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「社会学史」 大澤真幸

講談社現代新書  講談社

「鬱」の時代

 社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になるのです。
(p5)


19世紀は「鬱」の時代、フロベールがマーク・トゥエインがイプセンがマラルメがそしてボードレールが鬱と取り組んだ。社会学者ではマックス・ヴェーバーが大澤氏によると「フロイトの神経症の典型例のような」鬱に悩んでいたという。しかもヴェーバーの業績はほとんど、鬱病で大学の職を辞したのちに書かれている。この本ではフロイト自身も社会学者とされる。

 「他でもあり得たのに」という感覚があるのかが、偶有性のポイントです。
 現実の社会秩序に他性を対峙する認識なしに、社会秩序はいかにして可能か、という問いはでてきません。
(p22)


次の章では、アリストテレスが他性の認識が欠けている、自分の現在住んでいるポリス社会が究極の目的である、と目的論社会論になっているから、彼の議論は社会学的ではないという。
(2021 05/23)

現れないリヴァイアサン


ホッブズとロック
ホッブズは「神がいない、或いは神なしでも成立する社会秩序の方法」を論じ、ロックは神を抵抗権の持っていく先とした神がなければ成立しない社会秩序を論じた。この二つとも実際の歴史に準じていない理論だけに、一つの論理を徹底させたホッブズの方が注目すべきだという。

ホッブズ問題というのがある。のちにパーソンズなどが提唱したもの。ホッブズの見立ては、ゲーム理論に置き換えるとわかりやすい(p75)。皆が自然権を放棄すれば公共的にも自身にも一番得(p75の表で言えばAの欄)なのに、結局皆自然権をキープ(p75の表で言えばDの欄)になる。いつまでたってもリヴァイアサンは現れない(これにはホッブズたちがAを前提にAに立って考えているから、と大澤氏は述べている)…
だからパーソンズはDからAに移行するには功利主義以外の「何か」が必要だという。
(2021 05/25)

コンドルセの定理


昨日寝がけ読みから。
ルソーの社会秩序…あるのが当然?
コンドルセの定理(後代)の考えから。
社会集団の一般意志がある。その成員の意志(特殊意志)を足し合わせても(全体意志)、一般意志にはならない。大数の法則(母集団の数を増やすことで確率は一意に近づく)で一般意志に近くなる。だからサンプル数上げる為に徒党を組んではならない(政党の否定)。
順番としては、まず全員一致で社会契約を決める。そのあとは多数決で決める。先に述べたように一般意志を掬い取れるから。
一般意志は必ず一つ。透明性を必要とする。
一般意志という一なるものと、母集団の多様性というものが、混在している。全体主義の起源だという評価と、個人の自由を重要視したリベラルな評価と。
アダム・スミスはリヴァイアサンを省略したホッブズ?
(2021 05/31)

マルクスの価値形態論


経済を論じている箇所でも、それは人間社会の構図をも論じている…という(だから簡単に「下部構造が上部構造を規定する」と済ますわけにはいかない、という)。

 社会の富とはすべて商品である、と言うことができるほどの段階にきている。そういう社会を彼は分析しようとしている。すべてのものが商品になるということは、すべてのものにさまざまな具体的な使用価値があるとしても、それらはすべて抽象的な交換価値に還元できるということです。
(p155)


「疎外論」と「物象化論」。この二つは、青年ヘーゲル派(フォイエルバッハ等)の前者から、マルクスの思索の中で後者に移る。前者は神というものは人間自身にある本質的なものを外に投影させたものに過ぎないというもの。後者は「ある関係の様態が神的なものを生み出すというメカニズム」(p166)。そのマルクスの思索の移行に断絶があると論じたのが、廣松渉だったりアルチュセールだったりする。

価値形態論の二つのポイント


ポイント1

 私ペテロが作ったものAに価値があるかどうかは、パウロがそれを買ってくれるかどうかにかかっています。パウロが買ってくれてはじめて、私が作ったものには普遍的な価値があることが証明される。
(p170)


価値形態論の第一段階のA=Bは、B=Aとは置き換えられない、というのはここからくる(なんか腑に落ちるの、あともう少しなんだけど、まだしっくり来ない…)

ポイント2

 近代社会では、人々は、意識のレベルで否認したり、嘲笑したりしている神を、行動の水準で信じているのです。
(p173)


信仰が無意識化している、とも。次のところでは、そこからヴェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」につながるとある。また(これはまだ書いてはいないけれど)、無意識化というところでフロイトにも一部引き継がれているのかな。
(2021 06/03)

剰余価値論と労働価値論

第一部「社会学の誕生」を読み終える。
剰余価値論は、近代哲学の労働価値論を前提としている。が、今は労働価値論自体が問題視されている。「悪しき」とまで書かれているけど、そこら辺自分にはまだわからないところ。
(例えば)1万円の生活費等を雇い主から貰えるのに、雇われた人は1万3000円とかそれ以上に働いてしまう。そこに剰余価値が生まれる…という論なのだけれど。
階級(クラス)は、天職(コーリング)と語源が同じ? と考えてヴェーバーは「プロ倫」の論を進める。一方、マルクスは、神に呼ばれるべき階級、即ちプロレタリア階級が一番神に近い。と反宗教のマルクス主義も、始まりまで遡ると宗教と経済が絡み合って共存している、という印象。
(2021 06/04)

記号接地問題

 固有名は、意味のないシニフィアンなのです。つまり、この固有名のところで、シニフィアンの系列とシニフィエの系列が交わっている。そういう場所が一ヵ所でもあれば、後は大丈夫。われわれは固有名をもっているから、接地問題が解決しているのです。
(p204)


シニフィアンとシニフィエ、意味するものと意味されるもののそれぞれの体系は独立しているので、コンピュータなどの場合には接地できないが、固有名を持っている人間の言語なら接地できる。でもこれがどうしてフロイトと結びつくかはちょっとわからない。

マルクスの貨幣のところで見たような、自分の考えから起きていることなのに、自分の外で生起しているかのような思考…

 「無意識」というものをこのように考えると、無意識の発見は「社会の発見」に限りなく近い、といえます。つまり、お前が考えているのではないが、お前の思考というものがある、とする。では、いったい誰が考えているのか、というと、社会です。「無意識の発見」という個人の心にかかわる現象と、「社会の発見」という社会科学的現象は、対極的に見えますが、実は非常に近い出来事であるといってもよいのです。
(p220)

 近代社会は自転車みたいなものであって、動いていないほうが不安定になる。近代社会は、不断にアノミー状態を生成することを常態とするような社会です。そのため、近代的な自殺とは結局、見ようによってはアノミー的自殺であり、見ようによっては自己本位的自殺になる。
(p234)

デュルケーム「自殺論」は大学生の時に課題で読まされ挫折してそのまま放置…近代は無限アノミー製造機か…
(2021 06/05)

デュルケームを巡って

デュルケームの最初の著書が「社会分業論」、最後の著書が「宗教形態の原初形態」。デュルケームは社会の成立を、分業から宗教へという図式で見ている。

 しかし、有機的連帯の社会はつねに解体の危機と隣接している。うまく連帯しているように見えても、一皮むくとすぐに壊れてしまう。社会が分業によって連帯し、道徳的なクオリティが高まるという筋で考えたいわけですが、一歩間違えるとすぐに崩れそうなのが近代社会なのです。
(p242-243)

 デュルケームの議論の中核的な筋を追えば、こうなります。まず、社会に一つの統合や連帯をもたらす要因にとして分業を見出しました。その分業と同じ働きを、しかも文業以上に果たす要因を、最終的には宗教に見る。そして社会の連帯・統合が壊れているときに、それは自殺率の上昇というかたちで現れる。
(p245)

ここからジンメル


社会の構成要素たる相互行為。内容はその人自身の目的、形式はそれを遂行するためのもの。ままごと(遊戯)や社交は形式だけ切り離して成立するもの。

 社会は、相互行為の内容と形式の両面から成ります。しかし、社会を社会たらしめているのは、内容ではなく形式のほうだというのがジンメルの論点です。
(p261)


ジンメルの社会学を「形式社会学」と呼ぶのは、ここからきている。
(2021 06/18)

 それぞれの個人が違う目的、違う動機、違う背景をもっていますが、協力し合うとか、模倣し合うとか、助け合うということもできる。内容のレベルでの人々の間の差異を保存しつつ、その同じ人々の間の結合を担保しなくてはならない。この両面の調停のためには形式が必要になります。
(p269-270)


(2021 06/19)

ジンメルのいう「形式」と第三者は同じ機能。これにより社会が生まれる。
十八世紀は自由と平等は両立するものだと思われていた。

 ところが十九世紀は、自由と平等の間に、むしろトレードオフの関係がある、ということを見出した。つまり、「自由なき平等」とか「平等なき自由」という発想です。
(p283)


前者は社会主義、後者はニーチェ的超人…

ここからヴェーバー


ヴェーバーの転機は1897年に訪れる。ハイデルベルク大学に正教授として赴任したヴェーバーのところに、母親(典型的なプロテスタントだったらしい)が訪ねてくる。これは半ば夫(ヴェーバーから見ると父…ちなみに同じマックスという名前)から逃れるためにやってきたのに、夫もついてきてしまう。この時息子マックスは父マックスに対して糾弾したという。父マックスはベルリンに帰り、ロシア旅行の途上リガで亡くなってしまう。これが典型的なエディプスコンプレックスになって、息子マックスは鬱になってしまう(フロイトもカフカも…この時代の家父長との対決は共通していた)。
ところが、ヴェーバーの本当の業績はここから始まる。

 少なくとも、ヴェーバー自身は、価値自由と理念型との間のトレードオフの関係(互いに足を引っ張り合うような関係)を意識していません。しかし、それでも、純粋な価値自由のもとで、つまり何らかの社会的なコミットメントをすべてカッコに入れたとき、はたして理念型がありうるのか、と問うことは意味があることです。
(p301)


ヴェーバー社会学の最大のテーマは「合理性」だという。それを扱ったのが、例えば「支配の三類型」であり、宗教の「世界の脱呪術化」である。ここでは後者から。呪術は「神強制」すなわち呪術師たる人間が神に対して「依頼」をすることで神が動く(日本の神道もこちら)。一方、宗教は「神奉仕」何も働きかけずひたすら奉仕し祈る。

 (呪術の)人間と神々の間の関係は自己言及(セルフレファレンス)的な循環を描くことになります。人間の行為や体験を規定する神自身の活動が人間の行為によって規定されている…ことになるからです。
 神奉仕は、こうしたあいまいさを完全に払拭し、克服したときに出てくる態度です。神が人間に対して優越しており、超越的であるならば、神奉仕以外にはありえません。
(p318)


宗教改革はカトリックがまだ持っていた神強制の要素を削るためのものだったという。
ヴェーバーには西洋音楽に関する著作もあるが、ここでも自然数の比では完全には表せないオクターブを強引に十二分割したという自己言及を超える動き(無理数の発見、発明も)があり、これが合理性の内実なのだという。

まだまだヴェーバー

「予定説の逆説」も少しだけ。
支配の三類型(カリスマ的、伝統的、合法的)と、社会的行為の四類型(感情的行為、伝統的行為、目的合理的行為、価値合理的行為)。数が合わないのは、支配の三類型の方が一つ欠けているからだ、という。伝統的行為の否定が目的合理的行為、感情的行為の否定が価値合理的行為。支配の方には合理性の側に一つ欠けていて、それを解き明かすのが実は「プロ倫」なのだという。
(2021 06/20)

 徹底して生活のすみずみにまでゆきわたった合理性は、まったく非合理な、根拠のない想定・決断にこそ依存している、ということになります。その非合理な一点、非合理な前提がなければ、合理性は貫徹されないのです。
(p351)


何か前に同じような状況の論拠があったような…ああ、そうそう、今年年明けに読んだ数圏と現象学の本に、最初だけ自由な設定とかいうのがあった(「〈現実〉とは何か  数学・哲学から始まる世界像の転換」西郷甲矢人・田口茂著 筑摩選書 関連書籍参照)…
こちらはニューカムの実験(どうやら、ニューカムという人はいなくて最初の引用者というノージック自身の実験らしいが)から、「プロ倫」の論理が引き出せるという嗜好。
そこでは予見者が付け加えられ、それが神であると信者(被験者)は非合理な選択をする、という(実はここのロジックまだ自分はわかっていない)。非合理な決断を抜きにした合理性が目的合理性、非合理な決断の前提を含んだ合理性が価値合理性、神の選択は偶有性…

 二十世紀になるかならないかの時期に社会学を成熟させたデュルケームやヴェーバーは、そのような内面の素直な延長線上には見出すことができないところに社会現象が生じるということを自覚したのです。
(p356-357)


ヴェーバー最後の章では「職業としての政治」から、政治家には責任倫理を要請している。行動だけでなく結果を要求されている。

ここからアメリカ社会学(特にパーソンズ)


ヴェーバーの「プロ倫」は雑誌掲載時には二回に分けて掲載している、その間にヴェーバーは何ヶ月間にわたるアメリカ旅行をしている。

ウィリアム・アイザック・トマスとフロリアン・ズナニエツキの「ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民」。アメリカ社会学の始まり。ライフヒストリー的研究の嚆矢、預言成就の法則(マートンの名前で有名だけど、この論文からマートンが発見したものだったらしい)。トマスは一度はFBIに逮捕されている。

パークとバージェスのシカゴ楽派の都市社会学。境界人(マージナルパーソン、ジンメルの「よそ者」を一般化。人間生態学(パーク)、都市の同心円構造(主にバージェス)。

パーソンズ…アメリカプロテスタントの家系。パーソンズという名前は牧師とかいう意味含むらしい。ヴェーバーの「プロ倫」を初めて訳している。マリノフスキーについて機能主義を学ぶ。ドイツでカール・マンハイムらに会う。
主意主義的行為理論。人間の自由意志による選択を重視。パーソンズの論敵の一つが功利主義、功利主義には目的合理性しかない、価値合理性はない。
(2021 06/21)

またもホッブズ問題

 行為者に価値指向があるがために、社会秩序は可能になる、というわけです。つまり、共通の文化的価値や規範が、行為者に「内面化」され、社会システムに「制度化」されているがために、社会秩序が可能になるということがパーソンズの結論です。
(p395)


功利主義は目的合理性しか認めないが、パーソンズは価値合理性に重きを置く(主意主義的)。マーシャル、パレート(功利主義では掬えない価値も論じた)、デュルケーム、ヴェーバーの順でパーソンズの評価が上がる。とにかく、このp395の結論でホッブズ問題(社会秩序はいかにして可能か)を解いたとするが、大澤氏は循環的自己言及になっているとの批判に賛成。

社会システムの要素をパーソンズは行為としたが、後のルーマンはコミュニケーションとした(この違いはまたのちほど?)。パーソンズのパターン変数(数でなくてもよい)はテンニースの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の素因数分解、5つの変数で様々に活用できる。大澤氏の師匠見田氏の4分割社会集団表はその例の一つ。
(2021 06/22)

パーソンズ構造-機能分析


社会構造(会社の組織図みたいなもの)-社会状態(その組織図通りに人員が配置された状態)-機能的要件(共有価値とか目標とか)-機能的要件を満たさない場合は構造に変化が起こる
デュルケームの理論もこれで説明できる(分業の発展等)
機能的要件のAGIL
A…適応(経済システム等)
G…目的(狭い意味、政治システム)
I…統合(まとまった、仲の良い)
L…潜在的なパターンと緊張緩和(共有している価値、文化)

構造-機能分析への批判
機能的要件が複数ある(普通の社会にはいくつもある)時に使えない、数学的に処理できない(複数要件を順位付けすれば回避できる?)
(ここの数学的処理は前に読んだ多数決の岩波新書に出ていたものだと思われる
「多数決を疑う 社会的選択理論とは何か」坂井豊貴 関連書籍参照)
そもそも機能的要件が一つでも使えない? 社会変動が捉えられない(自己言及)。ルーマンの理論はこれを捉えようとする。

機能分析その後
マートン…中範囲の理論、自己成就の理論。ラザースフェルドと共同研究。機能を顕在的機能と潜在的機能に分類。ヴェーバーの「プロ倫」もこれで説明。神の国云々が顕在的機能、資本主義の倫理が潜在的機能。
(2021 06/23)

アメリカの社会学のもう一つの潮流〈意味〉の社会学


ミード…自己の社会学。自我と他我。様々な他我の部分を引いた残滓が自我。
ブルーマー…シンボリック相互作用論理。

シュッツ…オーストリアではフッサールとも交流があった。現象学を社会学へ導入し、射程を広げる。「社会的世界の意味構成」…フッサールとベルクソン、社会的行為とは何か、社会を構成する自我と他我の関係構築。
レリヴァントと多元的現実…その時の関心と関連性のあるものだけを選択して主題的世界を形成、AIには極めて難しい(前者)。こうしたレリヴァントに応じて、個人は現実にはいくつもの意味領域を形成して利用する。この意味領域は対等ではなく、全ての意味領域源泉になっている意味領域が「日常生活世界」(今ここ読み返して思ったのだけれど、この日常生活世界が全ての意味領域の土台というとこ、自分的にはちょっと疑問を呈したい…)

ピーター・バーガーとトーマス・ルックマン…「日常世界の構成」…外在化/客体化/内在化(ピーター・バーガー「聖なる天蓋」(ちくま学芸文庫)の冒頭に書かれていたのがまさにこれ 関連書籍参照)
ハロルド・ガーフィンケル…エスノメソドロジー、ミクロの社会学。会話分析など。

アーヴィング・ゴフマン…行為と役割と演技。「役割距離」…役割演技には期待されている役割とは距離を置いたことをすることもある。冗談を言うなど。「儀礼的無関心」…気づかないフリをする。両方とも役割演技をより円滑にする機能を持つ。(ルソー「透明のユートピア」)対(ゴフマン「不透明の効用」)…ルソーは演劇を嫌った。一方、ゴフマンは日常世界こそが演劇的に構成されている。どちらに極端に純化してもディストピア。
ゴフマン「アサイラム」(1961)…ワシントンDCの精神病院の全制的施設(トータル・インスティチューション)の参与観察。ルソー的世界と同様の成れの果て…

ラベリング理論と社会(問題)構築主義…逸脱行為は社会の側がその行為に「逸脱」のラベルを貼ることから始まる。1980年代頃から社会構築主義に結びつく。社会問題というのは社会が問題にするから起こる(社会問題化してない段階が、一番問題が酷い…という大澤氏の指摘は最もだけど、社会構築主義というのが向かう関心先はなんか違う(社会問題の建て方とかいろいろ)のではないか、とも思う)。
(2021 06/24)

二つの社会学の統合…

パーソンズの機能社会学と、シュッツの意味社会学。この二人の往復書簡というのがあるらしいのだけれど、ほとんどすれ違いなのだそう。それでも大澤氏はこの二つの統合を考える。そのヒントは共依存、アル中の夫に従う妻の心理状態(夫の回復を願う気持ちと、夫を支える妻という図式が心地良いという無意識と(それにまた無意識に応えるという形で夫もなかなか回復しない))…後者の状態は前者の状態から一つ外側から見ている図式…この辺から二つの社会学の統合に続いていくのだろう。
(2021 06/25)

超越論的(先験的)選択(上の例では外側から見る図式)の目的は、機能-構造分析の機能的要件。これはマートンの指摘する潜在的機能にあたる。

 「実際には何もしていないのに、あらかじめやっていることになっている」という選択の仕組み
(p484)


機能的要件から目的論的含意を排除すると構造主義の構造になる(p480で展開されたヘーゲルの葬式の説明はそれを示唆していた)。

「野生の思考」…「冷たい社会」と「熱い社会」

 冷たい社会というのは、歴史的要因が社会の安定性とか連続性にもたらす影響を可能なかぎり消去しようとする社会です。熱い社会は逆に、歴史的生成を積極的に取り込み、社会の発展の原動力にしようとする社会を指します。
(p499)


言うまでもなく、近代社会が熱い社会。無意識の思考の構造は古代から変わらず普遍性がある。違いはこの二つの社会の差にある。

構造主義への批判…デリダとブルデュー


構造には必ず「中心」がある。「中心」すなわち「ゼロ記号」デリダの言葉で言うと「代補」(シュプレマン…サプリメント)。これはこの本のフロイトのところで出てきたシニフィエなきシニフィアン。レヴィ=ストロースはそれを浮動するシニフィアンとして指摘のみし、ラカンは「男根」にその位置を特権的に与えた。しかしデリダは何にも特権的な位置を与えず、それが構造形成に中心的な意味を持つという。
音声中心主義に対する、デリダの文字(エクリチュール)中心主義。主体と文字とは無関係に離れて存在する。これが人間存在そのものであり、音声中心主義(フッサール→レヴィ=ストロース)は未だ「主体から疎外されていない記号」という夢の中にいるとする。

 どの主体も、ゼロ記号からは疎外されていて、自分の「内面」の状態とは対応しない。だからこそ、ゼロ記号はゼロ記号として働き、主体たちの言動を規定していた、と考えなくてはならない。
(p512)


(2021 06/26)

ブルデューのハビトゥス…行為者の行為や経験の中で働いている、その行為者の過去の経験の沈殿物
ハビトゥス×資本(文化資本、象徴資本(地位)、社会資本等)+界(経済界とか政界とかいう界)=プラクシス(実践)
ブルデューは構造主義が、構造の変動を捉えていないと批判したが、大澤氏の見立てではブルデューもうまくいっていないという(それはルーマンに継承)。

ハーバーマスとルーマン

フランクフルト学派…マルクス主義とフロイト精神分析を6対4くらい?
ハーバーマスもルーマンも子供(青年)の頃ナチズムの洗礼を受けた。
ハーバーマス(アレントとも似ている)の道具的理性(行為)と、対話的理性(コミュニケーション的行為)。近代を「未完のプロジェクト」と規定。
ハーバーマスを規範的とするとルーマンは記述的。

ルーマンの回

 どのシステムにおいても、そのシステムにとってレリヴァントな(関連する)コミュニケーションが要素になっているのであって、そのコミュニケーションを支えている人間が何者かであるかは問題になっていない。だから社会システムにおいては、常に、コミュニケーションがコミュニケーションしあうという構造になっている。
(p532-533)


システムの分類
「機械」、「生体」、「精神(人格)」、「社会」
(2番目の生体のところに本では(生命)とあるのだけど、自分的には違和感あるので外した。3番目の精神(人格)はそのままだけど、どっちかというと精神の方を外したいかも)
「機械」以外はオートポイエーシス
「精神」と「社会」は意味構成的
「社会」の構成要素はコミュニケーション(「精神」の構成要素は思考)

意味は「可能性の地平の中での否定」

 他の可能性があった「けれども」これをとったのは、他の可能性でもよかったということでもあります。他の可能性を保存しながら抑圧する、というのが「否定」という操作の含意です。いわば、他の可能性を貯蔵庫の中にキープしているのです。意味の地平の中にキープしておいて、そこからあるものを取り出している。これが、ルーマンにおいて「意味」という概念の一番重要なポイントです。
(p536-537)


(こういった経路を「体験加工」と呼ぶ)
「意味」の次元
事象的一般化(通常に使われる意味)
時間的一般化(物理的には変化している物を同一化)
社会的一般化(公共性を持つ意味)
ルーマンはこの三つの次元をそれぞれ独立しているとみる(ここもう少し踏み込みたいところ)
コミュニケーションには伝えたい情報そのものと、それを伝える人の情報(ムード(法)?)がある。

ルーマン続き


システムが持つ特徴(システム論第二世代)
1、システムの根源的存在理由は、システム外の環境よりも内部の方が複雑性が縮減されていること。外部と全く同じであればシステムは存在を失う(システムの蒸発?)
2、閉じたシステム、インプットとアウトプットも合わせて一つのシステム。システムはなんらかのメディア(経済システムで言えば貨幣)を持っており、それに反応しないものは存在しないと判断する。それら複数のシステムが束になったのが社会全体。
外部の観察能力を上げようとすると、システム内部に複雑性が求められる。システム本来の目的と反相関。

偶有性

 わかりやすく言えば「他でもありえた」ということです。他でもありえたのに、たまたまこうだ、というのが偶有性の意味です。他でありえないことは、必然性です。また端的にありえないことは不可能性です。このどちらでもないことが偶有性です。
(p558)

 偶有性ということが意味をもつためには、現に起きたことに対して、起きなかったり、なされなかったりした潜在的なことが、起きたことと同じくらいのアクチュアリティがなければいけません。実際には起きなかったり、起きていなかったことが、どうして現実と同じ権利でアクチュアルなどと言う権利があるのか。それは、他者が存在するからだと思うのです。偶有的というのは、究極的には、私が他者だったら、あるいは他者が私だったら、そのようにはやらなかった、ということに原点があるのではないでしょうか。
(p558-559)

 ルーマンがほんとうに強調したかったことは、社会秩序が成り立っているときでも、偶有性は完全には消え去らない、それは常に残っている、ということのほうにあったからです。
(p560)


偶有性こそが秩序を可能にしている?
ルーマン晩年の「社会のX」シリーズ?は、社会システムから見た(観察した)サブシステム(経済などいろいろ)。相対性を重んじるルーマンならでは。では「社会の社会」はいかなるものなのか?
(2021 06/27)

フーコー初期研究(「言葉と物」から)

 「先験的かつ経験的な二重体」とは、かつては神(先験的=超越論的な存在と人間(経験的な存在)として分かれていたものが、人間そのものの中に組み込まれたものだ、と。
(p576)


これが近代のエピステーメーの頂点にある「人間」。中世・ルネサンス期にはそれは「類似」、古典主義時代には「表象」と、(これまた)不連続に変わっていった。
「類似」の時代の象徴はドン・キホーテ(セルバンテスが書いていた時期は既に古典主義時代で、だからこそ嘲笑されることになる)。
「表象」は鏡の時代。というわけで、鏡を効果的に使う「侍女たち」を描いたベラスケス。
近代は、表象が指し示す記号と物が触知し合う場所、「人間」…ただこれも今は「海岸の浜辺で描いた砂の絵のように消え去っていく」…
言語学を例に取ると、「表象」の時代は名詞が、「人間」の時代は屈折して人間の動作を指し示す動詞が研究の中心になっていく。
(2021 06/28)

フーコー中後期(生権力、パレーシア等)

 語りつくせない「内面」というものがまずあって、告白がなされるわけではありません。論理の順番は逆で、告白するから、告白しなくてはならないと思うからこそ、告白しきれない「内面」が存在するように感じられてくるわけです。語ること(告白)と語りえないこと(内面)は表裏一体の関係にある。この「内面」なるものが、近代的な主体の成り立ちにとって不可欠であることは、理解できるでしょう。
(p589)


フーコーの思想史。前期は昨日書いた言説の研究、中期がここにある文章にある権力。権力は殺生の権限を持つ従来のものではなく、むしろ積極的に生かして統治するもの(生権力)。権力と主体の関係が循環していくものだとすれば、そこから外れて権力を批判することはどのように可能か。

それを導き出すのが後期晩年の研究。自己への配慮、パレーシアと呼ばれるもの。ソクラテスは、政治活動から手を引く。当時既にパレーシア(自分の意見を臆せず言う)が政治には役立てられない、パレーシアとは反対用語であるレトリックによって奪われていると考えた。
パレーシアや自己への配慮は「ほどほどの告白」?
権力にすべて従順で従っている人の方が、実は権力にとって危険要素?
新しい社会学理論は紙の受肉の理論。ルーマンやフーコーの理論は人がのコミュニケーションや言説が複数すぎるから、システムや権力が登場し社会秩序を成り立たせる。新しい理論は人間の複雑性、偶有性と順接でつながる。
偶有性だけが、相関主義的な循環から抜け出した、絶対的な実在である…メイヤスー

 なぜ失敗を恐れるのか。それは、現実の偶有性を信じることができないからです。現実が、こうである他ない、という思いから自由になれないからです。しかし、現実の根底からの偶有性を、基本的な前提、絶対の実在に等しい前提として組み込む社会学理論を作ることができたとしたらどうでしょうか。
(p630)

補足:ポストモダン(モダン拡張も含む)社会学列挙


ボードリヤール…消費社会、リオタール…大きな社会の終焉、ベック…リスク(危険)社会、ギデンズ…再帰性、バウマン…流動性社会、ネグリとハート…帝国(一つの国ではなく、国の連合、国際組織、企業云々合わせ)、トッド…家族制(最も原初的な家族は核家族?)
ここの中で一番引っかかったのは、再帰性の増大がリスクを増大させるというところ。何故か。考えてみよう。
(2021 06/29)

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