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「アコーディオン弾きの息子」 ベルナルド・アチャガ

金子奈美 訳  新潮クレストブックス  新潮社

 ほら、言葉が生まれるのは
 ひと気のない工業地帯や
 宣伝部門のオフィスでばかりとはかぎらない
 ときには笑いのなかから生まれ
 綿毛のように
 天へ向かって進み、
 上へと雪のように降りゆく
 そのさまを見てごらん
(p8-9)


「アコーディオン弾きの息子」主人公ダビとバスク時代からの親友であった語り手が、1999年9月、カリフォルニアの農場でダビの墓の墓名碑を彫っているのを見ながら未亡人メアリー・アンと話している冒頭。英語、スペイン語、そしてバスク語と3つの言葉で彫られる墓名碑。
(2021 04/29)

ダビの語り、そして本


語り手は、メアリー・アンから、ダビの本を渡される。それはバスク語で書かれたもの。

 「わたし、ダビとフアン伯父さんが話しているのを聞くのがどんなに好きか、彼によく言ったものよ。あるとき、rとkがずいぶん多いのね、と言ったら、彼は、そうだよ、君は気づいていなかったかもしれないけど、僕と伯父さんはアメリカの広大な大地にいる二匹の孤独なコオロギで、あれは羽を動かすときの音なんだ、と言ったわ。『君が見ていないと、羽を広げてあのkとrの音を出し始めるのさ』って、それが彼のユーモアだった」
(p25)


メアリー・アンはアメリカ人(?)で、少なくともバスク語は全然わからない。細かいことだけど、一度目は「rとk」で、二度目が「kとr」というのはなにがしかの意味があるのか。下の文章では二度目と同じ。
バスクには「一寸の虫にも五分の魂」みたいな言葉がありそうだ…なんてことも想像してしまう。

 手紙には、ダビの振る舞いについての僕の意見も書いた。バスク語で書くという彼の決断の背後には、バイセイリアの空港で僕が話した少数言語の擁護ということにとどまらない、切実な理由があったのではないか、と。簡潔に言えば、彼は自分の第一の人生と第二の人生が混ざり合うことを拒絶していた。おそらくダビは、彼の第二の主要な証人である妻が、アメリカに移住する前の人生について詳しく知ることを望まなかったのだろう。だからこそ、アメリカに行く前の人生に関する情報をkとrだらけの知られざる言語の背後に隠すという、あの解決策を選んだ。
(p27)


「空港で僕が話した」というのは、少数言語の場合意識して使わなければ忘れ去られる、ということなのだが…移民というのは(故郷とのつながりが強い人もいるけど)、多くはダビのような考えなのだろうか。
そしてそもそも、語り手の推測は当たっているのだろうか。
(2021 04/30)

書くことと埋葬

 人生に変化が起こったとき、人は儀式を必要とするものだろう。誰かが死んでしまったときも、葬儀が終わるまでは心が落ち着かないものだ。海で行方不明になった人のことを考えてごらん。家族の苦しみは、遺体がどこかの浜辺に打ち上げられるまで続く。でもそこで、埋葬することができてようやく心穏やかになれる。それに似たことなんだ。自分の記憶の不穏な海に漂う残骸を集めて、一冊の本の中に永遠に納めてしまいたい。遺灰を壺に入れるみたいに。そうすれば僕も心穏やかになれると思う。
(p68-69)


二人の子供、フアン伯父、それに妻のメアリ・アンのことを書いているダビの本の第一部から。
次の部から、その漂う残骸の埋葬が始まる。アコーディオン弾きとあったので、あまりこの一家は上層階級ではないのだろう、と勝手に思っていたけど、どうやらダビの父は政治家兼アコーディオン弾きで、サンセバスチャンの学校にダビを通わせる階級であるらしい。今日読んだところの最後は、教会でリードオルガンを弾いて司祭に認められる場面。
(2021 05/02)

 既に古い世界は消え去ろうとしていたし、イルアインに暮らす人々ですら記憶を、彼らのあの古い語彙を失いつつあった。異なる種類のりんご-エスプル、ゲセタ、ドメンチャ-、あるいは蝶-イングマ、チョレタ、ミチリカ-を指すさまざまな名前。そうした言葉はまるで雪のように舞い落ち、時間の新たな地表に触れるやいなや溶けていった。失われていくのは、名前そのものでなければ、それらの言葉が持つさまざまな意味、何世紀にもわたって凝縮されてきたニュアンスだった。そしてときには、言葉や意味だけでなく、言語そのものだった。
(p98-99)


この作品は「オババコアック」よりバスク語、ひいては少数言語についての記述が多いと思う。言語そのものがなくなれば、その言語を使っていた人々の文化、そして思いが閉じられてしまう。地球温暖化で積もる言葉の融解は年々早まっている。

この辺りからスペイン内戦の話がちらほら出てくる。物語の時期は1964年頃。20年前くらいか。この村でも銃殺刑にかけられた人が9人いたという。村のホテルが一つの鍵みたいで、元々はアラスカで鉱山で一儲けした男が建てたものだったが、内戦中にベルリーノに奪われたという。そしてフアン伯父の家には隠し部屋があり、そこに内戦中ホテル建てた男が匿われていたという。
(2021 05/03)

《第二の目》


ダビは内戦の話を聞いて、これまで見えていなかった《第二の目》から離れるために郊外の農村イルアインで過ごすことが多くなっていく。

 父親とどれだけ不仲であったとしても、そんなことを受け入れる心の準備のできている子供などいないはずだ、と。しかしいまは、伯父のしたことは正しかったと思う。アンヘルに対して芽生えたあの疑念なしに、僕は闘おうとしなかっただろう。そして闘うことなしに勇敢にはなれなかっただろう。勇敢でなければ、前に進むことはできなかっただろう。
(p114)


9月16日にはオババで祭りがある。だが、伯父フアンは何かその祭りかあるいは大きな鐘の音に何かあって、妹(つまりダビの母)が楽しみにしている家族全員の昼食が終わるとすぐカリフォルニアに戻っていく。伯父自身にも何かがありそう。

 そして、つねに欠けることのないあの最後の影、僕の父、アンヘルがいた。ときどき、《第一の目》で見えるものが《第二の目》で見えるものと重なることがあり、僕の中ですべてが混ざり合った。ウルツァの水面の奥の暗がりと、二十五年前の出来事が。ハンノキの葉が立てる音と、アンヘルに対する疑念とが。
(p137)


ダビはサンセバスチャンのラサール校に通うものの、マルティンが持ってきたポルノ雑誌を見ているのが見つかり、試験資格は得られたものの放校されてしまう。
その後はオババで教師を二人呼んで5、6人で授業を受ける。その理系教師のセサル(共産党員っぽい)とマルティンとのやり取りに、まだフランコ体制下のスペインの緊張が見える。

一方、マルティンの姉妹のテレサは病気を患い、良くなったあとしばらく(「田舎娘」に惹かれていたこともあり)会わずにいて、やっと会いに行った時に、マルティンとテレサの家でもある例のホテルの屋根裏部屋で、テレサはダビに彼らの伯父の手紙(この手紙書いたあとすぐ戦死)、そしてダビの父アンヘルのノートを見せる。

今(この語りをカリフォルニアの農場で書いている二児の父ダビの視点)、手紙やノートはその彼の前にある。あること自体が読者に何かを伝えてくる。
(2021 05/04)

アコーディオンの位置

 署名の上には、左側に傾いた字で、結びの言葉がバスク語でこう書かれていた-《兄さんたちはそこでしっかり持ちこたえて、僕たちはここで頑張る。弟より心からの愛を込めて》-。僕の意志に反し、それらの言葉は僕の内で、ウバンベやオピンの話すイントネーションで、《幸福な農夫たち》の口調で響いた。それもまた受け入れがたいことだった。僕の記憶にあるかぎり、ベルリーノはいつもスペイン語で話していた。
(p229)


ダビの中の、バスク語話す《幸福な農夫たち》とスペイン内戦でフランコ側についた人々が結びつかない-或いは結びつけたくない、という感情、それに対し実際の人々の口調や言葉の結びつき。

物語は様々に内戦の村のことを知っていきつつ、テレサとの恋が進んでいくところ。テレサはアコーディオンを弾くダビを見て惚れて、ポー(フランス側)に進学するというテレサは内戦記念碑除幕式(ダビの父アンヘル達が建てたもので、フランコ側の死者しか彫られていないらしい)でアコーディオンを弾いてとダビに頼む…この地域のアコーディオンというものが持つイメージというか格式みたいなのが、まだ実感としてよくわかっていない。
(2021 05/06)

花火と車輪


「炭のかけら」の章もひとまず終わりが近づいてきた。ルビスの家の馬が何者かによって銃で撃たれた。その馬の頭蓋骨等が何故か出てきた…その馬を撃ったのがアンヘルだという話もあり…例のテレサに見せてもらったゴリラのノートに書いてあった銃殺された(逃れた人もいるみたいだが)中にルビスの父親の名もあったという話もあり…いよいよ第一と第二の目が重なり合う。ダビにとって親しい二つ世界が摩擦を起こしながら重なり合う。

9月16日はオババの村祭り。ボクシングの試合も、運動場や内戦記念碑除幕式も、そしてそこにダビがアコーディオン演奏すること、それをテレサが写真に撮るということ。だが、フアン伯父はダビに「スペイン国歌を祭りで演奏するな」と言われ、例の隠し部屋に隠れる。

テレサと伯父の言葉、そのはざまで苦しむダビ、という進み方だと思っていたけど、意外に?ダビの考えはまとまっていて隠し部屋にこもることにしたのだが、いろんな人が探しにきて治安警備隊まで探していたという。警備隊に話をして解放され、彼のバイクで村に戻る。

 オババの村が近づいてきた。バイクのエンジン音にもかかわらず、打ち上げ花火の爆発音が聞こえた。すぐに続いてもう一発。そして数秒後に三発目が。しばらくぶりに、その三発の合図は僕の内に反響を呼び起こした。僕は明るい気持ちになった。暗い考えに頭を支配されてはならない、と思った。時間の車輪は幸福な日々も運んでくる。その日はよい終わりを迎えられそうだった。
(p278)


祭りの日も暗く終わるのか、と思いきや、そうでもないらしい…「車輪」はバイクに乗っているのに引きずられて出てきたのか。

 自分の母に対する愛が変化したことを感じずにはいられなかった。彼女がかつて若い頃、近しい人を殺したり裏切ったりする男に恋してしまったことには同情を覚えた。だが同時に、ずっと生活をともにしながら、その男に影響されることも服従することもなかったという事実には敬意を抱いた。
(p280)


ダビは、言うまでもなく父より母に親しんでいたが、父親とは対峙して苦しんでいたりするけど、母親の方はこうして見ることが出てくるのは初めてではなかろうか。
(2021 05/07)

琥珀と蜜蜂と体重計


今日から「オババで最初のアメリカ帰りの男」。ドン・ぺデロの章。で、最初の疑問だが、これ書いているの誰? アチャガ、ってのは抜き… ダビやヨシェバだったら、どうやってこのスペイン内戦時の詳細を知ったのか…語りは三人称。

 彼の内で過去が膨張しつつあったのだ。自然の理に反した方向に進展しつつあったその動きは-時間は忘却の味方をするのではなかったか?-危険な結果をもたらすかもしれない、と彼は思った。
(p287)


 遠い名前と、それらの名に結びついた記憶は、琥珀が蜜蜂にしたのと同じ仕事をいま彼にしているのだと。それを止めることができなければ、自分も中に囚われたまま窒息してしまうだろう。
(p288)


自室のバスルームで毎日体重を測り、壁に細かく体重を書きつけていた(120キロ前後…オババの人達はこの当時体重を測るなどということをしたことがなかった)ドン・ぺデロ。その推移をホテルの客達と話す(彼が初代ホテルアラスカのオーナー)、話題はアメリカ(カナダ、アラスカ)の話、それから政治的議論にもなった。そこで教師達と知り合う(その一人がセサルの父)。

やがて内戦が起こり、ファシストというより信心深いカトリック右派保守主義者らが、オババにもやってきて捕まってしまう。そこでデグレラ大尉やベルリーノらに会うのだが、ここで一人親切にしてくれる若い男っていうのが出てくるのだが、誰だろう。アンヘル?
(2021 05/08)

 ドン・ペドロは目の前の自分の姿を頭に叩き込もうとして、なおも鏡を見つめていた。「いまになってりんごと人参の意味がわかったよ。すべて計算済みだったのか。でも君は血も涙もない人間だな。たまには例外を許してくれたって太りはしなかったのに」
(p325)


ドン・ペドロはなんとか抜け出して(その時ベルナルディーノ(セサルの父)は殺されてしまう)、フアンの家に辿り着く。そこで例の隠し部屋(19世紀からこの地域にはある、とドン・ペドロは確信していた、とあったが、こういう隠し部屋は20世紀内戦時だけではなかったのか)に匿ってもらう。そしてりんごと人参…のダイエットに成功する。

次の「殺し屋ピルポとチャンベルライン」前にもほんのちょっと出てきた賑やかしというか風俗斡旋業というべきか…なのだが、フランスで二人は捕まり、チャンベルラインはそこで亡くなり、ピルポは10年以上振りに戻ってくる…とあったので、次章等で明らかに…
(2021 05/09)

「木の燃えかす」

 やがて、そのただ一つの身体は、独楽が回転のもっとも安定した瞬間に眠ってしまうのと同じく、眠りに落ちるように動きを止めていった。すると、オババの谷もアラスカ・ホテルも、のどかで平穏そのものに見えた。
(p354)


昨日から「木の燃えかす」の章に移る。内戦がテーマだった前章の「炭のかけら」に対し、こちらは1970年、バスクナショナリズム…その極端例がETA…が背景。

この小説の楽しみの一つは、音楽…当時の流行歌や民謡などが要所に配されているところ…というわけで、ダビ達が黄色いフォルクスワーゲン乗りながら大音量で聴いていたカセット、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「スージーQ」を聴いてみた。予想以上にフォークっぽい。

ダビはアラスカ・ホテルでアンヘルの代わりにアコーディオンを弾き始め、皆が踊り出すのを見ながら、上の文章のようなことを思う。けれど、独楽は倒れることもある。「オババの美人な女の子ベスト5」というビラを撒いた(それも興奮したロバの背から)悪ふざけのあとの夕食のところまで。

アドリアンがここに来て気になる人物になってきた。身体に障害を持つ彼は何か持って行き場のないエネルギーを余しているような気がする。あとは、このおふざけビラが政治ビラと思われたり、ベルリーノが治安警備隊呼ぼうとしていたり、政治的緊張がすぐ隣にあることも示唆されている。
(2021 05/11)

ナボコフへのオマージュ

 ビカンディと彼の仲間たち-おそらく、昆虫学者のヤゴバ以外-は異国や異世界の人々ではなく、僕のかつての先生だったセサルやフアン伯父さんと同じく、二つの舌、二つの名前、二つの領域を持ち、二重生活を送る人たちだった。
 彼(ヤゴバ)もやはり違う祖国を持つ人に思えた。
(p391)


どうやらビカンディ他の人たちはバスク民族主義に関係あるみたい。バスクの蝶でトランプ(スペインのトランプは40枚?)を作るという。そして子供たちに遊んでもらう…ということでここにいる昆虫学者ヤゴバだけど、ヤゴバだけは何か別格な書き方をしている。蝶といえばナボコフ。ヤゴバはアチャガのよるナボコフへのオマージュではないだろうか…(「賜物」読めばわかるのかな)…

なんか悩みがありそうなヨシェバや、木彫りの仕事をほとんどせずに遊んでいる(何かの不安かた逃げている?)アドリアン…など、しかしこれに対しダビの一番の関心事はビルヒニア…

あとは、アンヘルがほとんど家にいないので、母の願いを入れて家に戻るダビ。マルティンやアンヘルたちが、ウバンベのボクシング世界試合の契約を取ったということで、大いに喜び(そんなに高額なのか…)、ダビに公式発表の時にアコーディオンを弾いて欲しいと言う…ところまで。
(2021 05/12)

火と水と

 オババにいたあの年寄りの保険セールスマンに何度も聞いたよ、この世でいちばんの大馬鹿者でも、この世でいちばんの賢人にすら消せない火をつけられるって
(p418)


作品の始めの方、「ルビスとほかの友人たち」に出てきた、年老いた保険セールスマン。炭のかけら、木の燃えかす…これらは作品章立ての名前にもなっているのだが、正直今までなんのことだかわからなかった…けれど、この辺りになってバスク独立派がスペイン国旗や新住宅地、それにアラスカホテルまで火をつけたところまで来ると、名前の意味が見えてくる。「ルビスとほかの友人たち」では、セールスマンは「火がなければ、この世界は存在していなかったでしょう」とも言っているが。
しかし、その報復としてルビスが殺される。

続いて、ダビとビルヒニアの関係の続き。

 ビルヒニアはベッドにうつ伏せになって泣いていたが、あまりに静かだったので、僕はときどき眠ってしまったのかと思い、肩の震えに目を凝らさなければならなかった。だが、彼女は泣き続けていた。砂地に水が流れるときのように、ビルヒニアの嗚咽は、流れ出したかと思うと止まり、またわっと流れ出しては、部屋の暗闇、夜の静寂に川床を切り拓いていった。ウルツァの捜索が終わったあと、夜はとても静かだった。聞こえるのは川のさざめきだけで、その音がときおり泣き声にまさっていた。
(p441)


ビルヒニアが泣いている光景と、ルビスが投げ込まれたウルツァの川渕が共鳴しあっている感じがして、詩的な箇所。
「木の燃えかす」の最後は、蝶の動物学者ヤゴバたちを匿いに出発するところ。ヤゴバはナボコフそのままの別世界人だけではなく、バスク独立派のリーダー的存在でもあったらしい。この章の冒頭と音楽で響き合うかのように、ヨシェバは「スージーQ」を、ダビはアコーディオンの「パダン・パダン」を、それぞれ思い出しながら出発していく。

八月の次は九月

 《バスクの蝶》-と僕はタイトルを読んだ。「君は僕が昆虫学者だと信じなかったかもしれないが、イルアインにいるあいだ、昆虫も集めていたんだ。ここにその証拠がある。先月発売されたんだ」と彼は言った。
(p448)


バスクの蝶のトランプ。ヤゴバ(ここではパピ)と「僕」はパリにいて、この会話をしている。で、この「僕」は誰? パピの言葉からするとダビのようだけど…では前章「炭のかけら」の「オババで最初のアメリカ帰りの男」と「殺し屋ピルポとチャンベルライン」の書き手もダビなのか。そもそもなぜパリにいるのか。その謎は次の「八月の日々」を読めばわかるのか。

というわけで「八月の日々」に入る。
ダビは既にカリフォルニア、ストーナム牧場に住んでいて、そこにヨシェバが訪れる。ヨシェバは世界的作家となっていて、オババについての話を書こうとしている。今まで読んできたダビの物語のような(ちなみに、作品冒頭、ダビの墓の前のヨシェバとメアリー・アン、1999年9月の場面というのは、時系列的には、この章の直後にくる)。

「木の燃えかす」の1970年のオババの事件から、この1999年のカリフォルニアの牧場に飛んでいる間、29年間には様々なことがあったらしい。先のパリでのトランプの場面もそうだろうし、第3章にはちらりとヨシェバとダビ、それにトリクが1976年から約1年間刑務所に入ったとも書いてある。

 俺は率直に話せないんだ。ヨシェバは二十年か二十五年のあいだ同じことを言い続けている。おまけに、それを理由に、あらゆる人間は打ち明けようが打ち明けまいが、隠そうが隠すまいが、みんなそうなのだと考えている。
(p471)


ヨシェバ…だけでなく、作者アチャガの信念でもあろう。何らかの形で真実を語ること。小説作品だろうが、日常の受け答えであろうが、真実を「率直に」事実そのままで話すことは人間の本性としてできない、と考えているようだ。ヨシェバのオババ時代の作品を朗読するワークショップがあって、そこに参加するダビも作品に登場しているとのことだが…「八月の日々」の次は九月…

 ヨシェバやメアリー・アンといるとき、頭の中でコオロギの鳴き声のようなノイズを感じる。いま、夜になって、その鳴き声は金属音となって響いている。
(p473)


(2021 05/15)

コオロギの夜に帰っていく


アウグスティン、ヨシェバ、ダビの三人は、バスク解放の地下運動をしている。大阪出身の造船工のトシローも出てくるビルバオの造船所ストライキの話のあと、彼らはフランス側の農場で働きながら指令を待つ(パピとダビのパリの場面もこうした待機時の一つだったらしい)。
そうしているうち、母親の口調が突然口に出たり、母親とルビスの夢を見てうなされたダビは町に電話をかけに行く…と、やはり母親はその日に亡くなっていた。ダビは危険を冒して故郷に戻る。埋葬された墓地で、父アンヘルと抱擁する…
引用箇所は、農場に戻ったあと、彼らの指揮をしていたカルロスと対立した場面から。

 またしても、それまでの数日と同様、僕の口調は別の誰かのようだった。今度は母のではなく、父の口調だった。アンヘルも僕の内にいるのだ、と僕ははっとした。しかも、墓地で抱擁したことによって乗り移ったのではなく、つねにそこにいたのだ。
(p504)


ダビは父と和解したのか。そもそも父はどこまで内戦に絡んでいたのか。その具体的言及はされない。父も父、子も子。それそのままの抱擁なのだろう。

先に挙げたトシローの話は、ダビが書いた短編なのだという。続いて朗読会で朗読されたのはヨシェバの三人の告白。彼ら三人が、農場からスペインに入った時、列車内で逮捕される。ダビも運動から引き上げようとしていたが、実際に「裏切った」のはヨシェバの方らしい。で、次の引用箇所は、彼らの中で一番運動に熱心だったアウグスティン(ゲルニカで家族を亡くした)の告白から。

 目を閉じると、ウラジミール・ミハイロヴィッチ・コマロフがまた現れた。彼はモスクワの赤の広場で棺台に載せられ、何百もの人々が彼に敬意を表するために列を作っていた。奥さんはどこだろう? そのきらびやかな葬儀から家に帰って、台所のテーブルに置かれた干しぶどうを見たら何を思うだろう?
(p531)


コマロフはソ連の宇宙飛行士でアウグスティンの憧れの人。干しぶどうというのが、なんとも心に残る…彼は一番拷問を受け、こうした幻想を見続けていた。
最終ページでは、アウグスティンはモンテビデオでレストランを成功させ、パピはキューバで蝶を探していたとヨシェバが話していた。

朗読会終了して、以前出てきた「オババで最初のアメリカ帰りの男」も、実はダビの作品だったことがわかる。彼はドン・ペドロのフアン伯父への手紙を受け取っていた。ダビ自身の手術前に、彼は作品の元となったその手紙を読み上げる。

 いま、僕はドン・ペドロ・ガラレタなのだ。夜、僕はどこへ連れていかれるかもわからず、車に乗っている。わかっているのは、一緒に乗っている何人かは既に死んでいるということだけだ。
(p560)

解説から

 作者のこうした描写のこだわりには、言語とはその話し手の生の軌跡を如実に表わしながら、その人を形づくっているきわめて親密かつ固有なものである、という考えも関係しているようだ。
(p571)


自分はその「こだわり」の中の1、2割くらいしか勘づいていないだろうけど。例えば三人がいた農場の場面で、フランスバスクに接するオック語訛りの言葉なんてのも出てきていたという。

さて、アチャガ自身は、政治運動には距離を置き、作家活動をしていたというが、彼もダビなりヨシェバなりになること可能性もあっただろう。この本が出た2000年頃は、またバスクと中央政府との軋轢が増していたという。
(2021 05/16)

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