「ワイマルのロッテ(上)」 トーマス・マン
望月市恵 訳 岩波文庫 岩波書店
ワイマール、ホテルエレファント
最初を少し読む…10ページくらい、まだ宿の給仕が部屋に案内したところまでなのだが、読みどころ満載で困る…まずは、この時代(19世紀初頭)の定期馬車とか宿のシステムとか光景とかの世俗的興味なのだけど、それ以外にももちろん…
この朝、馬車から降りてきた三人の女性、母と娘と小間使い。そのうちの母が、いわゆる「ロッテ」…ゲーテの「若きウェルテルの悩み」のヒロインのモデル。で、このロッテが宿の給仕、マーゲルへの最初の一言が「おはよう、あんた!」なのだ…初対面の身分ある女性が言う言葉ではないだろう。p17では「あんた」と「あなた」を使い分けている。こうなると、「あんた」の箇所は原文でもかなり違和感あると思われるのだが。これが「宮中顧問官未亡人シャルロッテ・ケストナー」なる人物の、マンが描く「ロッテ」の強烈な個性的によるものには違いない。仕草でよく出てくる頭がこっくりするように震える…というのと同じように。
ちょっと戻って、三人が馬車から降りるところ。
こういう、余計な一言、皮肉がマンらしく、この後も何回も出てくる。あとは、人物の視線の描写…
というように、なぜか皆相手の頭の向こうを見ている、という朝の宿の情景。いつもと変わらぬ同じような朝、というところなのか、しかし、少なくとも給仕マーゲルにとっては、宿帳に「シャルロッテ」の名前を見てからは、特別な朝となった。
読みどころまだまだ。給仕の言葉から(まだ宿帳書いてない時点)。
「法律と規則」云々は、ゲーテ「ファウスト」の一節。「ワイマールのロッテ」には、たぶんこれからもゲーテ作品の引用やくすぐりが出てくるのだろう。と、それはいいとして、前半の「警察の脱皮」というのはマーゲルオリジナル? なかなかの文学的表現であると思うのと同時に、これはマンの同時代ドイツへの早速の批判とも言えるのかもしれない。
読みどころ最後(としておく)は、シャルロッテが宿帳を書いているシーンから。
マン来た!という感じ(笑)。
宿帳に名前を書くというだけでこれだけ盛り込めるというのはどれだけの観察眼と文章力なのだろう。読者も、令嬢、マーゲル、事務員もしくはイギリス人というように視点移動しながら、それぞれの立場(まだ物語が始まったばかりのニュートラルな)の心情を確認していく。
読みどころはこのくらいにして(笑)、付属情報…
その1、上巻の文庫表紙には、シャルロッテ・ケストナーの肖像画が載っている…確かに「あんた」とか言いそう(笑)。
その2、この宿、ホテルエレファントは、ワイマール中心マルクト広場に面する実在する高級ホテル(ヒトラーも演説したとか)。1696年創業。もちろん?マン自身も常連で、「今、このホテル舞台に小説書いているんだ」とかにやにやしながら、第二のマーゲルに向かって話していたのかも…カフェは宿泊してなくても入れる…とか。
その3、最後に告白だが…「若きウェルテルの悩み」読んでない…
(2022 04/03)
シャルロッテのリボンと手紙
小説のロッテは黒い目で、現実(というかマンの小説内の)ロッテは青い目とか、小説の中に真実と虚構が入り組んでいる。ここもこれからテーマの一つになり得るけれど、この会話の中で「詩と真実」というゲーテ作品名がさりげなく織り込まれているのも楽しい。
ロッテは白い服にピンクのリボンがついたのを持って来ていた。娘のロッテ(母娘、同じ名前。これはマンの創作?それとも実際にもそうなのか?)がリボンを変えようとすると、未亡人ロッテは「これはいたずらなのだから変えないで」と言う。このリボンは「ウェルテル」で出てくる重要小物。
そして…
巧いなあ…この前の部分まで、母娘の会話が続き、何かゲーテの小説のモデルであることが災厄であるかのような言いっぷりであったのが、夫人一人になると昔のことに浸る…頭を震わせながら…手紙の中には一回もゲーテの名前が出てこないけれど、読者はわかる…こうして物語大枠を提示して第1章は終わる。
(2022 04/06)
小説の効能とミス・カズル
第2章は、前半は旅館の部屋のベッドで、ハンカチで目を覆いながら横になっていた夫人が記憶を辿っているところ。後半は、そこからの眠りから覚め、マーゲルが連れてきたミス・カズルというアイルランド出身の女性画家…というか似顔絵描き?の相手をするところ。
前半部分から。
ロッテが「そとから来た青年」ゲーテではなく、婚約者ケストナーを選んだというのは、もちろん世間体を考えてのことだっただろうけど、やはりゲーテという人物が単に怖かったことの方が強かったのかもしれない。人間ゲーテを見ようとしたら、底無しの深淵しか見えなかったとか。
この小説、ナチスに「亡命した作家が、ドイツの大芸術家ゲーテを批判しているのはけしからん」と言われたとされているが、ここなどその部分の入り口だろう。
この後、様々な当時の細かいことを夫人は思い出していくが、それはそのままではなく、「中継ぎ」の記憶、すなわち小説作品を通したから生き生きと思い出していった(現実と小説(虚構)、詩と真実がどれだけブレンドされているかは、誰にもわからないが)。これは、夫人のような特殊なケースだけではなく、一般に小説作品読むことに当てはまるのではないか。読み手の記憶の奥底にある曖昧模糊な記憶の原型が、小説という「中継ぎ」の平面に並べられ、読み手はそれらを区別することなく一緒くたに味わう。そうすることによりより鮮明に辿ることができる。
後半部分からはミス・カズルの登場の場面。
とにかく、「黄色い」が迫って来て、これから何かの英語を聞く度に黄色が登場してくると思われるけれど…
それにしても胡散臭い人物である…世界の有名人のスケッチをし続ける…ロッテに面会したのも実はゲーテ(そしてその先)を狙ってのこと…しかし、だんだんロッテは心を許していく。
(この章、この人物は、これで笑って流せるくらいの重要度だろうか、それともここに人間社会の「悪」が潜んでいると考えねばならないのだろうか。自分の中で結論が出ないままに章は閉じてゆく)
そして、第2章の終わりには、既に部屋の中にいるマーゲルから、新たな人物の来訪が告げられる。ドクトル・リーマー、言語学者で辞書編集者。かつゲーテの息子アウグストの家庭教師兼ゲーテの秘書…そして、このリーマーが第3章の中心になっていく(ミス・カズルはどうするのだろう?)…いきなり大物登場か…とページめくってみると、第1、2章が20ページくらいだったのに対し、第3章は110ページ…
どうする?
(2022 04/07)
消失点としてのゲーテ
というわけで第3章。
リーマーとは、夫人の部屋を出て(ここで絵を描き上げたミス・カズルとはお別れ)、旅館一階のパーラーで話し合う。リーマーに言われて、旅館の玄関前を覗き込んでシャルロッテは、そこに多くの人々がシャルロッテを見ようと待ち構えているのを見る。
作家として生きていくマン自身の覚悟表明のようなところもある。そして同時に、今醜悪な政治思想と戦争に従っているように見えるドイツの民衆をも、二面性を理解しながら見ていく(当時はマンは亡命していた)意思表示でもある。
そこに、不在の消失点のように、清濁併せ持つかのようなゲーテを配置する、というのは読んでいる途中の自分には目指すところがまだ見えてこないし、マンにとっても大きな賭けではなかったのか。
今日はここまで(p75)。
(2022 04/08)
リーマー氏は、ワイマルで結婚し教師の職についている。これはゲーテ側から暗に勧められたことで、その為に彼はロストックからの大学教授招聘の話を断った、と本人は言う、p80の文に首肯するところがあるのと同時に、首肯せざるところもある、と今は考えておく。
アイロニーひとつまみ
今日読んだ分。
リーマーとシャルロッテの会話の合間に、またシャルロッテの頭の震えと、それに対応するようなリーマーの手の震えというのが、挿入される。
ここでの神秘とは個性のこと。それでは、ゲーテの個性とはどのようなものなのだろうか。
続いては、ゲーテの詩をリーマーが、この日理髪店へ行く前に思い出したところ。
なんかこの詩見たことある…この後、今日読んだところのどこかで、さりげなくこの詩が参照されていたりして…
ここから、だんだん、リーマーというかマンの思想の深化が止められなくなってきて。
神、またはここで神に擬されているゲーテは、激情の人ではなく、無関心な倫理的関心のないものとして描かれる。確かに先程の「蠅の死」の詩など見てると、思わずうなずいてしまう(それはマンに対しても同じ)。
「ファウスト」の、ファウストとメフィストフェレスという対の眼差。それを両方含む芸術の眼差。
アイロニーは塩に喩えられる。
リーマーによると、ゲーテの日常の言葉は、聞いている方はよく忘れてしまう、という。意外ではあるが、一つには人間ゲーテに付随する様々なもの(身振りとか人柄とか)が、言われた内容を圧倒してしまうという。そして、もう一つの理由がこの文章に示されている。
(2022 04/10)
郭公鳥と神の居候
ケストナーとロッテの中に入ってかき乱したゲーテ、それに対して困惑と憐れみを感じた二人…格好鳥の方が比喩巧いと思うけれど、神の方の文章ではギリシャ神話やそれを元にしたバンヴィルの「無限」を思い出した。
最後のp162の文はわからないところも多いけど、「ウェルテル」が発表された当初、真似する人が増えたという直接的な「罪」は元より、詩に陶酔し茫然とすることもその「罪」としても良いだろう。そしてその「罪」と、正真正銘の(ナチスなどの)「罪」とは地続きであるとも今は考える。
これで第3章は終わり。最後はやはりマーゲルが部屋に入ってくる。
(2022 04/12)
ショーペンハウアーの妹と「アデーレの物語」
昨日、今日で第4章、そして少しだけ第5章に入る。
第4章でシャルロッテのもとを訪ねてくるのは、アデーレ・ショーペンハウアー。この人の母親、マダム・ヨハンナ・ショーペンハウアーはサロンを開き、そこにゲーテもよく訪れていた、という(第2章でちらりと出てくる)。
一度聞いたら忘れられないこの独特な名前、「意志と表象としての世界」のアルトゥル・ショーペンハウアーは、このアデーレの兄(11歳違い)、ただ、母と哲学者は不仲だったという。
…でも? この作品にはアルトゥルのことは一言も(今のところは)触れられず。
今日読んだp192以降のところでは、確かに「ゲーテを単に崇め祀っている人達」にすれば「不敬」な内容に言及している。
「あの方」すなわちゲーテが「暴君」であり、それは周りの人々がそうさせている…というここの内容は、ゲーテを神格化している、そして自らの大衆操作の方法を文章化させられている、というところで、当時の政権には許せなかったところだろう。マンの作品でいえば「マリオと魔術師」に共通性を見出せるだろう(これももう一回読みたいなあ)。
第4章は30ページ少し、前章のリーマーに比べ短いなあと思っていたら、章最後にマーゲルは登場せず、そのままアデーレが話す友人のオティーリエ・フォン・ボグウィシュの話に突入する。上巻は第5章で、つまり「アデーレの物語」(ここ、そう書いてあるけど、内容はアデーレ自身の話というより、オティーリエの話)で終了、100ページ弱かけて、まだアデーレの話が続く…
今のところはオティーリエの生い立ち。父親がプロシアの軍人。オティーリエが生まれたあと両親は別れさせられたが、オティーリエはどうやら父親に憧れていて、ザクセン・チュービンゲン(要するに今いるワイマル)よりプロシアの方が優れている、と密かに思っている。それを友人たるアデーレだけには告白した…というところまで。
で、このオティーリエがこの後、ゲーテの息子アウグストと結婚する、友人としてアデーレはこの結婚がとても気がかりらしい。シャルロッテも信じられない様子…
(2022 04/14)
パッソー教授、後世に名を残す?
眠いので少しだけ…と思ったら、寝ぼけてて読んでも見逃せない箇所が…
自分も仰天した…
ここでナチスの予見が出てくるとは(1939年出版)…
「あなた」とは、ワイマルのギムナジウムの教師パッソー教授。p215ではアデーレによって高く評価されていて、兄アルトゥルの個人教師もしていたという人物。この人物がギリシア精神を明らかにすることで、民族としてのドイツ人が失ってしまった自由と祖国への感激を呼び戻すことをしている、というような発言をした。その時ゲーテは反論し、古代ギリシアという離れた世界よりも、今の周りの世界を視野に入れてむつまじく付き合うと言っている。その後に先の言葉が出てくる。
パッソー教授の考えも、最初に読んでいる限りは特に危険な感じはしなかった。それが「高貴で純潔な域」というところだろう。ただ、それはのちのちその域を超えてある危険な思想に発展する、とゲーテは感じとったのだろう。実際のゲーテやパッソー教授がどうかはおいて、ここにはファシズムの根本的な原因はどこにあったのかを探ろうとするマンの苦悩に満ちた姿勢がある。
勝ち続ける敵
続き。アデーレの語る1813年。この年、プロイセン(オティーリエの熱情の源泉)から反フランス、ナポレオンの放棄が起こる。その狭間にあったワイマルでは、蜂起軍が来てはフランス軍が取り返して占領していた。
ここなど、状況を離れて一般化できそうな、人生の日常の感覚に還元できそうな気もする。自分は何かを起こしたい、けれど「秩序」も大切でそれにはかなわない。そうしていつしかその思いだけが沈殿化していく。ただここも上記のファシズムの起源の考察とも関わりがあるのだろう。
プロイセン蜂起軍が来てすぐさまエルフルトからフランス軍が鎮圧した日の翌日、アデーレとオティーリエは、町外れの茂みに負傷したプロイセン兵士がいるのを見つける。このハインケという学生(ブレスラウ大学というから、自分が学食行ったとこだ)、負傷しながらこんなに明るく振る舞うのがちょっと不自然な気もするけど、この二人からは「英雄」扱いされて町の城な中の隠し部屋で療養することになる。彼とそれからアウグスト、オティーリエはどうするのか…というのがこれからの進む物語…
メビウスの輪と鏡に映ったゲーテ
上の段落のところ(p250まで)が今日の昼。そして、そこから夜に読み進めて、先程、p303までつまり上巻最後まで読み終えた。
偉大な父ゲーテと、その父親に従うべしと決めつけるが故に精神が荒れ飲酒癖や女性遍歴が取り沙汰されるアウグスト。そしてそのアウグストに何かはわからないけれど愛を感じなければならないと思うオティーリア。彼女の場合は、プロイセンへの熱情とアウグストへの愛情の特別視は同じところから出ているのではないかと思う。
そこへプロイセンやロシアの連合軍がフランスを破り「解放」した。ワイマルではナポレオンを追うために「義勇軍」を作り身分の高い若者が参加した。アウグストもその波に飲まれるように義勇軍に名を連ねるが、父ゲーテの配慮で名前だけになり、短期間フランクフルトへ行った後はずっと今まで通り父の手伝いをしていた。この状況を戦勝して帰ってきた義勇軍のメンバーが許すはずもなく、一時は決闘騒ぎ(これも父の手回しで未然に防がれた)にもなった。
ここも執筆中のマンの考えが入り込んでいる(というよりメビウスの輪のように捻れて表に現れている箇所でもある。と同時に、もっと日常生活に引き寄せて考えても、言葉に出てきた動機と実際にその人を突き動かしたものとの乖離は随時起こっている、ということに気づかせてくれる。
ここでの「作品」は「親和力」のこと。話者のアデーレはここで、アウグストの破壊的な心情が、父親ゲーテにも違った形で見られるということを話していて、その証明が「親和力」で試みられている。「若きウェルテルの悩み」も青年ゲーテの破壊的危機からの脱出の書であった(と文庫解説に書いてあった)。とすればアウグストは自分の「若きウェルテルの悩み」を書けなかったことがずっと響いているのだろう。そして、例外は父ゲーテの方で、ほとんどの場合はアウグストと同じ結果を歩むこととなるのだろう。
と紆余曲折(ハインケはあの後二度ワイマルに戻ってきて、結局当時からシレジアにいた許嫁と結婚する)あって、この年(1816年)の大晦日にアウグストとオティーリアは婚約する。アデーレの危機感は現実のものとなった(その後の生活みても(注に書いてある)、オティーリアはあまり幸福とはいえない放埒な人生を送ったらしい)。第5章最後のページには、オティーリアが父ゲーテと会ったことについて短く書いてある。これは小説の最後の章で、シャルロッテがゲーテを見ることと響き合っているのかもしれない。
(2022 04/17)
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