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10第二章 真琴の寝室2-視線

 日記を見つけた後、若月は改めて、勝治と雛子の寝室の探索にあたった。しかしそれ以外に目ぼしいものは見当たらなかった。
 午後八時三十分を迎えるところである。探偵からの報告書には、使用人の清河の勤務が十時までとあった。その時間までここにいたいが、真琴や雛子が予定よりも早く帰宅する可能性もある。
 若月は場所の移動を試みることにした。目的地は、一階にあるという書斎だ。勝治が公私共に使用しているそうで、もしかしたら、ありさの手がかりがあるかもしれない。
 若月は耳を、廊下に続く扉へと、直につけた。何も聞こえない。少なくとも、今の今は二階の廊下には、誰もいないようである。若月はドアノブを捻り、ゆっくりと扉を開けた。

 探偵の報告書には、藍田家の平面図も入っていた。それは、次のとおりである。

 一階中央南にあるエントランス。その真北、建物中央に位置する階段。階段向かって左側には応接間とリビング、書斎がある。階段向かって右側には食堂や洗面所、浴場があり、階段を挟んで左まっすぐの廊下を進むと右手側、階段下の倉庫、トイレと続き、突き当たりに使用人室が存在する。
 階段の折り返した先を登ると、左右に伸びる廊下が姿を現す。二階には部屋が五つあるようだ。階段を背にして、右手側には瑛子の部屋と、一番奥に使われていない空き部屋が一つ。左手側に行けば、志織の部屋、真琴の部屋、若月が出てきたばかりの勝治と雛子の部屋が、それぞれ位置していた。
 廊下には、ベルベット調で赤色のカーペットが敷かれていた。この時間が故に、光源は壁に等間隔で並んでいる、ランプの仄かな明かりのみ。この薄暗さは、若月にとって都合がよかった。
 とはいえ一本道な分、室内に人がいるなら気配で、気付かれるかもしれない。やや緊張しつつも、ゆっくりと廊下を歩いていく。己の出す微かな足音以外、物音はしない。
 真琴の部屋を通り過ぎ、志織の部屋の前を通ろうとしたところで、若月は思わず足を止めた。志織の部屋の扉が、ほんの少し開いていた。中から、光が漏れ出している。
 あの程度の隙間なら、素早く通ればバレずに済むだろうか。若月は一度深呼吸をして、緩慢な動作で動く。そうして扉の前までやってきたところで、室内から声が聴こえてきた。
「今日もお疲れ様」
「ありがとうございます」
「仕事には慣れた?無理させちゃうね」
「いえいえ、志織様のためですから」
 耳をすます。声は二人分。男と女、一人ずつ。急がなければならないのは百も承知だった。しかしその会話の内容への興味は、若月の足を前に進ませなかった。
「様はつけないでって言ったでしょ」
「そう?それもまた良いかなって思ったんだけど」
 艶かしい女の声と、先程も聞いた声。現社長夫人の志織と、使用人の遠藤だ。
「いいから、だめ。二人の時は呼び捨てで呼んで」
「はいはいわかった。志織ね、志織」
「何よ、その言い方。まったくもう」
 思わず目の玉が落ちそうになった。まさかこの二人は。
「今日はもう少し、一緒にいられるの?」
「うん。清河さんに見つかったらやばいんだけど。一応俺、退勤したことになってるから」
「大丈夫よ。あの人、この時間はいつも一階にずっといるわ。あなたとの折角の時間を邪魔されちゃ、たまったもんじゃないし」
「ふうん。で、そっちは?旦那、今日も遅いのか」
「ええ。いつもの、会食かしら。偉い方々参加の、肩が凝りそうなやつ」
「ご苦労なこった」
「ほんとにね」
 不倫。本人達に聞かずとも、彼らの関係は理解できた。
 社長夫人が、使用人と?会話から察するに、遠藤は退勤した後に、志織との密会のために戻ってきたということになる。まさに休日の昼ドラのような展開。ありそうで無いだろうそんな状況に、自然と好奇心が沸き立った。
「彼といると息が詰まるの。だから、いない方がマシ」
「酷い言い草だな。自分の旦那だろう」
「分かってるくせに」
 遠藤の笑い声が聞こえてくる。
「なによ」
「二ヶ月前とえらい違いだなって。『夫は簡単に裏切れない』なんて、言ってたのに」
「女心は移ろい変わるものよ」
「ふーん。ま、いいけど」
 いつのまにか、若月は会話に聴き入っていた。
「でも分かるよ。あの人、少しとっつきにくいんだよな。冗談も通じないし。勝治さんもそうだけど、堅物だよ。打ち解けられるのはいつになるのなら」
「結婚して三年経っても慣れない私がいるのよ。それ以上の遠い将来かも」
「生きてる間にお願いしたいね」
 それなら何故、志織は真琴と結婚したのかとも思ったが、真琴は藍田製薬の現当主であり、彼女は芳川薬品の社長令嬢。両会社は、三年前に業務提携を結んだ。つまり客観的に見れば、政略結婚である。両会社の存続・発展のために、必要な処理であり、そこに本人達の意思は不要である。結婚という人生の転機でさえ、会社に左右される。若月には理解ができなかった。
「ただ、それだけじゃないの。あたしが、あの人のことを避ける理由」
「他にもあるのか」
「あの人の部屋の中って、見たことある?」
「いや。未だに無いな。あの人、部屋の扉に鍵をかけるし。清掃も飲食の提供も、勝治さん達の部屋は清河さんの担当になってるし」
「そう」
「何かあんの?」
「わざわざ言うほどじゃないんだけど。でも…」
「でも?」
「なんていうの。最近彼の部屋に入ると、誰かに見られている気がするのよね」
「見られている?」
「もちろん、彼以外誰もいないのよ。でも、気持ち悪いくらい、全身に感じるの。視線というか、なんというか」
「それ、旦那に直接聞いてみた?」
「聞いたわ。でも彼、首を傾げて言うのよ、別に何も?って。表情も変えずにそう言うの。なんだか、怖くって。だから、少し前から夫婦別室にしてもらったの。あの人とあの部屋で寝るなんて、とてもじゃないけどできなくって」
「ふうん、視線ねえ」
「ねえ。後で一緒に確認してもらえないかしら」
「そうだな。面白そうだ。うん、良いよ」
 真琴の部屋で感じる視線。一体、なんだろうか。扉の外で、若月も首を傾げる。しかしそこで、盗み聞きはそれまでとなった。
 微かだが、足音が聞こえてきた。心臓が飛び出そうになる。音は目の前、数メートルの距離にある、階段から聞こえてきているようだった。
 誰かが登ってくる。使用人の清河か。この時間でもやって来るじゃないか!と心の中で志織に悪態をつくも、それどころではない。早く、早くどこかしらに隠れなければ。
 今若月は、志織の寝室の前にいる。目の前の部屋の中には、志織と遠藤がいる。清河は前からやってくる。隠れるのは志織の寝室からこちら側…勝治か真琴の寝室となるが、隣まで行こうにも時間がない。勝治と雛子の寝室は尚更そうだ。
 頭の中が混乱し、打開策が浮かばない。このまま見つかれば、おしまいだ。有紗の手がかりを見つけられないまま。
 足音は次第に大きくなってきていた。音の主が階段の折り返しを超えたようだ。あと数秒で、この廊下にたどり着くだろう。

 ——いちかばちか。若月は目を瞑り、息を吐いた。

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