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こぼしたコーヒーが教えてくれたこと

「太もものあたりに温もりがあった……」

黒いから、すぐにわかるはずだろうと思われそうだけど、気がつかなかった。視線は常連のお客さんの方に目を向けていた。

「人の目をみて話す」

人ととして当たり前のことをしていたはずだった。

とき既に遅し、よくみるとカップの蓋が微妙に開いていたのである。開いていないようで開いていた。そんなチラリズムを表現していたのだ。(カップのくせに生意気な……)

行きつけのブックカフェで、イタリアンローストのコーヒーを頼む。
ここまではの流れは最高だった。コーヒーの香りが自分を包む。

「あれ、何かがおかしい……」

太もものあたりから、コーヒーの香りがするのである。自分の不注意から生まれた人災である。100%自分が悪い。ちょっとしたシミだったら、おしぼりで染み抜きができたのだが、そんなレベルではなかったのだ。

幸いにも、床が汚れなかったのが不幸中の幸いであった。汚れてしまっていたら、店長に土下座をするレベルであったはずだ。

自宅まで1時間半かかる場所だ。もし仮に、電車に乗って帰っていたら、スメルハラスメントであったに違いない。コロナで世間の神経が過敏になっている今だからこそ、下手なことをしてはいけないと感じた。

「被害が広がるよりマシだ……」
僕はプライドを捨てて、

「この近くに服屋ってありますか?ハデにコーヒーをこぼしてしまって……」僕は常連の方に恐るおそる言った。

「ここからでしたら、H&Mが一番近いですね……」

目の前に仏がいたのだ。神様は自分の身近にいることを、身を以て知ったのである。すぐに店内を出て、歩いて10分のところにあるH&Mに向かう。

コートを羽織るほどではなかったが、コートを持って行った。
右太もものあたりにあるシミをコートで隠すためだ。側からみれば、違和感のある光景であったに違いない。たった10分程度であったが、とてつもなく長い10分であった。颯爽と京都河原町を歩くことが、どれだけ幸せだったのか、頭の中を走馬灯のように駆け巡るのである。

歩いていくと、デカデカとH&Mの看板が出てきた。ファストファッションのお店が、砂漠のオアシスにみえたのだ。店内に入り、「メンズフロア」を探す。

パッと見、レディースフロアしかなかったため、「ここまできて、まさかのレディースだけ……」絶望を感じたが、地下一階にメンズの表記があり、早歩きで向かう。いつまでも、香りを漂わせたくなかったのだ。

どの服にしようか悩んでいると、店員さんが声をかけてきたのであった。

「どういった服を探されているのでしょうか?」

いつもなら、笑顔で返すのだが、余裕がない。コーヒーをこぼしたシャツを一刻も早く着替えたいのだ。店員さんは僕の事情を知るはずもないので、罪はない。無愛想な対応をして本当に申し訳ない気持ちになった。

シミが目立たない黒いオックスフォードシャツを購入する。まさか、H&Mデビューがこんなカタチになるとは夢にも思わなかっただろう。

しかし、油断をしていた。お会計の際に、シミを隠すために手で固定していたコートを別の方向に向けていた。オープンザウィンドウ状態になっていた。店員さんも驚いていただろう。目の前にコーヒーのシミをつけた男性がいるのだ。間違いなく、「シミの人」として噂になっていると思う。

無事にシャツを購入して、カフェに向かう途中の観光客が使用するトイレにすぐさま入る。気持ちに余裕がなかったのか、ボタンをはずず行為すら難しく感じる。

いつも何気ない行為すら、ほろ苦く感じたのであった。

昔から、苦いものが嫌いではなかった。そのため、同世代よりもブラックコーヒーデビューも早かった。中学生のときにはマグカップサイズのホットコーヒーを2杯は飲んでいた。

「こんなにがいものよく飲めるな……」


友人は驚いた表情で自分をみていたが、自分の中では基本であったため、「むしろ、なんで飲めないんだろう……」と不思議に思ったほどであった。

ブラックコーヒーは時間差で教えてくれたのだ。

コーヒーをこぼしたことで、人生がほろ苦いということを体験で時を超えて教えてくれたのだ。

人生は長い。これは序章であって、これからもっと苦い思い出を乗り越えるための小さな試練であったに違いない。



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