36.「コロナウイルスとのたたかい」という表現に対して抱く嫌悪感の正体


タイトル通り、この表現に嫌悪感を抱いている話です。


たたかう、の定義

そもそも、「たたかう」とは。広辞苑を参照してみる。

もとは「叩く」に接尾語の「ふ」がくっついた形。

①叩き続ける、撃ち合って価値を争う

②互いに兵を出し攻め合う、戦争する

③互いに力、技、知恵などを比べ優劣を争う

④障害、困難などを乗り越えようとする

この4つの意味が存在する。

武力を用いた時やスポーツ関連においては戦、

利害対立での争いと、障害や困難においては闘の字を当てる。

なるほど。

辞書の意味④をみれば、コロナウイルスという困難を乗り越えようとしているという意味で、コロナとたたかう(闘う)というのは間違っていないだろう。

闘病という言葉もあるし。

納得?


いや、全く。

私の中の嫌悪感は消えない。

病原体がもたらす病は、「病原体がヒトと出会ってしまった」がゆえのものではないのか。

誤解を恐れずに言えば、ヒトの所業でもたらされたのが病原体による困難なのだと、私は思っている。

コロナとたたかうなんて表現、もはや自分たちに戦いを申し出ているのと同義なのではないか?


ウイルス 対 ヒト ?

コロナウイルスとたたかうという表現には、どうしても勝敗がつきまとう。

「ウイルスという物体に勝つ」「困難に打ち勝つ」どちらの意味でも、やはり勝ち負けがある。

うーん。なんの勝負なのか。

そもそも勝負を勝手に挑んでいるのは私達なんじゃないか、そう仕向けられているだけなのではないか、という疑問。

それに、ウイルスという敵を設定することで、得られる物があるとは思っていない。

ウイルスという設定された敵に勝利した時、たたかいの意味がわからなくなり、社会が新たな敵を設定してしまうのではないか、とすら考えはじめている。


ウイルスとの向き合い方

私達の生活の中で新たに認識された病原体と、どう付き合っていくのか。

まず、ウイルスを理解する努力を怠ってはならない。

ヒト側の負担を少なくすることはもちろん、いかにウイルスと共存していくかを考えなければならないと思う。

人任せではならない。

共存の仕方そのものを、個人を起点とした社会全体で構築していく。

その構築過程で起こる様々な困難とは、しっかりたたかっていくべきだろう。

個人の「欲」、そして社会の「欲」とのたたかいをしなければならない時が来ているのかもしれない。


うーん、ある意味自分たちに戦いを申し出ているのかも。

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