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「倦怠」 アルベルト・モラヴィア

河盛好蔵・脇功 訳  河出文庫  河出書房新社

「プロローグ」

冒頭は絵描きが描きかけのカンヴァスを切り裂くシーンから始まる。
そして、語り手たる(モラヴィアの作品って前に「侮蔑」読んだけど、一人称だったかな?)ディーノが、作品タイトルを明確に定義する。

 私にとっては、倦怠とは一種の現実感の欠如、不充足、もしくは稀薄な状態なのである。
(p9)


これに続いてこの倦怠を、語り手自らわかりやすく例えていく。冬の夜に短すぎる毛布で寝ているような感覚、また家の中での原因不明の停電(家の物が突然闇に沈む)、そして…

 ちょうど、きわめて急速な連続的変化によって、一つの花がつぼみをひらいたかと思うとたちまちにしぼみ、そして散ってしまうのを見るようであった。
(p9)


これまでの二つの例えが実感としてわかりやすいのに対し、この三番目の例えは少々実感しにくい。でも、この後のコップの例えにつながることをみると、語り手の中で重要なのはこの三番目の例えのように思える。

語り手ディーノの父は、母から「徘徊症」と言われるように常にどこかへ行ってないと気が済まない人物(その結果、日本で船が転覆して亡くなったという)、母はアッピア街道に別荘を持つ資金家。母は息子ディーノに対し、父と同じ素質を見出すが、ディーノにとっては違うものらしい。

 私たち人間の考察というものは、それがもっとも理性的なものであっても、感情の漠然とした基盤から生み出されるものなのである。そして、感情から解放されることは思考から解放されるほど容易ではない。思考は行きつ戻りつするが、感情は踏みとどまるからである。
(p21)


では、感情と理性あるいは物との乖離が倦怠の内実なのか。これを手がかりに第1章へと進む。
(2022 02/08)

第1章


放蕩息子のパロディ
まず、特定の場所とそこに結びつく感情について。

 その道を入って行きながら、私はまるで私を生みだした胎内にふたたびもぐり込んで行くような気持ちがした。到着の合図にやたらとクラクションを鳴らしながら、私は自分が退化していくような、いやな気持ちをまぎらそうとした。
(p27)
 私はその書斎に行くのがあまり気が進まなかった。むしろ入って行くのを避けたかった。よく感じることであったが、その書斎は、私の肌に合わない何かの宗教の寺院に似ているように思われたからであった。
(p62)


「私」は、自分の誕生日に母親の別荘へ行き、「もう絵はやめてここに住む」と何故か言ってしまう。それは「私」の意識からすると、何か別の人が言っているような感覚なのだが、しかし紛れもなく「私」本人が言っている。ここから逃げたい気持ちとここにいたい気持ちの相反。尋問調の母親への細々した一日の生活への質問もそれを感じ取れる。

この母親に感じる「実生活のくびき」なるものを「私」は避けたがっている。それに結びつくのが上の2つの文に挙げられている場所。そこからずっと逃げている人物を「放蕩息子」と呼ぶ。
聖書には放蕩息子の記述がある。悔い改めた放蕩息子を老父は歓迎して子牛を屠る。「私」はそのパロディ版を話す。放蕩息子が帰ってきた時、子牛は何が起こるか悟って家を出て行く。老父は子牛がどこかへ行ってしまって困って帰ってくるのをひたすら待つ。やっと子牛が帰って来た時、老父は喜んで、帰ってきた子牛のために息子を屠る…何か「私」が意図していること以上の、物語全体を示す図式なのではないか。
とにかく、第1章最後で「私」は別荘を飛び出していく。
(2022 02/10)

第2章

 だが、倦怠を感じているときに、何かをずっと考えつづけることは容易なことではない。私にとって倦怠とは一種の霧のようなもので、その霧の中に絶えず私の思考は失われて行き、ただときどき現実の、ある断片がちらりとほの見えるだけであった。ちょうど濃霧に包まれたときに、家屋の一部や通りすがりの人の姿やそのほかの物体が一瞬目に映ったかと思うと、たちまちに消え去ってしまうようなものであった。
(p76)


またプロローグのローマのアパートへ戻り、同じアパートに住むバレストエーリという老画家と、そこへ向かう多くの女の話になる。元々は様々な種類の女を連れてきていたが、やがて若い女だけになり、そして決まった一人の女だけになった。そして、第1章の母親の別荘から戻ってきた時に、バレストエーリは亡くなり簡素な葬儀が行われていた。話をいろいろ聞いてみると、どうやらバレストエーリは、その女との「行為」の絶頂に亡くなったらしい。

上の文章を読むと、「倦怠」とは自分が想像してたよりもっと症状が重いものではないか、と気づく。たぶん起きている時にも自己意識が間欠的になるのではあるまいか。

 バレストエーリはおそらく一種の狂人であった。だが、その狂気は、その絵が示しているように、自分が現実とつながりを持ち、自分が賢者であると錯覚していることにあった。それに反して、私はそうしたつながりを持つことは不可能性だと深く確信しているがゆえに賢者である、あるいはおのれを狂人だと信じているがゆえに賢者であると自分の心に言わざるを得なかった。
(p85)
 彼女はあの表情のない目でじっと私を見つめた。その目はまるで外界の事物を理解せず、おそらく見もしないで、ただ映しているにすぎない二つのぼやけた鏡のようであった。
(p93)


彼女もまた「倦怠」症?に罹っているようだ。ただし語り手の「倦怠」とは真逆の方向性のような気もする。
(2022 02/11)

 バレストエーリにとってはきみははなはだ現実的なものであるばかりではなく、むしろ彼が価値を認めた唯一の現実そのものだったんだ。
(p107)


要するに、バレストエーリは「倦怠」は持たずに済んでいた(が語り手ディーノは「倦怠」症が強い)ということのようだ。ディーノは一回は彼女を部屋から出すが、すぐに呼び戻す。第2章はここまでで、第3章からは「倦怠」を脱出するための、彼女(チェチリア)との特訓?が始まる(のか)。
そういえば、チェチリアとはフランス語ではセシル(「心変わり」)なのだよね、たぶん。
(2022 02/14)

第3章

 愛の行為の後でのチェチリアの私に対する無関心な態度というものは、私を苦しめ、私が倦怠と呼んでいるあの感情によく似た全然つながりの欠如した状態にすぎないのである。だが、チェチリアの場合は、私とはちがって、全然それを苦にしていないのみか、それを意識してもいないようであった。つまり、彼女は生まれつきこうした事物から切り離された状態の中で育ったかのようであった。
(p122)


前に、語り手ディーノの「倦怠」と、チェチリアの「倦怠」は逆向きなのでは、と書いたけれど、こうして見ると、逆向きというより、一方はその倦怠の中に入り込んではみ出る部分がない、ということらしい。それは彼女の生涯通してか、あるいはなんらかのきっかけ(トラウマとか)があってそうなったのか。

倦怠はサディズムを産む。第3章の最後には「お預け」のようなことをして彼女を焦らすことをしていた、章最後に「残虐なことをしたのはこの時一回だけだった」と語ってはいるが、果たして本当にそうだったのか。
(2022 02/16)

第4章

昨日読んだところでは、語り手は、また母の別荘へ行き金を貰う。そしてチェチリアへのプレゼントとしてハンドバックを買って、アパートへ戻ってくる。

ここから今日の読み。残り10ページで奇妙な場面が次々展開する。アパートの長椅子に横たわっているうちに眠ってしまう。「歯で金属製の棒でも噛んだよう」な感覚を覚えて、起き上がると夕方6時。チェチリアが来る5時は過ぎている(彼女はいつもは時間は守っていた)。

 それまではチェチリアは、前にも言ったように、私にとって何物でもなかった。ところが、彼女の遅刻によって、彼女が何かになったのがわかった。しかし、一方この「何か」はその実態を持つと同時に、悲しいことに、私から逃れ去っていったのであった。つまり、結局チェチリアは来なかったからであった。
(p158)


「失われた時を求めて」のアルベルティーヌと比較してみたい…そちらは途中で止まっているけど…こうして「何か」に実体になった時、語り手は倦怠から抜け出る。チェチリアの家に電話をするが、誰かが取って、あえぐような息の音だけが聞こえ、そして無言で電話を切られる。それが二度、三度目は電話を取りもしない。不愉快な気持ちが残る。

と、同じ感情を抱いていたのかと、バレストエーリの部屋に入る(鍵はチェチリアから預かっていて、部屋の調度や電話は未亡人が来る予定でそのままにしてある。電話代の領収証を見ていると、あろうことか電話が鳴る、そしてあろうことかディーノは電話を取る。最初はチェチリアの声かと思ったディーノだが、別の女ミリーだとわかる。このミリーはバレストエーリが死んだことをまだ知らない様子。

 その寒さは骨まで浸みとおった。それは墓穴が寝室であるような、または寝室が墓穴であると言おうか、そんな濁った、死の匂いのする、一種独特な寒さだった。
(p164)


墓穴が寝室、寝室が墓穴…というアナロジーの入れ替え表現が、前の部分と後の部分にズレを感じさせる、巧みな表現。
この電話の場面は、前のチェチリアにかけた電話の場面の反映であって、さらにまた第3章の「残酷なお預け」行為の中で電話の受話器を上げさせに向かわせた場面の反映でもある(ただ、携帯電話が普及した今、自分より若い世代ではこの場面が理解しにくくなっている可能性もある)。

第5章

 私を愛しているチェチリアは退屈に、つまり非現実的なものに感じるのだが、それに反して私を愛していないチェチリアは、私の目には、私を愛していないということ自体のために、それだけいっそう現実感をもって映るからであった。だが、やはり、私はチェチリアが私を愛しており、したがって彼女と手を切るという私の決心を変えなくてもいいというふうに考えたかった。というのは、すでに言ったように、彼女に倦怠を感じないという、つまり彼女を現実的なものとして感じるようになるという考えには、私は心の底で一種の恐怖を、とうてい私には直面できそうにない試練に面と向かうような恐怖を覚えたからであった。
(p166-167)


長くなったけど…これまでのまとめ、のような文章。結局、倦怠から抜け出るのが怖いのね。
所有についての二つの文。

 性行為によって所有感の充足を確認する以前にすでに所有されている、所有されている、だから倦怠を感じさせるのだ、と私は考えた。
(p183)
 所有という意識は所有したほうの者ではなく、所有された側の者のみに感じられる意識なのかも知れない。
(p185)


p183の文は「所有されている」が確かに二度繰り返されている。所有した側はそれが完成した時点で倦怠を感じるが、所有された側は倦怠ではない…とすれば何か。前にチェチリアの逆向きの倦怠と書いたけれど、それは倦怠ではない別のもののようだ。
ディーノは(忘れがちだけど)画家なので、時折、そこからの話題が出てくる…というわけで、部屋にあった本から、カンディンスキーの「空白のカンヴァス論」

 空白のカンヴァス。一見空白で、沈黙し、冷淡に見える、まるで驚くほどに。だが実際は、それは緊張にみち、その下にさまざまな声を秘め、期待にふくれているのである。いまにもおかされるということにいくぶんおびえているが、従順である。要求することは快く受け入れ、ただ恩寵のみを願っている。すべてのことに堪えることができる。しかし、すべてを同時には支えられない。素晴らしきは空白のカンヴァスである。どんな絵よりもはるかに美しい
(p169)


カンディンスキーの絵を思い出しながら読むと効果百倍…画家とカンヴァスは、男性と女性、所有するものと所有されるものとの対比を内に含む。ただこの図式をただ披露するだけの作品ではないことも確か。
ここまでで、だいたい全体の半分…

ここで、ビュトール「心変わり」のセシルとの比較…セシルはチェチリアよりも能動的に語り手を愛しているように思える。ただそれより「心変わり」はセシル側への思想の踏み込みが殆どない、というか隠しているように思える。では「倦怠」はチェチリア側に踏み込んでいるのか、いやあくまで「画家」側の図式で考えているにすぎない、隠しているというより関心が別のところにある、といったように思える。
(2022 02/17)

第6章


ディーノがチェチリアの家を訪れる。ここでディーノとともに読者も「深読み」したことを一つ反省。ディーノがチェチリアの家に電話をかけた場面で、先方で電話を取ったあと何かの息か喘ぎのような音が聞こえたあと電話を切る、ということがあったが、これは性行為ではなく、チェチリアの父親が病気で声が出ないという理由だった。語り手に(というか作品の思い込みに)のせられたことに反省…
さて

 一言でいえば、貧しい人の住居というよりもむしろ野獣の巣窟を思わせるような飾り気のなさであった。
(p206)


この次のページにも似たような表現の文がある。例えば天井の穴がそのままにしてあるとか。ディーノの恵まれた目線半分、チェチリアの自分をかえりみず情欲に突き進む生き方半分、といったところか。

 そしてそれもチェチリアがまるで自分の家の家具のあいだに夢遊病者同様に、というか、家族のことなどまるで意識にないかのように、家具の中にいる様子を見れば、もっとも至極なことに思えた。
(p219)


といっても、これはちょっと悪意が入ってそうな…
それもともかく(前のディーノの「尋問」でチェチリアはほとんど家の家具について話せなかった)、家具は所有しているから何の意識の対象にもならない、というのがディーノ流「倦怠学」の理屈でしょうか。単に表現としても面白いけど。

というわけで、第6章終わり。作品筋とは関係なく、このチェチリアの両親そのものがなかなか興味惹かれる。病気でなくとも尻にひかれてそうな父とやり手の母。だけど母の父に対する見立て(p218 一日中考え過ぎだという)は結構当たっていて、それ故、バレストエーリのことが気に食わないらしい。
また出てくるのかな、この二人…

第7章


この小説は電話が重要な意味を持つ、と前に書いたと思うけれど、ここまで来ると「電話小説」といってもいいくらい。

 電話は連絡の道具であるが、私には連絡することを妨げるものであり、監視のための道具ではあるが、何もはっきりとしたことは知り得ないものであり、使用法の簡単な自動的器械ではあるが、しかしたいていの場合はあてにならない、気まぐれな道具なのであった。
(p233-234)


とにかく、電話を使ってありとあらゆる手を使って、ディーノはチェチリアの性交の相手を確定させようとする。けれど、チェチリアも電話も気まぐれ…
…といったところまでが、今日読んだ分。
(2022 02/18)

 生存中は私が注意を払わなかったその老画家は、その死後、私にとってはとってはなぜか恐ろしいほどに私をひきつける存在となった。事実、私は何度となく考えた-バレストエーリは私にとってはちょうど病人に対する鏡のように、病気の進行を否応なしに見せつけるものではなかろうか、と。
(p255-256)


チェチリアの素行を探ろうとして、チェチリアの家や相手の俳優の家を見張っていたディーノ(チェチリアの家に出入り口が二つあることも気づかないくらい抜け穴ばかりだったが)だが、ほかでもないチェチリアから、バレストエーリも彼女をつけてきたり、それから探偵を雇ったりしていたことを聞く。ディーノの少し前を先行してバレストエーリが歩く。とすれば、ディーノもまた死ぬのか。そうした関係を嫌がっていたディーノだったが、逆にそれしか見えなくなって、バレストエーリと同じく探偵を雇うことにする。

今日気づいたのだが、「いまになって思い出す」(p254)とか類似の言葉があるのだが、この「いま」とはいつなのだろう。ということは、バレストエーリと同じ道筋はたどらなかったのだろうけど。果たして、その「いま」は倦怠を感じているのだろうか。

 チェチリアに関しては、私は倦怠と性的狂乱のあいだを交互に往復していたように、芸術においては拙い絵と一向に描かない絵とのあいだを往復していたのであった。
(p266)


この文は、通常の読み方では、倦怠=拙い絵、性的狂乱=一向に描かない絵、となるわけだが、今までの流れだと逆にならないか。すなわち、倦怠=一向に描かない絵、性的狂乱=拙い絵。というか、ディーノって拙い絵なんか描いてましたっけ?この場合の絵はバレストエーリの絵のことを指しているとも言えるけれど。

 現実とチェチリアという二つの言葉が次第に弱々しくなりながら私の頭の中で鳴りひびき、二つの異なった作用を呼び起こしたが、しかし私はその二つのあいだに疑う余地のないつながりがあるのを感じた。そのつながりとは所有への熱中であり、その二つの作用はともに所有の不可能さという点で暗礁に乗りあげているように私には思われた。
(p266-267)


上の図式に追加すると、倦怠=所有、性的狂乱=現実、チェチリア、所有の不可能さ、ということになる…
ということは、暗礁に乗りあげたのはディーノの意思ということにならないか。
でも、前に書いたように、この語りは「いま」のディーノが書いているはず…この「図式」がなにか世界を図式化し過ぎているように見えるのは、「いま」のディーノの「理由づけ」の働きのよるものかもしれない。読者は常にディーノの仕掛けに引っかかる危うさを警戒しなくてはならない。

ディーノはついにチェチリアの「不実」をつかまえた(別に結婚もなにもしてないからなにが「不実」だ、と言いたい気もするが)。でも、これでもまだディーノは「狂乱」から逃れられない…
(2022 02/19)

第8章


チェチリアに金を握らせる作戦も、やはり逆効果で、ディーノはその金欲しさにまた母親の別荘を訪れる。

 母と私とのあいだに、根底では、チェチリアと私とのあいだにあるのとおなじ関係があるのに気がついた。母も、金という手段で、私をとらえようとしているのであった。
(p289)


確かにこの母親にも、金を与えて息子を握っていたいという欲求がある。ただ、この後ディーノが考える「相似はこの点だけであとは違っている」というのはどうか。自分はその後も似ている部分はあると思うのだが。

 それは性行為によって彼女を所有できないというまさにそのことにのために、かえって同じ行為を何度も何度も繰り返したい衝動を感じたのとおなじであった。実際、金も性行為も瞬時のあいだ私に所有の幻覚を与えてくれた。そして私は、いつもその後にきまって深い幻滅感がやってくることを知りながらも、いまではその一瞬なしにはいられないのであった。
(p292)


この辺、ジンメルにも読ませたい。所有ではなく、所有の幻覚が一番活力が湧くもの…その後、幻滅も味わうのだけれど。
次は、長々としたまたもやディーノによるチェチリア尋問?の後、再度バレストエーリのアトリエに入るところ。

 チェチリアとバレストエーリとの度重なる情事を目にしてきた黒ずんだ家具や赤茶気た壁掛でいっぱいの薄暗い部屋の中をうろつきながら、私はバレストエーリのアトリエではなく自分のアトリエにいて、死んでしまった私が亡霊となって、亡霊たちがよくするように、私の情事の場所にたちもどってきたような不吉な気持ちを感じるのだった。
(p310)


第6章のp219の文と対比になっているような。あちらは無機質だったが、こっちは異様なまでに生々しい…それも、こうした思いをディーノが感じるのは、彼が自分は既に死んでいると感じているからだ、という。
そうしていると、バレストエーリの未亡人が入ってくる…
(2022 02/20)

第9章

 それは、チェチリアから自由になる、つまり彼女を完全に所有し、その結果彼女に倦怠を感じるための唯一の方法は、おそらく、彼女と結婚することだということであった。
(p331)


論旨も突拍子もないのだが、倦怠の位置関係がここではもう逆になっていることがわかる。倦怠で苦しんでいたプロローグから、倦怠を追い求める第9章へ。

 あたしそんなことは考えたことがなかったから信じなかったのよ。いまでもそんなことは何も考えないから何も信じていないわ。なにか考えることはあっても宗教的なことなんか考えないわ。
(p347)


チェチリアの言葉から。現在にしか生きない人間。宗教的なものを感じないのに、欲求の赴くままに複数の男と行為をする。この作品がローマ法皇庁から禁書に指定されたのは、おそらくこの辺りが原因なのだろう。
ディーノがものが存在するのにそこにアクセスする手立てがないという倦怠だったのに対し、チェチリアのは自分が関係しないものは存在しないというこれまた逆方向の考え方。だから家具の間を亡霊的に歩き回る姿が印象的だったのだろう。

彼女に結婚の話をして、返事は保留のまま、ディーノの母親の別荘へ向かう。そこではカクテルパーティが行われていた。母親と挨拶して、ディーノの部屋、そして母親の部屋へ行く。チェチリアは(愛しているとは言うものの)結婚は断り、その理由が翌日から俳優ルチアーニと旅行に行くからだという。ディーノは金庫からありったけの紙幣を出して、紙幣でチェチリアの身体全身を覆う、そして行為を行う。これだけの金をやると言ってもチェチリアは俳優との旅行は中止しないという。思わず彼女の首を絞めようとしてしまう。

チェチリアを家に送ったあと、カッシア街道(アッピア街道と韻を踏んでいると言えるのか)の娼館に行った帰りに事故を起こしてしまう。

 まるで実際に私の左手にもう一本の道が見え
(p386)


それは、ディーノにとって、考え方の異次元に向かう道だったのかもしれない。

エピローグ


前章の事故の後、病院で考えているディーノ。これまで出てきた「いま」はここにあたる。
ディーノはずっと窓から一本のレバノン杉を見つめている。

 ただ、いつ、どんなふうにして、その木の実在性を私が認めるようになったのか、つまり、私とは別のものとして、私とはなんのつながりも持たないが、それにもかかわらず存在し、無視することの出来ないものとして、その木が存在するということを認めるにいたったのかと私は心にたずねていたのであった。
(p388)


そしてチェチリアも、「いま」はこのレバノン杉のように見ることができるという。果たしてこれが、倦怠でも所有でもない第三の見方なのか、ディーノは絵をまた描くことができるのか。まだわからない…というところでエピローグは終わっている。
(2022 02/21)

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