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ホントは仲良くしたいんだ

「ふう、思っていたよりもバスの本数少なかったんだっけ」

バス停の時刻表を見て、待ち時間の長さにちょっと愚痴を言いたくなった。

横には男の子三人組、一人が時刻表を見て韓国語でつぶやいた。

大学生くらいかな?あの頃の私たちよりは少し年上そう。

***

たまに旅気分を味わいたくて港に行く。

一人で客船や海を眺めて、お茶して、旅する人の顔を見て、非日常の中に私もこっそりと紛れ込む。

ついこの前までは外国からの観光客の姿をたくさん見かけたけれど、今はかなり減っている。

ニュースでもよく見かけるアレが影響しているのは分かっている。それにしても一気にこれだけ減るというのは感情的になり過ぎている部分が無きにしも非ず。でも実際に本当にみんないがみ合っているのかなと考えると、そうではないような気がする。

国と国で考えると、絡み合う歴史があるから軽々しいことは言えない。

それでも、人と人同士ならきっと交流できる。あの日があったからきっとそう言える。

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高3の夏、私は韓国にいた。

夏休みの少し前、学校の先生から職員室に呼び出しがあった。悪いことをした覚えはない、何の話だろう。「本当は他に候補の子がいたんだが、親御さんが反対されてね」

何の話だ?

「日韓親善大使として1名の枠がうちの高校に来たんだが、希望者がいなければ辞退する。もし興味があったら家で話してみてくれないか」

外国に行けるチャンス?親の反対とか無し無し、行かせてもらえるんだったら反対なんてすることないじゃないと、家に帰って早速話をする。

もう前のめりに、「夏休み、韓国に行ってもいい?日韓親善大使で1週間。パスポートもあるし、いいよね」と有無を言わさずまくしたてた。

両親は少し戸惑った表情を見せたものの、ただの旅行ではない点、責任のある方が引率する点などを聞き取った上でOKを出した。

戸惑いの表情に隠れていたものは、ある年代以上の人ならわかるかもしれない。私にとって、日本以外の国を知ることが出来る絶好の機会、逃すわけにはいかないものであった。

どうやら候補の子も、ご両親からアメリカやヨーロッパならいいが、アジア、特に韓国はという言い方をされたらしい。

ただ私からしたら、実際に目で見たわけでもなく、体感したこともない人がそんな風に決めつけていいの?しかも親善大使ってことは、日本との懸け橋になることが出来る、私たちの行動や言動で、冷えている関係を変えることが出来るかもしれない、なんておこがましくも青臭いことを考えていた。

***

私たちは高校生という立場ながら、韓定食やプルコギなどソウルの有名店で歓待を受けた。名前は忘れてしまったが、国の偉い方ともお会いし、粗相のないようにと正装で訪問することもあった。

それでも街の人たちからはあまり歓迎されていないことがひしひしと伝わってきた。

特に歴史というのはそんなに簡単なものじゃないこと、心の底に渦巻く根深いものも、あの時の街の表情から痛いほど読み取ることができた。

ある場所を訪れる際は、通訳の方から日本語では会話をしないようにとくぎを刺された。

最初の頃は何かトラブルが起きてはいけないと通訳の方も不安を抱いていたのか、どことなく硬い表情を崩さなかったが、だんだんと普通の会話ができるようになっていった。

それでも誰からも笑顔で迎え入れられる旅とは違い、常に緊張感が漂っていた。

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ある時、高校3年生の夏休みに韓国を訪れていると知ると「日本の高校3年生はそんなことをしていても大丈夫なのか」と怪訝そうな表情を浮かべられた。

訪問時には何故そんなことを言われるのかわからなかったが、数年が経過し、韓国の情報が身近に感じられるようになると、あの時の不満や驚きが意味を持った。

韓国の高校3年生は人生が決まる年でもある。試験の日には後輩の応援を受け、ヒヤリングの際は飛行機すら離発着を取りやめる、遅刻しそうな受験生を白バイが送る、という話を知るたびに、そりゃあ高校3年生の夏、のんきに海外にいるなんて驚かれても仕方ない、親が良く許してくれたねと言われるのも無理はない話だった。実際あの頃の私たちは、韓国の高3ほど人生を重く考えてはいなかった。

韓国最後の夜、私たちの滞在先には偶然同世代の若者が宿泊していた。正直言って大人たちの中でカチコチに固まっていた私たちは、若者同士の会話に飢えていた。

何となく笑顔でハローなんて言葉を交わし、誰かが口火を切って少し会話をしてみた。

ここ数日の街で見かける冷えた目つきとは異なり、片言の英語と聞きかじった韓国語だけでも、お互いが伝えたい、理解したいと距離を縮め、同世代の屈託のない会話が出来るのも新鮮だった。

私たちは歴史を語るには言葉を、そして過去を知らな過ぎた。戦争についての意見も言えなかった。それでも今を語り、未来への一歩を踏み出した。

がんじがらめになった大人たちにはできないことが、私たちの世代ならできる。小さな交流が生まれた瞬間だった。

***

「ここにハングルで書いてあったら分かりやすいのに」

英語と日本語だけしか書かれていない案内を見て、彼はそう言っていた。

確かにそうだ、韓国からも中国からも観光客が増えていたのに、結局主要な場所であっても案内が少なすぎる。案内を最も必要としている人たちに対する思いやりが少ない。

思わず、ほんの少しだけ思い出した韓国語で話しかけると、彼は驚いた顔をしてこちらを見て英語で話し始めた。

そしてスマホの画面を見せ、「中洲まで行くからこのバスに乗る、ありがとう」と笑顔で話してくれた。

そうだ、今の時代はあの頃とは違ってスマホで何でもできちゃうからね。

おばちゃん、ちょっとお世話焼いちゃったと思わず苦笑い。

たまたま旅気分を味わおうと買っていた通りもんを良かったら日本の記念に食べてもらおうと、記憶の奥の方にしまっていた韓国語で伝えてみた。ちょっと間違ってるかもしれないが。

彼らは英語で「ありがとう、僕もあなたへプレゼントがある」と韓国の焼酎を渡してくれた。

そして日本語で「ぜひ韓国にも遊びに来てください」と。

短時間であったけれど、心が通じ合った。

私がバスを降りる時、三人組は窓から手を振って見送ってくれた。ポッと心が温まる瞬間だった。

***

韓国語、英語、日本語、どれもこれも少しずつ、きっとあちこち間違っているけれど、思いが伝わったらそれでいい。

恐らく反対の声も聞かれたであろうこんな時期に日本に来てくれた、彼らの勇気。

あの頃の私たちも緊張しながら訪れた韓国で、最後にやっとできた交流。

あれから20数年が経過し、少し苦い思い出もあったけれど、今でも忘れたことのない日韓親善大使としての役割。少しでも役に立てたかな。

あの頃の私たちができなかったこと、少し年を取ったからこそできることもある。

日本での出会いが少しでも良い思い出に変わりますように。そして、数年後にもあの3人が訪れた日本のことを、お節介なおばちゃんのことを懐かしんで話してもらえるように。












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