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表現力がなかった男の話

「やっぱり、踊りに表現力がないよな。」

チームメイトからのひとことだった。

毎年、6月の2週目は踊りのテストがあった。毎年のように自分は表現力という項目では底辺であった。むしろ、今も踊りの表現力というものがいまいちわかっていない。むしろ教えを請いたい……!


大学生のとき「よさこい」を踊っていた。それまで、硬式テニスをして自分にとっては大きな挑戦である。

きっかけは、よさこいのイベントでボランティアスタッフをしていたときだ。所属していたチームがファイナルステージで大阪城ホールの真ん中で踊っていたのをみて、「やってみたい」と思って行動に移した。

「あの会場で踊ってみたい……」という気持ちが前のめりに出たのである。

それまで、踊りという行為は避けてきた人生だった。

体育祭での踊りの出し物の全体練習のとき、
タイミングはズレる、振りは間違える、隊列は間違える。あまりにもひどいため、自分だけ踊りの居残り練習をさせられるほどであった。

「もう2度と踊りという行為はしないぞ……」と心に誓ったほど確固たる決意をしたほどである。

しかし、現実は簡単ではなかった。チームメイトは小学生からよさこいをやっているような少数精鋭のチームだ。踊りが初心者の自分にとって

「どうしたら、そんな動きができるんだ……」

常に疑問でしかなかった。自分だけ振りを間違えると明らかにわかる、身長も180センチ近い自分が撮影された踊っている動画を観ると一目瞭然であった。

もはや、表現力という言葉がとても遠い場所にあるように感じたのである。

「表現力とはなんぞや」言葉はわかっていても、目の前の振り付けを覚えるのに精一杯であったため、理解ができない。

何度も何度もよさこいをやめようと思っていた。

それでも諦めることができなかった。

スマホの動画で自分の撮影してもらい、踊りや振りを確認をして少しでもチームメイトの踊りに近づけるように練習を続けた。


ある程度のところまでは初心者でもいける。その先は経験値、才能ということが「よさこい」を通じて感じたことであった。

4年ほど「よさこい」を通じて、踊りの表現力についてずっと考えていたが、自分には向いていないものだった。各個人によるもので、自分は動作で相手に「何か」を伝えることができなかったのである。

そういえば、昔から何かを伝えることに関して、誤解が生じることがたびたびあったような気がした。想像力が乏しく、相手を怒らせたり、配慮が足りないことだった。

必要なことしか伝えない。相手に要求だけに応えるだけで、そこに自分の色をつけるということをしなかったと思われる。

「ちょっとしたことだけど、喜んでほしいな」些細な気持ちだけど、それをきちんと行動に移したのかということ。

「相手のことを考える」をしなかったのである。

コミュニケーションに関する本に書いてあったことだけをした。

それが正解だと思っていたことがその相手にとっては不正解だったことを考えていなかったのだと思う。

今、なぜこのタイミングで「よさこい」について書きたいと思ったのには理由がある。

年末、チームメイトからふと電話がかかってきた。
「元気にしているのか?」と元気であるが、

「今、むった(ニックネーム)はなにをしてるん?」

少しばかりチクっと感じたのであった。実はいうとよさこいを辞めた理由は、医療機器商社を辞めて、精神的も肉体的にもこの上なく辛い状態であったこと、不安が自分を覆い尽くすほどショックだったこと。

そんな理由で続けられないと思ったのもあった。チームメイトに迷惑をかけたくない。個人的な理由で。

それと、その次の年にもよさこいを復帰しようとも考えたのだが、悲しいことに仕事でヘルニアになった。あのときは立つこともできなくて、一生、踊りもテニスもできなくなるのかという不安で屍のように生きていた。

腰が壊れただけでこんなにも不安で、生きる価値がないと何度も責めていた。

またヘルニアになる恐怖感があると思うと、踊りたいという気持ちは前面に出せないと思うからだ。

それでだと思う、

SNSにのめり込むようになったのは……

「動作の表現力」ができなかったから「文章の表現力」に賭けてみようと思ったのだ。

今は苦しみの沼という状態で、この文章も下書きあったものを加筆修正したものである。技法とかそういったものは使っていないしツギハギだらけの文章だ。

でも、今はまず文章を書く。noteを書く。コンテンツになりきれていないものだけど、打席には立っていこう。



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