようとしたり、誰もいない海辺で小石の数を数えている狂人と大差がなくばかげているという。
(p193)


ここで気になるのが、「海辺で小石の数数えている狂人」。何か昔浜辺で砂の数数えながら狂っていった高名な物理学者の話を聞いたことがあるのだが。

 記憶を言葉で表現するのは不可能だ-子供のころの印象を表す大人の言葉はまったく存在しない。
(p195)


言葉の代わりにあるのは何事かの印象。ウルフなら「像」というだろうか。
なんらかの記憶。ペテルブルクの家でエレベーター(「古くさい」水力式エレベーター)に乗った太ったフランス人女家庭教師を待つルージン少年。しかしエレベーターは途中で止まってしまう。管理人がレバーを動かしやっと動き始める…

 ついに何かがたがたと揺れ動いて、しばらくするとエレベーターが下りてくる-中は空っぽだ。誰もいない。
(p196)


記憶というのもそういうものだろうと、ルージンあるいはナボコフ(ここはたぶん同じでいいかと)は言う。それでも語ろうとするのが人間なのだろう。

 あの遠い世界はもう二度と反復不可能になったみたいで、そこから今ではすっかり我慢できるものになり
(p197)


そして切り離された世界の中には、触れると危険なものも含まれる。フロイトに対し愛憎ありそうな(この辺よくわかっていないが、まえがきとか見るとやはりそうなのかも)ナボコフだが、それほど遠くない立ち位置にいるのかも。
p199からの文学談義(額面通りには取れないだろうけど、完全に真逆でもなさそう。ナボコフはこの精神科医をどう描いているのか、思ったよりも好意的なのかも)

コンビネーション


第11章
ルージンとフィアンセの結婚。ちなみに次章から?は「フィアンセ」から「ルージン夫人」となる。この小説の個人の名前については、もっと情報必要…
(ここも細かくいろいろ違う…下記「ルージン夫人の呼称まとめ参照)
新しいアパートでは、長く部屋が連なる「望遠鏡のような」間取りと、電灯の紐についている「ふわふわとした小悪魔」がポイントになるのか。

 彼女は多少の不安を覚えつつ、女としてできることの限界はもうここまでで、自分が導くわけにはいかない領域がまだ一つ残っているのを思い浮かべた。
(p218)


秋草氏のナボコフ論「ナボコフ、訳すのは私」では、この小説のテーマは「父と子」であるらしく、ここで考えている「領域」とはたぶんそこなのだろう。

 ごぼごぼ音をたてて排水される浴槽の湯が、突然きーっという音になって、それからすっかり静かになった。浴槽は今や空っぽで、排水口にだけ小さな石鹸まじりの渦巻きが残っている。
(p219)


こういう異様に細かい描写がナボコフを読む一つの愉しみ。

そして第12章。亡命ロシア人の舞踏会。そこでルージンは子供の頃の同級生に会う。

 しかし、恐ろしいのは出会いそのものではなく、何か別のもの-すなわち、解き明かせねばならない、出会いの秘かな意味であった。彼はシャーロックが煙草の灰を相手にしてやってみせるように、夜になるとその問題を熟考しはじめた-そして、このコンビネーションは最初思ったよりも複雑で、ペトリシチェフとの出会いは単に何かの継続手段であり、もっと深く考え、病気から舞踏会に至る彼の人生の差し手をすべて元に戻してもう一度再現することが必要だと次第に思えてきた。
(p241)


前のp197の文章で切り離された世界と接続する経路ができあがったために、何か暗いものがルージンの中に入ってくる。ルージンは熟考し再現しようとしているが、その考えの道筋(の記述)自体がその答えになってはいないか。そう、既にルージンはチェスの思考に沿って考えている。本人がそれとは気づかないのに関わらず。

あと、この文庫の訳者解説では「避けられた」、コンビネーションの愉しみ(この言葉は「青白い焔」で出てくるらしい)、単行本の解説に載っているかチェック要。
(2023 02/04)

枡目模様の只中へ


第13章

 そこから逃れなければならないが、そのためには相手の最終的な目的というか、破滅的な方向を予測する必要があり、それはまだ無理な話だった。そしてこの反復がこれから先も続くと考えることはあまりに恐ろしくて、人生の時計を止め、対局を永遠に中断して、凍結させたい誘惑に駆られ、それと同時に、彼は相変わらず存在しつづけ、ある種の準備が着々と整いつつあり、それは忍び寄るような展開で、自分にはその動きを止めるだけの力がないことにも気づいた。
(p257-258)


後半のテーマの一つは「反復」か。そしてこの文章はナボコフがこの小説の構成原理を明かしている箇所とも言えそうだ。

第14章
p280、ゴーゴリ「検察官」への言及。「死せる魂」と同じくこの小説の原型。

 運命の鍵穴をのぞきこんでいるような嫌な気分で、彼女がかがみこんで自分の未来を見てみると-十年、二十年、三十年先だ-、まったく同じで、なんの変化もなく、むっつりとかがみこんだ同じルージンと、沈黙と、絶望だった。
(p281-282)


ここでも「反復」のイメージ。そしてこの時彼女は自分のルージンに対する努力が全く報われることがないことを自覚したのだろう。
最後には、またヴァレンチノフが登場し、チェスの映画を撮ると言い張る。そして紙切れを渡す。それはヴァレンチノフ作、チェスプロブレム。「自殺詰」? ルージンの本当の対戦相手である作者ナボコフがこれからの手を見せてくれたのかも。ルージンはそこから逃れて家に戻る。
家に戻ってきた時(p301)、今まで「ルージン夫人」と呼ばれていたのが「妻」と変わる。これは何故か。
(ごめんなさい、p292から「妻」でした、下記「まとめ」参照)

逃れられない-あるいはチェックメイトだと気づいたルージンは家に戻ると、ポケットの中のものを全て出して(ポケットとその中のもの、というのもこの小説を読み解く一つの切り口だろう-そして、ここ(p304)では、あの「桃の種」が出てくる…幼い頃木に埋めたのではなかったのか、あるいはそれを全能の対戦相手ナボコフが取り出してルージンに渡したのか)、部屋に閉じこもり飛び降り自殺を図る。

 やっと決心すると、椅子の脚をつかんで持ち上げ、その縁を破城槌代わりにして叩きつけた。何かが割れる音がして、もう一度椅子をふりまわすと、突然黒い、星形の穴が磨りガラスに現れた。
(p306)


最後のページの枡目模様(後述)の文がやはり注目されるが、この文章もやはりどこかおかしい。自分で磨りガラスを割っておいて、「穴が現れた」というのは…それに星形…これもゲームから逃れる通路? しかし、ルージンは太っていてここからは通れない…
そこで上の窓へ…

 手を放す前に、下を見た。そこでは何かあわただしい準備が進行中だった。窓の反射光が一つに集まり一様に広がって、深淵全体が濃淡の枡目に分けられたように見え
(p308)


最後の市松模様、そしてルージンがいなくなってから、父性と名前が叫ばれる。

テーマと余談

「ディフェンス」はナボコフの長編第3作(1930)。ロシア語で書かれのちにマイケル・スキャメルと英語に共訳(「賜物」も同じコンビ)。

先述のルージンが最後に見た市松模様は、飛び降りた先にも、結局またチェスが待っているという解釈もあれば、若島氏がとりたいと言っているルージンを虚構世界から救い出して作者ナボコフの手元に出てきた(先のp306の文章のところの自分の文はそれに沿ったもの)。p320にある、この作品を書いている時のナボコフの写真には、市松模様のカバーをかけた机が写っている。自分的には(市松模様は関係ないが)、チェスとか記憶とか反復とかいろいろなスパイスを効かせた風俗小説ではないか、という気もする。旅行パンフレットとか映画とかほかにもいろいろ…ナボコフ作品は実はこういう側面が(他の作品にも)結構あるのでは。

新潮社「ナボコフ・コレクション」の「ルージン・ディフェンス 密偵」は、杉本一直訳のロシア語版からの翻訳。

あとは余談?
訳者若島氏は実は自身がチェスプロブレム作者…この翻訳もそれが機縁になったという。

この作品、1929年に蝶を追いかけてピレネーの温泉地ル・ブールーに滞在した時の着想だという。2月に着想して8月にはだいたい仕上がったらしい。それはともかく、ピレネー、蝶と言って思い出すのは「アコーディオン弾きの息子」。年代的にはちょっと重ならないけれど、アチャガがナボコフを意識していたのは確かだと思う(がなあ)。そう思うと、両者「ディフェンス」と「アコーディオン弾きの息子」にはいろいろ共通点もある。亡命、そこで巡り会えた女性、しかしその相手に知られない過去、記憶と切り離された現在、そして何より主要テーマである「父と子」。状況証拠は揃っている…

単行本版「ディフェンス」とフィアンセ呼称まとめ

ここからは今日借りてきた単行本版「ディフェンス」(1999)から(実は先の若島氏がチェスプロブレム作者だという情報はこっちからのもの)

文庫版では省略されていた「コンビネーション」。ルージンとルージン夫人とのつながり。
1、同じ地理の先生(ヴァレンチン・イヴァノヴィッチ)に習った
(ここには書いてないけど、地理というのもこの小説の隠れテーマの一つかも。p196のエレベーターのシーンで不意に現れるオーストラリアと黒海、グリーンランドの地図形式による違いから始まるルージンの地理談義(p221-222)などなど)
2、ルージンの同級生の「もの静か」な男とルージン夫人はテニスをしたことがある(読み飛ばしたな)
3、ルージン夫人が読んだことのある子供向けの物語は父ルージンが書いたもの(ここはなんとなく…)
後、父ルージンとルージン夫人とのつながりからも一箇所。父ルージンが夢に見る、夜神童がピアノを弾いているという図は、のちにルージン夫人が借りるアパートの壁の木版の図となる。
というところ。
あとはちょっと気づいてしまった改版点。トゥラーティが単行本ではトゥラチになっている。

ルージン夫人の呼称のまとめ?。
最初はフィアンセだが、結婚した直後、第11章p214、第12章p221の2箇所では「ルージン夫人」となっている。「妻」の初出はp215の2箇所の「ルージン夫人」の間。「ルージン夫人」が再登場するのは第13章p242。「妻」が戻るのが第14章p292。ちなみに単行本と文庫ではたぶん変わりはない。というかまだ漏れあるかも)。
(というか、そこまでこれ意味あるのかな?)
(2023 02/05)

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