見出し画像

「〈現実〉とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換」 西郷甲矢人・田口茂

筑摩選書  筑摩書房

物(粒子)は実体ではない


場は物を実体として見た時に説明できないところから生まれた概念であるが、時にそれを実体としてしまう誤謬が生じる。
数学-あるxに値を入れる。一つの解しかないものから、どのような値を入れてもよいもの、そしてそもそも値を入れるということを前提としなくとも議論ができる「不定元」というものへ。
実験結果は、実験の設定がどうかにより異なる。よって設定(問い)が答えを決める。現象に即すことがそのまま数学になる。現象学と数学の共通認識。

 その出現が決して決定論的には記述できないということである。しかも、事実的な制限(技術の未発達など)によるのではなく、原理的にいって、決定論的には記述できないということである。したがって、粒子は「ここ」ではないどこかに現れてもよかったはずだが、なぜ「そこ」ではなくて「ここ」に現れたのか、については、物理の理論としては沈黙せざるをえない。
(p45)

非基準的選択


どれを選んでもいいが、選んだ瞬間、違う選択肢を選べなくなって決まるもの。
静的な数学世界と、動的な数学世界は、ある(目に見えない)媒介で結びつく。
媒介そのものに、静的世界の含意がある。
(序数と基数(数というものを覚える子供は最初1番、2番と覚えつつ、その順番には意味のないことを知っていく)、数学的記号と表されるもの、進法など)
数直線的時間は空間的な置き換え、空間とは置き換え可能性の現れ。ベルクソンも参照。

 「発見される」というときには、「誰でも発見しえた」ということを含意し、「創造された」というときには「一度かぎりの主体的な活動によって」ということを含意していると思われるが、この二つは対立することなのではなくて、われわれが非規準的選択と呼ぶ一つの出来事にもとづいて、はじめて語りうるようになることなのである。
(p89)
 「物」は現われの変化のなかにはじめて見えてくる。というより、現われの変化が織りなすシステムをつかんだとき、われわれは「同一の物」をつかんだと思うのである。
(p98)


もし、本の表側と裏側を同時に見ることができたらどうか?物の全ての現われを同時に見たらそれは同一の物として認識できないのではないか。フッサールは「神ですら全ての現われを見ることはできない」と述べている。
そして、この変化が織りなすシステムというのが、この本の現象学と並ぶもう一つの柱である「圏」になる。圏は対象tp矢(射)という動きからなる。ある一つの圏から別の圏へ移る関係を関手といい、この関係が別のものの関係へと変換されるのを自然変換と呼ぶ。ガリレイ変換はその一つ。

数学とは「どのくらいの精度の粗さなら同じと言えるか」という考えの徹底からなっており、これにより自然変換が可能になる。実際の圏論の動きとしては、最初に自然変換をどのように表すかから始まり、そこから関手、圏と降りてきたという。
(2021 01/01)

「私」の置き換え可能性

 ここで重要なのは、「私」という語の機能は、何かを「固定する」ことではない、という点である。「私」というとき、この語はある個体を固定的に指示するわけではない。むしろ、「私」といった途端に、われわれは「私」たちの無限に開かれた置き換え可能性のなかに自分自身を置く。いわば「私」とは「点」ではなく「矢印」であり、さらにいえば「自然変換」なのである。…(中略)…「私」といった途端に、無数の「他の私」が想定されており、「私」自身はこの置き換え可能性のなかで自分自身を理解している。
(p146-147)
 「私の視点からしか一切を見ることはできない」という置き換え不可能性(個体性)そのものが置き換え可能であるということを理解することが、「私」という語を使えるようになるということであった。
(p157)
 それがいかなる問いの答えであるかによって、それが「正しい」か「正しくない」かも変わってしまうのである。われわれが何らかの端的な断言を「正しい」と思うとき、その背後には、意識されていない「問い」が隠されているのである。そして「問い」を共有するときにのみ、われわれは何らかの「正しさ」を共有することもできるのである。
(p181)
 かつて、この世界は「可換な世界」だと思われていた。しかし量子論が示したことは、少なくとも原子レベル以下の出来事については、「位置」とか「運動量」のように根本的な量が非可換であると考える必要がある、ということであった。つまり、物理量というのは本来、数値に還元できない「はたらき」ともいうべきものなのである。
(p216)

私という言葉を使えるようになることが、私を客観視(他の誰かの視点に入って「私」と考えることができる、ということか、例えば。

可換とは順番を変えても変わらないもの、例えば2×3=6というのと3×2=6の例。でも大半の事例は非可換、ここではアンケート効果(アンケートの質問の順番を変えると、結果が変化するというもの)を例にしている。

 こうしてみると、しばしば対立的に捉えられる普遍性と自由というものは、かぎりなく一体であることが見えてくる。そしてこの「自由」とは、確定的な法則のなかに取り込むことができず、それらから切り離すこともできない動きそのものであり、「問うこと」はつねにこの動きに参与している一つの契機である。問題は、「問うこと」がどこまで「自由そのもの」に関わっているかである。
(p230-231)


「問うこと」というのは「実践」と言い換えてもいい。さて一つ自分が疑問を呈するならば、例えばp195の太古の祖先の生活の例は果たして「自由」と言えるのかどうか。最終的には自分の判断であることは間違いないが、あらゆる圧力の結果咄嗟に起こった実践ではないか。また太古でなくともだいたいの日常行為は圧力、慣習、契約もろもろの上に成り立っているものではないだろうか。という点が上の文章の最後の文、「問うこと」がどこまで「自由そのもの」に関わっているか、なのかな。

附論がある。囚人のジレンマについて。

 この囚人のジレンマが鋭く示すことは、「個々のプレーヤーにとって最善の戦略を「合理的」に選択した結果落ち着く先(ナッシュ均衡)は、プレーヤー集団にとって最善のもの(パレート最適)ではないことがある」ということである。
(p240)


さて、シャフリール(でいいのかな)とトヴェルスキーの1992年の実験によれば、
1、相手が「敵対する」ことが確定している場合、「協力する」を選択したのは3%
2、相手が「協力する」ことが確定している場合、「協力する」を選択したのは16%
3、相手の行動が「不確定」である場合、「協力する」は37%
実際には、どちらでも「敵対する」にした方がポイント高いのに、それも2の場合より3の場合の方が「協力する」率が高いという。これは、1や2のような「確定的」な場合と、3のような「不確定」な場合とでは、行動を決める際の「モード」を変えているのではないか、という。「確定的」の場合は計算モードであるが(カーネマン的にはレベル2)、「不確定」ではレベル1のヒューリスティック(とはこちらの本には書いてないが)が現れる。ここでどちらの場合でも処理できるのが非可換確率理論(量子的確率理論)。
 この不確定状況における囚人のジレンマの実験が示唆するのは、まさしくわれわれの意思決定が、一般には古典確率論的な「合理性」に還元できない、「選択肢すら確定していない」という状況にも対応するような構造に支えられているのではないか、ということである。
これはニクラス・ルーマンが「信頼-社会的な複雑性の縮減メカニズム」で述べていることと重なる。

さてこの本は西郷氏と田口氏の主にインターネットによる対話、もしくは共同著述によって作られたという(そもそもはピート・ハットというオランダ人研究者が田口氏に西郷氏を紹介し、三人で本を書こうとしたという。ハット氏は後に多忙となった)。だから、この章が西郷氏で、この章が田口氏という分担ではないのだという。
(2021 01/02)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?