「サヴァイヴの末のトロフィー、心の青あざと痛みを添えて」

2020/04/24 不要不急の外出を控え、わけのわからない、なにか告白したいような衝動にて書きつくる回顧録


大昔、小娘だった私に、赤坂の会員制クラブのママ(眼ばかり大きなフランスの女優のような美人で、かなりの変り者)が親切にしてくださり、「ずっと似合う人を探していた。普通の人じゃ似あわないから」と、大胆なドレスやら貴金属(!!)まで「お下がり」をくださった時「とんでもない、見合うだけのお返しはできません」と固辞したら「誰も、あなたから何か返してもらおうとは思わない。あなたからしたらスゴイと思えるこれらは、私にとっては大した金額ではないし、不要なものなの。あれこれしてあげるのも、無理せずにできるから。むしろやっと誰かに託せて、ほっとしている。もしも、ありがたい、お返ししたいと思うのなら、お店に貢献してくれたらいい。そして、いつかあなたに余裕が出たとき、今のあなたくらい何もわかっていない、必要なものを持っていない子に、できることをしてあげて。誰も自分で自分を教育はできない。人間の歴史や文化は、引継ぎの結果」とおっしやった。

その時、よくよく考え、心から相手がそう言っていると信じられたので、やはり多少の心の負い目を感じつつモノや教えをしっかり受け取った。
それを、しかるべきタイミングで、しかるべき相手にパスしてエネルギー循環したい、とは思っている。少しく試み、手ごたえを感じても、いつまでたっても、もういいや、とは思えない。

一度入ってしまった循環エネルギーのスイッチは、半永久的に、年老いて寝たきりになり、もはや何も生み出せなくなるまで作用し続けるものなのかもしれない。
それは恩恵であり、呪いだ。
あれから何十年もたった今、苦笑交じりにそう感じる。
負ったものを返す相手は、恩恵をくれた相手ではない。その人は、ずっと自分の近くにいるとは限らない。少しは恩恵パワーを世にお返しできたことを知らせるすべはないことも多い。
そして自分も、ひょいっと投げたエネルギーを相手がどうしたのか、きっちり活用してくれたのか、あくる日にサッと我に返ってゴミ箱にドラッグ&消去してしまったのか、知る術はなかったりする。

そんなに執着やら因縁がないからこそ、このエネルギーの循環は深く根を張らずにパスされ続け、活力を得ているのかもしれない。

負っている相手は追えず責務は負いきれず、負わせた相手は追いきれず老いて置き去りにするのみ。
ただ、日々奮闘し、エネルギー循環のタイミングに成功すると、心の中で、よっしゃ! とトロフィーを掲げはする。江戸の仇を大阪でとる、の親せきみたいに、大昔にAさんからしていただいたステキなことを、後にぜんぜん関係ない後輩のエスくんにしてあげられれたとき。
見返りなど何もいらず、ただ、できるからやる。
やれたことに、勝手に喜びが満ちてくる、それがサヴァイヴの果てのトロフィー。
社会で生きていれば「見返りなど何もいらず、ただ、できるからやる。」気持ちなんてどんどん摩耗して摩耗して、ま、もう、どうしようもないよね人間だもの、となるのが世の常だから。
うまいこと誰かにエネルギーを回せたら、そりゃ自負の念がこみ上げて、思わず黄金の心のトロフィー、掲げたりしちゃうよね。
これは、そういうエネルギーのお話。
説教ではなく、かそけき過疎ってる自分の魂に、仮想でもやる気の加速度ますエネルギーの一流でもお流しできればいいな、と。


えーと。

エネルギー(モノも含めて。モノもエネルギー秘めてるし、老化もして旬じゃなくなっちゃいもする)のパスしあい、循環って、とっても大切。

でないと、滞って、ドブみたいにすぐに濁って、だめになっていくから。

この年になると、欲望のままにモノを手にいれるよりも、きっちりと整理したり処分したりする方がずっとエネルギーがいることを痛感する。

ものの本質、人の本質を見極めて絶妙のタイミングでそれを手渡すよりは、いっそ何もかもを箱に詰めて処分した方が楽。

たぶん、ガラクタはとっくに処分を済ませて、お気に入りのこれだけは、これはと思う誰かに託したい。そんな強靭な意志とエネルギーが、ママにはあったのだろう。

エネルギーは受け取ればそれが伝播して、蓄積し、やがてどこかに伝えようとする。それには一種のリスクが伴う。
だから、人から日常とは異質なエネルギーを受け取る時には、たとえそれが純然たる好意であったとしても、一度立ち止まって考えてみたほうがいい、そのエネルギーは、恩恵は、本当に恩恵なのか、もしや一種の呪いではないのか。
その答えは、たぶんその時には考えても分からない。そのうちのどちらなのかを決めるのはその後の自分自身、その行動なのだから。

ただ、考えたという事実は残り、自分が選んだのだという証拠にもなる。
それはいずれ誇らしげな実感を伴って自分に返ってくる、 心の青あざと痛みを ともなう、サヴァイヴの果てのトロフィー となって。

それをありありと体感した夜があった。

大昔、大学を出たてで迷走していた頃の私。

それはなんでもない日常の中のワンシーン、けれど決して忘れられない、その後の自分を決定づけた夜。
男と大げんかして、そのまま別れ、爆発しそうなエネルギーを抱えたまま地下のバーでカクテルを頼んだ時、私の財布には五千円くらい。

一杯でねばってあとは始発まで終日営業のコーヒーショップで過ごすつもり。

たまたま場所を知っていた西麻布の地下のバーは、意味ありげなおしゃれな人ばかり。お店の壁は淡いグレーとスモーキーピンク、細長くねじれた角を持つヤギの頭蓋骨が飾られている。

笑っているかのような頭蓋骨の眼窩と目が合う席を避け、カウンターの右端に座るや否や、痛みから解放されたくてヒールを半分脱いでしまう。
メニューを見ると、前に男と来た時には気づかなかった、思っていたのの倍は高い。これにチャージとかつくんだろうか、と慌てつつ、けっして急いではいないアピールか、バッグから読んでいた本を取り出す。凛とした他人行儀なカウンターに、少しでも自分の陣地、自分のテリトリーをつくろうとするみたいに。同様に、手帳とペンも出す。薄暗くて、何も書けやしないのに。何も書くことなんかないのに。まったく意味が分からない。

比較的コストパフォーマンスが高いジンライムと、見栄えがして大人っぽいギムレットで迷っていたとき、カウンターの端で二三人と笑いあっていたキレイな女性と目が合う。彼女はふふっと笑って、「あなた飲めるのぉ? 飲めるんでしょう。そんな顔してる。」と、バーテンにブランデーベースの「お高い部類の」カクテルを注文してくれる。

ちゃんと顔を見合わせ、にっこり微笑む、彼女は美しい。

ボーイッシュなショートカット、かたちのいい頭、おおぶりのイヤリング。ドレス、彼女はシンプルなブルーのドレスを着ていた。
いかにも夜の街の住人、けれど笑うと目の端にいくつものしわが走る。

私はその薄くなめらかな肌、しわの走るその肌を美しいと思う。

たぶん高揚しつつ、私はその日の出来事、およそくだらない男とのいさかいについて話す。本について話す。日常について。
まくしたてる私にうなずきながら、ときおり彼女はカウンターの端の、盛り上がっている自分の連れたちに「ちょっとお。もっと静かにしてよ。」と声をかける。
「今、面白いとこなんだから」
なにが面白いのか分からないまま話し続け、けっきょく三杯くらい奢ってもらい、それはなかなかの額だ。
押し黙る私に彼女は言う、
「あ。今、どうしよう、って思ってるでしょ。いいのよ、いいの。あなたが思っているより、こんな額、私にとってはなんてことないの。私のダンナは一流会社でばりばりのエリートだし、私はピアニストの夢をあきらめて、ときどきここらのバーでピアノを弾かせてもらっている退屈なマダムなの。どんな刺激も、毎日だと退屈。だから時々、あなたみたいな子が一人でバーに来るとね、むさぼるみたいに見つめちゃうの。あなたは私に、思っている以上のものをくれたのよ。単なる雑談以上のものをね。」
その頃は、まだ喫煙はイイ女の必須のアクセサリーだった。と思う。
彼女も私も、細身のメンソールを吸っていた。
「明日の私のピアノは、いつもよりスリリングかもしれないわ。それって素敵よ。努力じゃ手に入れられないもの。誰も聞いていないかもしれないし、聞いていても気づかないかもしれない。バーは理想的なコンサート会場ではないし、みんな自分のことで頭がいっぱい。でも、だからこそ、コンサート恐怖症だった私は自由にかがやけるの、ウソ偽りなく、以前よりラクに、楽しんで弾けるの。」
もちろん、こんなふうにすらすらと答えたわけではないけれど、要約するとそのようなことを彼女は言った。
「でも、いつもうまくいくとは限らないわ。声をかけてもはずれの子で、うんざりするような痴話話やちっぽけな自慢ばかりの時もある。でも、それはそれで悪くないのよ。だって、一期一会だし。退屈は時間を奇妙にゆがませるし、酔いを加速させてくれるしね。けど、今夜は、ハズレじゃなかった。ほんとよ、今日は特別、楽しかった。だから、あなたは何一つ私に負ってはいない、借りを作ってはいないのよ。・・・・でもねぇ・・・・」と彼女はいたずらっぽくほほ笑んだ。また、魅力的なしわが、きゅっと彼女の目じりに走る。
「いつか、その時が来たら、あなたも同じことをしてみて。あらぬ時間に、半ば毛を膨らませた猫みたいに緊張しながらゆっくりと女の子がカウンターに座り、メニューを広げて、あ。という顔をしたら。その子は男と別れてきたばかりで、誰かと待ち合わせではない、とピンと来たら。ちょっとだらしない酔っ払いのノリで、何かその子が好きそうなものをおごってあげてよ。それで、私に借りを返したことになるわ。私と同じようにして。その子が警戒せずに話せそうな、とるに足らないことをいくつか聞いて、心と口を軽くさせるの。ほんとうに話を聞いていることをしめすために、ちょっとした質問をしたりね。個人的な詮索や、たちいったのはダメよ。もしその時、状況がこうだったら、あなたはどうした? とか、もしも彼が本当はこう思ったとしたら? とか。すると彼女は考え始めるわ。考えるのは孤独な人の得意分野。はりつめた焦燥感は消えていき、リラックスして、その子は考え始め、夜の波長に合わせて考え始めて、そして夜のはみ出し者ではなく、夜の一部になるの。その子にそれをプレゼントしてあげられる、それはとても素敵なことなのよ。いつかあなたにも体験してみて欲しい。ねぇそう思わない? つまり、今あなたが感じているようなことを、孤独な若い女の子にプレゼントしてあげられたら、それはちょっとしたトロフィーだって。人生をサヴァイヴしてきた自分へのトロフィーなんだって。」

店が閉店になった後、私たちはあっさりと別れた。
楽し気に仲間たちと笑い崩れながら歩いていく彼女。
一度だけ振り向いて、大げさに手を振って、そして去っていった。
私はアドレナリンを全身に駆け巡らせながらいつものコーヒーショップに行って、始発を待つ。待つ間、手帳にメモする、この夜を私は決して忘れないために。この体験は、二週間くらいかけて私を再構築し、五歳ばかり私の精神年齢をひきあげてくれた。それまでが幼すぎた、というのもあるけれど。

もちろん、私は同じことをした。
 あらぬ時間に、半ば毛を膨らませた猫みたいに緊張しながら女の子がカウンターに座ったとき、または、シチュエーションは全く違うけれど、本質は同じようなこと、同じような時に。
その時の私は、たしかにたいした損失もなく、警戒心丸出しの傷つきやすい女の子に、軽い天使のキスのような、シャンパンのような時間をプレゼントしてあげられた。もう私はカクテルは飲まない、飲むのはワインばかりだから、繊細で夢のような時間は泡の立つワインのように感じる。

それは確かにトロフィー、人生を勝ち抜いてきた証であり、幸福に似た何かだった。しかし同時に痛みにも似たものが胸を締め付ける、私はもうその子のような張り詰めた感情、毎日毎日が試されているかのようなめまいに似た日常、仮装した日常を生きていないという。おっとりした自覚が。
フレッシュな雪の中、日々降り積もる雪の景色の中に、踏み固められた一本の道がある。ざっくりと新しい雪を踏み砕くきゅきゅっとした感触、ざわつく胸のうずきは覚えているものの、私がその日にたどり着かなくてはいけない要所要所は確定済み。
つまるところ、私は同じ道を歩いていくしかない。
それに、新しい雪に足を突っ込むと、冷たいし、痛い‥‥。

踏み固められた道がまるでなかった頃、方向を見失い、一歩ごとによろめきつつ雪をかきわけていくしかなかった、あの頃とは決定的に時間の意味が違う。このトロフィーは、自分が喪失したものへ手向ける献花、弔いのための花束でもあるのだ。

あの時、私にカクテルをおごり、私の口を軽くして、くだらないあれこれを聞き出した彼女は、それに気が付いていただろうか?もちろん、気づいていたに決まっている。だから彼女は私にチケットをくれたのだ。彼女の行動の意味を私に教え、痛みを伴うトロフィーを受け取る権利をくれた。恩恵であり呪いである、その権利を。

私は、遅れて届いた彼女の真意に完敗しつつ、乾杯しつつ、おだやかに笑う。今、私の目じりには、笑う時やわらかな幾筋ものしわが走る。それでも私は笑うのが好き。私の心が生きていると感じるのが好き。私はもはや煙草は吸わないけれど、ときおり私のハートの一部は切なげに燃えて、焦げて、薄紫の煙をあげている。
救いを求めているのろしの、紫の煙を。

「昨日とよく似た今日に、みんなだまされている。一秒ごとに私は死んで、二度と生き返れない」

あの時、始発を待ちながら私がノートに書きなぐった詩のひとつだ。
だましているのも、だまされているのも、もちろん、自分。でなきゃ、正気を保てないから。

あの頃、連絡先を交わさなかった(携帯電話はまだ普及していなかったし、していたとしても私たちは何も交わさなかっただろう、あの時、彼女といた連れのうちの一人は、彼女の不倫相手だろうという感じが、なぜかしていた)、そのクールさについて思いを巡らせる。
いま、すっかり飽和状態のダサすぎるSNSでのつながりと、まるで宗教のお告げのようにその「ご縁」にすがるたくさんの必死な魂のことを思う。
そうでなければ、やりきれないから。
進んで、情報の中のフラグメントのひとつとなって、誰かとつながろうとする。夜がこわいから。夜のはぐれ者、はみだし者、孤独な夜の散歩者になるのが、こわくてこわくてしかたないから。

私は時折、寝る前に、彼女が好きだと言っていたエリック・サティ、そしてドビュッシーのピアノを聞く。美しいのは音のつながり、のあいだに満ちている、間。
息を詰める、胸がキュッとうずく、絶妙な間。美しいバラの花の美しさを作っているのは、花びら同士の隙間と影、間、であるように。
間、こそが何かを与え、考えさせ、満たしてくれる。

間、こそが私に測らせてくれる。
測定させて、わからせてくれる、孤独の深淵と自分との距離を。

あの頃、あんなに鮮明に記憶していた彼女の顔を、もはやぼんやりとしか今の私は思い出せない。代わりに、たくさんの「間」をとらえて私はつかの間の優しさや好奇心を傾ける相手を獲得し、たくさんの「彼女」に私はなってきた。夜の片隅でひっそりと、痛みの伴うトロフィーをパスしあってきた。

私たちは痛みの伴う愛の一部、そして鈍麻した悲し気な愛の恥部となる。そこには安堵があり、耳を澄ませると、音と音のあいだ、間を、聞き取れる。
あいだを。感じ取る、満ちていく、間に、間、の中に。
満たされなかった、かなえられなかった、えぐりとられた、自分から放棄した、間、の中に存在しているのは、私のかたち、私の化身、そのものだ。
一期一会、すり抜けていくつかの間の存在たちがパスしあっている、自分たちのサヴァイヴの確認のため捧げあっている、そのトロフィーを高々と掲げよ。
自分が手渡したエネルギーの落ち着き先を、自分では見届けられないのが最大のトリック。その切なさが、人類の文化を円熟させきらず、前へ前へと進ませていくのかもしれない。
分かっていながらエネルギーを循環し続けていくのかもしれにい。
だからサヴァイヴの確認のために捧げあっている、そのトロフィーを高々と掲げよ。

つかの間実在した、つかの間にしか実在できない、愛すべき自分への献花に替えて。


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