見出し画像

「ワイマルのロッテ(上)」 トーマス・マン

望月市恵 訳  岩波文庫  岩波書店

ワイマール、ホテルエレファント


最初を少し読む…10ページくらい、まだ宿の給仕が部屋に案内したところまでなのだが、読みどころ満載で困る…まずは、この時代(19世紀初頭)の定期馬車とか宿のシステムとか光景とかの世俗的興味なのだけど、それ以外にももちろん…

この朝、馬車から降りてきた三人の女性、母と娘と小間使い。そのうちの母が、いわゆる「ロッテ」…ゲーテの「若きウェルテルの悩み」のヒロインのモデル。で、このロッテが宿の給仕、マーゲルへの最初の一言が「おはよう、あんた!」なのだ…初対面の身分ある女性が言う言葉ではないだろう。p17では「あんた」と「あなた」を使い分けている。こうなると、「あんた」の箇所は原文でもかなり違和感あると思われるのだが。これが「宮中顧問官未亡人シャルロッテ・ケストナー」なる人物の、マンが描く「ロッテ」の強烈な個性的によるものには違いない。仕草でよく出てくる頭がこっくりするように震える…というのと同じように。

ちょっと戻って、三人が馬車から降りるところ。

 その三人はひとめ見ただけでは-そして、ふため見たとしても-これという変ったところのない三人であった。
(p7)


こういう、余計な一言、皮肉がマンらしく、この後も何回も出てくる。あとは、人物の視線の描写…

 女主人は物憂そうな眼差で新しい三人の客を見つめるというよりも、むしろ三人の頭をこえて空を見つめ、老婦人の挨拶と若い令嬢の膝をかすかにかがめるお辞儀に重々しくうなずいて見せ
(p10)


というように、なぜか皆相手の頭の向こうを見ている、という朝の宿の情景。いつもと変わらぬ同じような朝、というところなのか、しかし、少なくとも給仕マーゲルにとっては、宿帳に「シャルロッテ」の名前を見てからは、特別な朝となった。
読みどころまだまだ。給仕の言葉から(まだ宿帳書いてない時点)。

 警察はいつの世になっても脱皮できませんので。法律と規則とは永遠の悪疫のように遺伝されて行く、とも申したいのです。
(p11)


「法律と規則」云々は、ゲーテ「ファウスト」の一節。「ワイマールのロッテ」には、たぶんこれからもゲーテ作品の引用やくすぐりが出てくるのだろう。と、それはいいとして、前半の「警察の脱皮」というのはマーゲルオリジナル? なかなかの文学的表現であると思うのと同時に、これはマンの同時代ドイツへの早速の批判とも言えるのかもしれない。
読みどころ最後(としておく)は、シャルロッテが宿帳を書いているシーンから。

 彼女は横からのぞきこまれながら書きつづけた。一方からは令嬢が美しい三日月のような(母親ゆずりの)眉毛を額に引き上げ、結びしめた唇を皮肉そうに歪めながら母親の肩ごしにのぞきこんでいたし、一方からは給仕のマーゲルが婦人客の手もとを見つめていた。彼は客が赤い線で区切られた欄に所定どおりに書きこんでいるかどうかを見はるためと、小市民らしい好奇心から、そしてまた、客がどこの誰とも知られていないという、ある意味でありがたい状態から引き出されて、名前を告げ、名前を明らかにしなくてはならない瞬間を迎えたことにたいして満足な気持-痛快な気持がいくぶんまじり合うのが常である満足感をもって見まもっていた。事務員とイギリス人の旅行者もなんということなく談話をやめて、老婦人が頭を震わせながらほとんど子供のような几帳面な字で名前を書きつづけているのを見守っていた。
(p12)


マン来た!という感じ(笑)。
宿帳に名前を書くというだけでこれだけ盛り込めるというのはどれだけの観察眼と文章力なのだろう。読者も、令嬢、マーゲル、事務員もしくはイギリス人というように視点移動しながら、それぞれの立場(まだ物語が始まったばかりのニュートラルな)の心情を確認していく。

読みどころはこのくらいにして(笑)、付属情報…
その1、上巻の文庫表紙には、シャルロッテ・ケストナーの肖像画が載っている…確かに「あんた」とか言いそう(笑)。
その2、この宿、ホテルエレファントは、ワイマール中心マルクト広場に面する実在する高級ホテル(ヒトラーも演説したとか)。1696年創業。もちろん?マン自身も常連で、「今、このホテル舞台に小説書いているんだ」とかにやにやしながら、第二のマーゲルに向かって話していたのかも…カフェは宿泊してなくても入れる…とか。
その3、最後に告白だが…「若きウェルテルの悩み」読んでない…
(2022 04/03)

シャルロッテのリボンと手紙

 ゲーテがあのように詩と真実をすっかり一しょにしたために、わたしたちが、お前の亡くなったお父様とこのわたしが、こうむらなくてはならなかった数々の迷惑のことは別にしてもね…
(p29)


小説のロッテは黒い目で、現実(というかマンの小説内の)ロッテは青い目とか、小説の中に真実と虚構が入り組んでいる。ここもこれからテーマの一つになり得るけれど、この会話の中で「詩と真実」というゲーテ作品名がさりげなく織り込まれているのも楽しい。
ロッテは白い服にピンクのリボンがついたのを持って来ていた。娘のロッテ(母娘、同じ名前。これはマンの創作?それとも実際にもそうなのか?)がリボンを変えようとすると、未亡人ロッテは「これはいたずらなのだから変えないで」と言う。このリボンは「ウェルテル」で出てくる重要小物。
そして…

 母親は娘に和解を求めるように接吻し、小間使が膝をかがめてお別れのお辞儀をしたのにうなずいて見せ、ひとりになった。鏡台の上にインキとペンがおいてあった。夫人はそこへ腰かけて、紙を取り、ペンにインキをつけ、頭をかすかに震わせながらすでに頭のなかに用意してあった文面を走り書きした。
「尊敬しますお友だち! 娘のシャルロッテをともないまして妹を訪ねにあなたの町に数日のあいだ滞在いたします。つきましては、あなたにわたしの娘を見ていただきたいとも存じますし、わたしたち二人のそれぞれがそれぞれのふかさで人生にたえてきましたあいだに、世界にとりまして大きな意味を持つようになられたお顔を見せていただきたいとも存じます。-ワイマル、エレファント旅館にて、一八一六年九月二十二日、シャルロッテ・ケストナー、旧姓ブフ」
(p35-36)


巧いなあ…この前の部分まで、母娘の会話が続き、何かゲーテの小説のモデルであることが災厄であるかのような言いっぷりであったのが、夫人一人になると昔のことに浸る…頭を震わせながら…手紙の中には一回もゲーテの名前が出てこないけれど、読者はわかる…こうして物語大枠を提示して第1章は終わる。
(2022 04/06)

小説の効能とミス・カズル


第2章は、前半は旅館の部屋のベッドで、ハンカチで目を覆いながら横になっていた夫人が記憶を辿っているところ。後半は、そこからの眠りから覚め、マーゲルが連れてきたミス・カズルというアイルランド出身の女性画家…というか似顔絵描き?の相手をするところ。
前半部分から。

 愛情と誠実とが誘惑よりも強かったからだけではなくて、そとから来た青年の性格にひそむ秘密にふかく恐怖を感じていたからでもあった。-彼の性格にひそむ非現実的なもの、生活的に信頼できないもの、彼女はそれを言い表わせなかったろうし、言い表わす勇気もなかったろうが、あとになってから詠歎的な自責的な言葉で言い表わしたのであった。つまり「目的も安らぎも知らない非人間」という言葉で。
(p45)


ロッテが「そとから来た青年」ゲーテではなく、婚約者ケストナーを選んだというのは、もちろん世間体を考えてのことだっただろうけど、やはりゲーテという人物が単に怖かったことの方が強かったのかもしれない。人間ゲーテを見ようとしたら、底無しの深淵しか見えなかったとか。
この小説、ナチスに「亡命した作家が、ドイツの大芸術家ゲーテを批判しているのはけしからん」と言われたとされているが、ここなどその部分の入り口だろう。

この後、様々な当時の細かいことを夫人は思い出していくが、それはそのままではなく、「中継ぎ」の記憶、すなわち小説作品を通したから生き生きと思い出していった(現実と小説(虚構)、詩と真実がどれだけブレンドされているかは、誰にもわからないが)。これは、夫人のような特殊なケースだけではなく、一般に小説作品読むことに当てはまるのではないか。読み手の記憶の奥底にある曖昧模糊な記憶の原型が、小説という「中継ぎ」の平面に並べられ、読み手はそれらを区別することなく一緒くたに味わう。そうすることによりより鮮明に辿ることができる。

後半部分からはミス・カズルの登場の場面。

 たちまちドアのそとでミス・カズルの子供っぽい黄色い声が興奮したさえずりをひびかせはじめ、そのさえずりが二度ともう黙りそうもなく、「最上級の興味を持つ」「最高の重要性を持つ」という英語をひときわ黄色く速射しながら細まりも弱まりもせずに流れつづき、室内の圧倒された老婦人は、廊下で待ち伏せている女性の強情に降参して姿を見せるのが、いつまでもつづくお喋りをやめさせるもっとも賢明な方法であるとしだいに観念した。
(p50)


とにかく、「黄色い」が迫って来て、これから何かの英語を聞く度に黄色が登場してくると思われるけれど…
それにしても胡散臭い人物である…世界の有名人のスケッチをし続ける…ロッテに面会したのも実はゲーテ(そしてその先)を狙ってのこと…しかし、だんだんロッテは心を許していく。
(この章、この人物は、これで笑って流せるくらいの重要度だろうか、それともここに人間社会の「悪」が潜んでいると考えねばならないのだろうか。自分の中で結論が出ないままに章は閉じてゆく)
そして、第2章の終わりには、既に部屋の中にいるマーゲルから、新たな人物の来訪が告げられる。ドクトル・リーマー、言語学者で辞書編集者。かつゲーテの息子アウグストの家庭教師兼ゲーテの秘書…そして、このリーマーが第3章の中心になっていく(ミス・カズルはどうするのだろう?)…いきなり大物登場か…とページめくってみると、第1、2章が20ページくらいだったのに対し、第3章は110ページ…
どうする?
(2022 04/07)

消失点としてのゲーテ


というわけで第3章。
リーマーとは、夫人の部屋を出て(ここで絵を描き上げたミス・カズルとはお別れ)、旅館一階のパーラーで話し合う。リーマーに言われて、旅館の玄関前を覗き込んでシャルロッテは、そこに多くの人々がシャルロッテを見ようと待ち構えているのを見る。

 人間というこの二面的な存在について語りますのには、二面的な話しようをするほかに話しようがないと申してもよろしいでしょう。そういう話しようを人間性にもとる話しようと考える必要はないでしょう。人生のさまざまな現実から美しい面と喜ばしい面を汲み取り、しかも暗い面についても知識を持ち、そういう裏面に見られる多くの節くれだった瘤や、たれ下がっている醜悪なひげからも目をそらさないのは、これは意地のわるい悲観的な見方ではなくて、人生を愛好する者の見方というべきです。
(p69)

 つまり極限であって-同時にまたその反対の極限をふくむのです。真実は、奥様、必ずしも論理に従うだけでは満足いたしません。真実を歪めたくないのでしたら、ときたま論理に矛盾する覚悟がなくてはなりません。
(p72)


作家として生きていくマン自身の覚悟表明のようなところもある。そして同時に、今醜悪な政治思想と戦争に従っているように見えるドイツの民衆をも、二面性を理解しながら見ていく(当時はマンは亡命していた)意思表示でもある。
そこに、不在の消失点のように、清濁併せ持つかのようなゲーテを配置する、というのは読んでいる途中の自分には目指すところがまだ見えてこないし、マンにとっても大きな賭けではなかったのか。
今日はここまで(p75)。
(2022 04/08)

 誰もが自分の好む道を歩き、自分の選んだ生活を送り、自分の幸福を自分で築くように生まれついてはいないのです。
 自分自身の仕事でもなく、自分自身でもなく、また、永久に自分の仕事のなることのない仕事に協力することにあるのです。
(p80)


リーマー氏は、ワイマルで結婚し教師の職についている。これはゲーテ側から暗に勧められたことで、その為に彼はロストックからの大学教授招聘の話を断った、と本人は言う、p80の文に首肯するところがあるのと同時に、首肯せざるところもある、と今は考えておく。

アイロニーひとつまみ


今日読んだ分。
リーマーとシャルロッテの会話の合間に、またシャルロッテの頭の震えと、それに対応するようなリーマーの手の震えというのが、挿入される。

 私たち人間は神秘がなくては一日も生きられないものらしいのです。
(p98)


ここでの神秘とは個性のこと。それでは、ゲーテの個性とはどのようなものなのだろうか。
続いては、ゲーテの詩をリーマーが、この日理髪店へ行く前に思い出したところ。

 蠅は命とりの汁を貪り吸う、
 はじめの一口にだまされていきもつかずに。
 うっとりと目をふさいでいるが、
 ほっそりとした肢のふしぶしがしびれてきた…
(p113 蠅の死)


なんかこの詩見たことある…この後、今日読んだところのどこかで、さりげなくこの詩が参照されていたりして…
ここから、だんだん、リーマーというかマンの思想の深化が止められなくなってきて。

 神には特殊な冷淡さ、圧倒的な無関心を属性として考えるほかはありません。
 神は全体です。従って、神は自分以外に打ちこむべきものを持っておりません。自分のほかには所属すべき党派を持たず、だから神の本質は明らかにすべてを包括するアイロニーです。
 全体は無に、ニヒルに類似している。
(p117)


神、またはここで神に擬されているゲーテは、激情の人ではなく、無関心な倫理的関心のないものとして描かれる。確かに先程の「蠅の死」の詩など見てると、思わずうなずいてしまう(それはマンに対しても同じ)。

 それは芸術の眼差です。絶対の肯定でもあり絶対の否定、もしくは無関心でもある絶対芸術の眼差です。
(p118)


「ファウスト」の、ファウストとメフィストフェレスという対の眼差。それを両方含む芸術の眼差。

 奥様も、一つまみのアイロニー、つまりニヒリズムがないと、どんなものも口にするにたえないという言葉が、何を意味するのかを考えてごらんになってください。
(p122)


アイロニーは塩に喩えられる。

 あの方の言葉にはじめからひそんでいる矛盾撞着、なんとも呼びようのない曖昧性であって、この曖昧性は自然と絶対芸術との本質であるらしく、これが消え去りやすく、忘れられやすくするらしいのです。記憶にのこりやすく、平凡な人間の精神に有益なのは倫理的なものだけです。
 善も悪もそれぞれ同等のアイロニカルな権利を持つ世界、目的も理由もない世界、これは人間が頭にとめておける世界ではありません。
(p123)


リーマーによると、ゲーテの日常の言葉は、聞いている方はよく忘れてしまう、という。意外ではあるが、一つには人間ゲーテに付随する様々なもの(身振りとか人柄とか)が、言われた内容を圧倒してしまうという。そして、もう一つの理由がこの文章に示されている。
(2022 04/10)

郭公鳥と神の居候

 それは、そとからはいりこんできて、築き上げた巣へ感情の玉子を郭公鳥の玉子のように産み落とす第三者の役割と性格という問題です。
(p157)

 神の居候趣味というのがございます。神が人間の築いた生活の上に羽を休めるという私たちになじみぶかい考えです。
(p159)

 詩は非市民的な特殊な愛情の世界から生まれたものであるという記号、誘惑的な記号をつけて人間関係に加わり、相手を罪に引き入れ自分も罪にまみれることに陶酔しながら人間関係のお相伴をすることが大好きなんです。
(p162)


ケストナーとロッテの中に入ってかき乱したゲーテ、それに対して困惑と憐れみを感じた二人…格好鳥の方が比喩巧いと思うけれど、神の方の文章ではギリシャ神話やそれを元にしたバンヴィルの「無限」を思い出した。
最後のp162の文はわからないところも多いけど、「ウェルテル」が発表された当初、真似する人が増えたという直接的な「罪」は元より、詩に陶酔し茫然とすることもその「罪」としても良いだろう。そしてその「罪」と、正真正銘の(ナチスなどの)「罪」とは地続きであるとも今は考える。
これで第3章は終わり。最後はやはりマーゲルが部屋に入ってくる。
(2022 04/12)

ショーペンハウアーの妹と「アデーレの物語」

昨日、今日で第4章、そして少しだけ第5章に入る。
第4章でシャルロッテのもとを訪ねてくるのは、アデーレ・ショーペンハウアー。この人の母親、マダム・ヨハンナ・ショーペンハウアーはサロンを開き、そこにゲーテもよく訪れていた、という(第2章でちらりと出てくる)。
一度聞いたら忘れられないこの独特な名前、「意志と表象としての世界」のアルトゥル・ショーペンハウアーは、このアデーレの兄(11歳違い)、ただ、母と哲学者は不仲だったという。
…でも? この作品にはアルトゥルのことは一言も(今のところは)触れられず。
今日読んだp192以降のところでは、確かに「ゲーテを単に崇め祀っている人達」にすれば「不敬」な内容に言及している。

 すべてがあの方を中心にして動いておって、あの方はサロンの誰にも暴君だったからです。あの方が暴君であったからというよりも、まわりの人たちが誰もあの方に遠慮して、あの方が暴君にならずにはいられなくしたのでした。
(p192)

 社交界、すくなくともドイツの社交界には、隷属の本能が強くひそんでいて、自分たちの王侯や英雄を自分たちのほうから堕落させてしまい、そういう人々に自分の優越性を心なく濫用せずにはいられなくさせ、ついにはどちらにとっても喜びを感じられなくなってしまうらしいのです。
(p193)

 暴君であることは退屈なことにちがいありません。
(p194)


「あの方」すなわちゲーテが「暴君」であり、それは周りの人々がそうさせている…というここの内容は、ゲーテを神格化している、そして自らの大衆操作の方法を文章化させられている、というところで、当時の政権には許せなかったところだろう。マンの作品でいえば「マリオと魔術師」に共通性を見出せるだろう(これももう一回読みたいなあ)。

第4章は30ページ少し、前章のリーマーに比べ短いなあと思っていたら、章最後にマーゲルは登場せず、そのままアデーレが話す友人のオティーリエ・フォン・ボグウィシュの話に突入する。上巻は第5章で、つまり「アデーレの物語」(ここ、そう書いてあるけど、内容はアデーレ自身の話というより、オティーリエの話)で終了、100ページ弱かけて、まだアデーレの話が続く…

今のところはオティーリエの生い立ち。父親がプロシアの軍人。オティーリエが生まれたあと両親は別れさせられたが、オティーリエはどうやら父親に憧れていて、ザクセン・チュービンゲン(要するに今いるワイマル)よりプロシアの方が優れている、と密かに思っている。それを友人たるアデーレだけには告白した…というところまで。
で、このオティーリエがこの後、ゲーテの息子アウグストと結婚する、友人としてアデーレはこの結婚がとても気がかりらしい。シャルロッテも信じられない様子…
(2022 04/14)

パッソー教授、後世に名を残す?


眠いので少しだけ…と思ったら、寝ぼけてて読んでも見逃せない箇所が…

 自分の言動が招く結果を見通せる目も持たなくてはならないのです。あなたの言動で私が慄然とする点は、それがある恐ろしいことの前段階、現在は高貴で純潔な域にとどまっている前段階であるからです。その恐ろしいものは、いつかドイツ人のあいだに身の毛のよだつようなあさましい蛮行となって現われるでしょうが、あなたはその蛮行のいくぶんかでも知りましたら、塚穴のなかで自身も仰天なさるでしょう。
(p232)


自分も仰天した…
ここでナチスの予見が出てくるとは(1939年出版)…
「あなた」とは、ワイマルのギムナジウムの教師パッソー教授。p215ではアデーレによって高く評価されていて、兄アルトゥルの個人教師もしていたという人物。この人物がギリシア精神を明らかにすることで、民族としてのドイツ人が失ってしまった自由と祖国への感激を呼び戻すことをしている、というような発言をした。その時ゲーテは反論し、古代ギリシアという離れた世界よりも、今の周りの世界を視野に入れてむつまじく付き合うと言っている。その後に先の言葉が出てくる。
パッソー教授の考えも、最初に読んでいる限りは特に危険な感じはしなかった。それが「高貴で純潔な域」というところだろう。ただ、それはのちのちその域を超えてある危険な思想に発展する、とゲーテは感じとったのだろう。実際のゲーテやパッソー教授がどうかはおいて、ここにはファシズムの根本的な原因はどこにあったのかを探ろうとするマンの苦悩に満ちた姿勢がある。

勝ち続ける敵


続き。アデーレの語る1813年。この年、プロイセン(オティーリエの熱情の源泉)から反フランス、ナポレオンの放棄が起こる。その狭間にあったワイマルでは、蜂起軍が来てはフランス軍が取り返して占領していた。

 勝利は敵軍のものでした。そうなんです、敵はいつもいつも勝ちつづけていて、口惜しい思いがしながらも、敵軍の勝利を反乱にたいする-それも、失敗に終ってみると子供じみて無分別のように感じられた-反乱に対する秩序の勝利として感じずにはおられなかったのです。
(p243)


ここなど、状況を離れて一般化できそうな、人生の日常の感覚に還元できそうな気もする。自分は何かを起こしたい、けれど「秩序」も大切でそれにはかなわない。そうしていつしかその思いだけが沈殿化していく。ただここも上記のファシズムの起源の考察とも関わりがあるのだろう。

プロイセン蜂起軍が来てすぐさまエルフルトからフランス軍が鎮圧した日の翌日、アデーレとオティーリエは、町外れの茂みに負傷したプロイセン兵士がいるのを見つける。このハインケという学生(ブレスラウ大学というから、自分が学食行ったとこだ)、負傷しながらこんなに明るく振る舞うのがちょっと不自然な気もするけど、この二人からは「英雄」扱いされて町の城な中の隠し部屋で療養することになる。彼とそれからアウグスト、オティーリエはどうするのか…というのがこれからの進む物語…

メビウスの輪と鏡に映ったゲーテ


上の段落のところ(p250まで)が今日の昼。そして、そこから夜に読み進めて、先程、p303までつまり上巻最後まで読み終えた。
偉大な父ゲーテと、その父親に従うべしと決めつけるが故に精神が荒れ飲酒癖や女性遍歴が取り沙汰されるアウグスト。そしてそのアウグストに何かはわからないけれど愛を感じなければならないと思うオティーリア。彼女の場合は、プロイセンへの熱情とアウグストへの愛情の特別視は同じところから出ているのではないかと思う。

そこへプロイセンやロシアの連合軍がフランスを破り「解放」した。ワイマルではナポレオンを追うために「義勇軍」を作り身分の高い若者が参加した。アウグストもその波に飲まれるように義勇軍に名を連ねるが、父ゲーテの配慮で名前だけになり、短期間フランクフルトへ行った後はずっと今まで通り父の手伝いをしていた。この状況を戦勝して帰ってきた義勇軍のメンバーが許すはずもなく、一時は決闘騒ぎ(これも父の手回しで未然に防がれた)にもなった。

 わたしはそれを見て、人間が行為の動機として口にする感情の純粋性を、わたしがどんなに信用していないかということを、改めて思い知らされたのでした。人間は自分の気持に純粋に行動するのではなく、ある情勢の規準に従って、つまり、その情勢が用意する一定の因襲的な規準に一致した態度を取るのです。その情勢が残酷な態度をゆるしてくれそうな情勢でしたら、-いっそう結構ということになります。人々はそういう情勢をこれ幸いと徹底的に利用、濫用するのですが、それを見ますと、大部分の人々は、情勢が自分たちの野蛮性と残酷性とを解きはなって、思う存分残酷にふるまう自由を与えてくれる瞬間を待ちかまえていることは、疑えない事実でございます。
(p281)


ここも執筆中のマンの考えが入り込んでいる(というよりメビウスの輪のように捻れて表に現れている箇所でもある。と同時に、もっと日常生活に引き寄せて考えても、言葉に出てきた動機と実際にその人を突き動かしたものとの乖離は随時起こっている、ということに気づかせてくれる。

 偽善的なものがひそんでおります。結婚の神聖さを相手にして危険なかくれんぼう遊びをし、自然の神秘に放縦な宿命的な譲歩をしている作品です。
(p297)


ここでの「作品」は「親和力」のこと。話者のアデーレはここで、アウグストの破壊的な心情が、父親ゲーテにも違った形で見られるということを話していて、その証明が「親和力」で試みられている。「若きウェルテルの悩み」も青年ゲーテの破壊的危機からの脱出の書であった(と文庫解説に書いてあった)。とすればアウグストは自分の「若きウェルテルの悩み」を書けなかったことがずっと響いているのだろう。そして、例外は父ゲーテの方で、ほとんどの場合はアウグストと同じ結果を歩むこととなるのだろう。

と紆余曲折(ハインケはあの後二度ワイマルに戻ってきて、結局当時からシレジアにいた許嫁と結婚する)あって、この年(1816年)の大晦日にアウグストとオティーリアは婚約する。アデーレの危機感は現実のものとなった(その後の生活みても(注に書いてある)、オティーリアはあまり幸福とはいえない放埒な人生を送ったらしい)。第5章最後のページには、オティーリアが父ゲーテと会ったことについて短く書いてある。これは小説の最後の章で、シャルロッテがゲーテを見ることと響き合っているのかもしれない。
(2022 04/17)

作者・著者ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?