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「ワイマルのロッテ(下)」 トーマス・マン

望月市恵  訳  岩波文庫  岩波書店

重層的な時間と構造の物語(上巻もお手元に)


今日から下巻、第6章開始…なのだけど、マンの小説はフーガのようにずらし構造になっていて、わざと?第5章を「アデーレの物語」と銘打って一気に読ませた後、第6章開始で「実はこの話の途中で、マーゲルは二度、話を中断させ客を取り次いでいた」とかいうではないか…最初の取り次ぎは、元々シャルロッテが訪ねようとしていた妹の家の女中が心配して来ていた。その女中に安心するように、と伝言させて帰らせて、話は二人の若い娘が負傷したハインケを街に連れていく(上巻p250近辺)辺りから再開…

次のマーゲル登場は、アデーレの物語ではアウグストが軽騎兵の妻と密会したり「親和力」を引き合いに出したりしていた時(上巻p295近辺)。マーゲルは今度はもっと力強く、当然の権利であるかのごとく、来客の名を告げる…それは「御料局顧問官フォン・ゲーテ様でいらっしゃいます」という。そう、アウグスト当人が来たという(小説の折り返し地点なのに早くもクライマックスの予感…)。特に、彼のことを話し続けていたアデーレは当惑しすぐに隠れて帰ろうとしたが、シャルロッテは彼女自身も驚きながらアデーレの物語を最後まで聞こうとするのだった。

…ということは、上巻第5章のp295近辺以降は、アデーレは階下のアウグストが常に念頭にありながら話をしていた…ということになる(ここに何かマンが仕掛けをしている可能性も)。
ということで、第5章の物語を最後まで語った後(ここまで6ページほどのズレがある)、物語に一息だけ入れて少し口調を変えて、アデーレはシャルロッテに「奥様の力でオティーリエを救ってください、オティーリエとアウグストの婚約を止めてください、シャルロッテ自身が、若きゲーテを思い止まったように、オティーリエをあの時の自分だと思ってお願いします」と言ってアウグストに会わないように去っていく。
(ああ、面白い…)

そうして、第6章本題、アウグストが入ってくる。

 客の青年自身は二十七歳であって-あの当時の青年よりも四歳年上であった-シャルロッテは、目のまえのフォン・ゲーテが、あの当時の若いゲーテよりも四歳年上であることから、あの夏から四年過ぎただけであるかのような錯覚にとらえられた。これも滑稽な錯覚であって、-ほんとうは四十四年の年月が流れたのであった。
(p14)


ここに先程のアデーレの言葉が響いていることは言うまでもない。様々なフーガの層が重なりあって、それだけで幻惑されそうな感覚を味わう。
たまたま後ろのページをめくっていたら、p86、第6章も終わりに差しかかったくらいのところで、アウグストがオティーリエを紹介しているところがあった。

 「小母さんどころではございません。奥様のお嬢さんと申してもよろしいのです」
(p86)


とアウグストは言う。これなど、先程のアデーレの言葉の裏返しと言っていいだろう。
そして、もう一つのフーガ。ここ(p86)で「小母さん」と言っているのは、第5章でアデーレが例に出した「親和力」から。ゲーテの小説「親和力」は、主人公がオティーリエという名前で、相愛の仲になるエードアルト、そしてその妻シャルロッテ(オティーリエから「シャルロッテ小母さん」と呼ばれている)。この作品、「若きウェルテルの悩み」だけでなく、「親和力」も材料となっている…
(2022 04/18)

 若いころから思い出に生きるのは、死ぬことを意味します。
(p47)


ぜーゼンハイムのフリーデリーケ、この人もゲーテの愛人となっていたが、ゲーテと別れたあとは、ひっそりと生き、そして亡くなった。それに対してシャルロッテは、このp47の言葉にあるように(自身の決断への誇りもあって)批判的な態度。それに対してアウグストは思い出に生きることへの理解を示す。現実と可能性とアウグストが示すこの問題は、「精神」と「頽廃」というマンの生涯持ち続けたテーマへ続いていく。
その他、元々はゴシック建築に否定的だったゲーテを、見方を変えさせ味方につけて再建が始まったケルンの大聖堂とか、西東詩集(この小説の巻頭献辞もそれだった)の成立とか。
(2022 04/20)

一人称乱入

 私どもの時代は無慈悲なほどにまざまざと照らし出す強烈な照明を持っていて、あらゆるもの、あらゆる人間観、あらゆる美から時代に内在する政治を燃え上がらせ、はっきりとさせます。
(p76)


アウグストの言葉。政治、政治的意識を「照明」と形容するのが印象的。もちろんこれはマンの生涯かけてのテーマでもある。

 模倣の一種、伝染の一種であったろうか? とにかく、シャルロッテは若いゲーテを、彼がさっき彼女を見つめたときと同じ動かない、いくぶんガラス玉めいた瞳でみつめたのであった。
(p88)


この2ページ前、p86ではアウグストがシャルロッテをガラス玉のような瞳で見つめた。当事者当人の意識とは関係なく、こういったものは伝染するらしい。彼らが他のことに頭が回らなくなるくらい、中心話題に熱中している時には特に。
というわけで、最後は目の前のアウグストと、それから全章のアデーレとの間で揺れつつ、オティーリエのことを話して、第6章は終わる・・・マーゲルは・・・いない・・・

 ああ、これが消えてしまうのか! 心のふかみにまどろむこの明るいまぼろしが、与えては取り上げてしまう気まぐれな魔神の目くばせにこたえるようにたちまちに消え、霧散し、私は無意識のふかみから浮かび上がるのか! すばらしいまぼろしであった!
(p97)


第7章開始・・・なんだけど、上でも述べた通り、マーゲルはいないし、口調も変わっているし、だいたいが一人称だ。誰?
といってもだいたいの見当はついている。三人称の物語を中断させてまで割り込む特権を持つ一人称とは、ゲーテそのものに違いない。果たしてそのようである・・・
そういえば「魔の山」でも、第7章(確か)で、だいたい下巻に入って少し経った辺りで、語りが変わってあそこでは作者の海への語りかけが始まっていた。比べてみたいところだが。
(2022 04/25)

 芸術は裸体で歩きまわらずに、体をつつましく包んで、本来の大胆さを瞬間的にひらめかして、私たちを戦慄させ恍惚とさせるのが、神秘でもあり強烈でもあって、畏怖と愛情とを感じさせるだろう。
(p127)


芸術の、新たな一つの、巧みな比喩表現がここに。
この後明るい光が、全ての光を合わせ持っている…という話題になって、そこで「ニュートンの説は正しいのだろうか?」とゲーテは考える。「色彩論」では、ゲーテは論争部分において仮想敵として叩きのめしたニュートンなのだが…

 人間はすべての段階を反復して、青春を老年のなかに、老年を青春として経験することができるのだ。
(p140)


確かこの作品のもう少し前にも同じような言葉があったような…これも上の色彩論的に、光=人間は、全ての波長を合わせ持っている=全ての年代の自分を合わせ持っている、とも結びつけられるのか。
(2022 04/26)

 邪悪なものとかがやかしいもの-自然はそういう区別をするだろうか。-自然は病気と健康という区別もほとんどせず、病的なものから喜びと力を生むのだ。自然! 自然は第一に私自身の姿で私に与えられている。
(p154)


ここの前半部分は、マンの読者ならお馴染みの病的な精神問題の変奏の一つ。自然は、マンの考える自然は区別をしない。区別をするのは精神の仕業。後半部分…ゲーテなら、とは思うけど、それにしても自信が深い…
(2022 04/27)

老年に現れる父親の影

 私が年をとるにつれて、あの妖怪めいた老父が私のなかにまざまざとよみがえり、私は彼を私のなかに見わけ、彼に同感を抱き、意識的に、故意に息子らしく彼そっくりになろうとするのだ。
(p158)


ここでのゲーテによると、ゲーテの父は狂気を常に持っていて、ゲーテ自身もその狂気を受け継ぎ、それを調和しようと努力していたという。老いると、それまでの自分が退き下がり、父親自身が顔をのぞかせる。そういった感覚は、この頃わかるようになってきた。
p161-162の辺りはゲーテの時代を越えて、マンが置かれていた当時のドイツへ語りかけている、と思われる箇所の一つ。詐欺師云々は「マリオと魔術師」も連想させる。

 しかし、自然力の一部さながらの人物が、胸中にみなぎる力を広漠とした海に取りまかれたひっそりとした場所で窒息させられている気持、鎖につながれてあらゆる行動をはばまれている巨人の気持、内部に沸きたち煮えたぎる力を感じながら、土砂で口をふさがれてしまい、内部の焔の出口を失った火山の気持、溶岩は破壊もするが肥料にもなるというのにね
(p165)


ここでの主題はナポレオン。この小説の主題の一つはゲーテとナポレオンだろう(ひょっとしたらヒトラーより大きなテーマかも)。少なくとも、ゲーテはナポレオンの個人的な何かに共感していることは確かだ。自分的にはナポレオンという人物自体にはそこまでの共感はないけれど。

 表現と優雅な言いまわしとの喜びは危険な喜びであって、言葉の持つ実践性を忘れがちであり
(p190)


先のセントヘレナでのナポレオンの文章(ここは床屋との場面)と、このp190の文との間に、ジョンという、アウグストの旧友らしい青年との対話が挟まっている。そしてゲーテは、革命的な運動家から転身して保守的になろうとしているこのジョンという人物を好きにはなれないらしい。ジョンはゲーテに、ドレスデンに推薦の手紙を書いてもらいたいと依頼し、それをゲーテは軽く文面を言ってみせたのだが・・・というのがこの文章の前にある。ちなもにこの後のp191でゲーテが思い浮かべているジョンのその後を見ていると、フロベール「感情教育」のセネカルのようになったのでは、と連想してしまった。

 模倣(パロディー)とは敬虔な破壊、微笑を浮かべながらの告別である。
(p197)


マンの作品は皆パロディーなのだろうか。と極端に考えてみたくなる。
やっと200ページ越え。
(2022 04/29)

円環の時間を持つ存在


第7章を終わりまで。ゲーテの元へアウグストがやってくる。シャルロッテの手紙を携えて。

 (結晶は)時の流れを自分の外部に持っているだけであって、自らの内部には持ってはいないのだ。
(p207)


その逆に、人間は時の流れを内部に持っていて、記憶とか回想とかができる存在なのだ。その代わり、人間は年をとる。

 時の流れを自分の内部に持っていて、直線的にすぐに到達点に向かって走る時間ではなくて、円をなして出発点へ戻ってきて、常に到達点と出発点とのどちらにもいる時間を持っている存在は、-自分の内部と外部とのどちらかからも働き働きかけ、成長と本性、作用と作品、過去と現在が一つのものであって、絶えまのない向上、上昇、完成でもある継続を生み出す存在なんだがね。
(p208)


ここにはなんと!?線が引いてある(そう再読なのだ)。引いてあるのは「円をなして…」以降なのだけど。
その前、「時の流れを」の節と「直線的に」の節のつながりが一読だと勘違いするところ。「直線的に」の節の「なくて」の否定はこの「直線的に」の節にしかかかっていなく、「時の流れを」の節はダイレクトに「円をなして」以降にかかる。
円、到達点と出発点の同居、継続という流れは螺旋状に進む人間性の時間を示唆する。人間の持つ内部と外部のセットが、「成長と本性」、「作用と作品」、「過去と現在」という対比になる、特に自分が考えてみたいセットは2番目の「作用と作品」という対比。作用は自身の心理的要請、作品は構造として外部から作用を形式化する…ということでいいのかな。
(線引いた時の考えとすれ違っていると思うが)
というわけで、ゲーテはシャルロッテ母娘、妹婿のリーデル夫妻を昼の食事会に誘う。

ゲーテ家の食事会


ここまでの第1章から第7章までが同じ一日の出来事。第8章はそれから3日後のその食事会の様子。

(現実のシャルロッテ訪問は、娘のシャルロッテは食事会に招かれてはいない。そもそもワイマルに同行したのは妹のクララ。そして、これもそもそも、シャルロッテ一行はエレファント旅館ではなくリーデル家に泊まっている(って、普通に考えればそうなんだけど…))

 老年の徴候である感動的な癖、もちろん烈しさがいつも一定しているのではなく、あるときは目につかなくなり、あるときはたいへん目につくようになる頭の震えを、そのうなずく身ぶりへとすべりこませ、うなずくために頭を震わせたように震わせたように見せかけることができた。
(p231-232)


最初に着目し、それ以降もぽつぽつ出てきたシャルロッテの頭の震え。ここでは老いと並べて書かれている。震えが老いによって出てきたというより、今まで隠してきた震えが老いによってうまく隠れずに露出した、というように自分は思ったが、どうか。
(2022 04/30)

シナ人の幻影

 善良なシャルロッテは、多くの段階を飛びこえてしまっていた。-ことに彼の顔についてはそうであった。その顔は彼女が感じたよりもウェツラルのころの友人の顔に遠い顔であった。なぜならば、その顔は彼女の知らない多くの段階を通ってきた顔であったからであった。
(p246)

 つぎつぎと矛盾した種類の表情が神経質に目まぐるしく口辺に交替して、そのどれを演技のために選んだものかと戸まどっているような印象を与えた。
(p247)


ここ含め、第8章に描かれるゲーテは、解説で述べられている(訳者の見た)トーマス・マン自身のドキュメンタリー映像をも連想させる。

 善良な人間だけが偉大さを尊ぶことができるからです。鐘をつるした屋根の下で跳ねまわっているシナ人たちは、馬鹿げた意地わるい人たちです。
(p298)


p277でゲーテがシナ人が言ったという「偉大な人物は社会の禍いである」という言葉に対し、周りの客は笑ったが、シャルロッテには寒気がし、幻影としてこの跳ねまわるシナ人を見た。ここまだ自分の中ではわかっていないところのひとつであるが、少なくとも、偉大な人物を全否定しようとも、また偉大な人物に隷属しようともしていないことは確かだろう。善良とはなんだろう。

蛾と焔


第9章、ワイマルで過ごすその後のシャルロッテ。ゲーテの監督する劇場に「ロザムンデ」を一人で(ゲーテの招待で)観にいったシャルロッテ。行きはゲーテ家の馬車の中に一人だっだが、劇を観た帰りの馬車の中は一人ではなかった。老ゲーテが座っていた。

 雲は形を生みながら形を刻々と変えますが、依然として同じ雲ではないでしょうか?
(p319)


老年のなかに青年が見え、青年のなかに老年が潜む。刻一刻と変わりながら、しかし同一人物でもある。人間以外でもまた同じ。

 ところが、あんたの身辺には悲しいことに人身御供のにおいがみちみちているのです。戦場そっくり、暴君の支配する国そっくりに見えます。
(p321)


ここでシャルロッテは、ずっとゲーテを「あんた」(小説冒頭を思い出す)と呼びながら、第3章から第6章までの登場人物のことを引き合いに出す。
それに対してゲーテは…

 蛾と蛾を誘いよせる危険な焔との譬えです。君は私が焔であって、その焔のなかへ蛾がすべてを忘れて飛びこんでくると言いますが、この世のすべては変化し、交替することから、私は灯が燃えつづけるために私の体を犠牲に供して燃えつづけるローソクでもあり、灯に焼かれる酔いしれた蛾でもあるのです。
(p322)


この蛾と焔の譬えも、ゲーテの詩にあったような…

これで「ワイマルのロッテ」を読み終えた(一応、再読)したのだが、正直、全体の把握が自分の中でまだ納まっていない。いろいろな人の様々な一瞬間が、形を変える雲のようにただただ描かれている、それだけのようにも思える。それはただ一つの理念しか認めない、ということへの反論にもなるだろう。読み終わった後で、何かがすっと自分の中で落ちるのは、まだ先のこと。
とりあえず、最後は、やはりマーゲルが登場し、シャルロッテを馬車から下ろすところで終わる。
(2022 05/01)

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