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表面に転写された内面

なんというエネルギーだろう。山口県立美術館で開催された吉村芳生の新作展を見て、わたしは文字どおり身体をのけぞらせてしまった。まるで日記をつけるように毎日自分の顔を描き続ける作品は依然として継続していたが、圧倒的なのはその物量だけではない。ケシの花々だけを、しかも色鉛筆だけで、正確に描き写した大作もあるし、拡大して描き写した新聞紙の上に自画像を重ねた新作まである。森美術館の「六本木クロッシング2007」から1年あまりのあいだに、恐るべき持久力と執念が新たな方向に展開していたのだ。これはもう、吉村芳生の勝利の記念碑といっても過言ではないのでないか。

だがそのエネルギーとは、いわゆる内側の魂が外側に表出されるときの熱量ではない。たしかに狂喜乱舞するかのごとく咲き乱れるケシの花々は、まさに麻薬的な陶酔を感じさせてやまない。けれども、それにしても、そこには「作家性」や「精神性」とやらを見出すことができないほど、ただたんに草花が描かれているだけなのだ。

ふつう自画像といえば、程度の差こそあれ、自己を理想化したり、あるいは偽悪化しがちだが、吉村が描く顔にはそうした虚飾で彩られた痕跡がまったく見当たらない。そもそも、作品の芸術性をどうにかして高めようとする姑息な下心すら伝わってこないので、正確にいえば、それは「描写」というより「転写」に近い。わたしの身体が圧倒されたのは、吉村の絵画とも版画とも似つかない特異な平面世界が、対象をただ正確に描き写す原点を忠実に掘り下げるという、きわめて単純明快な動機に由来していたからだ。徹底して空っぽで純粋なエネルギーこそ、吉村芳生の真骨頂である。

思えば、日本の現代アートは「内面の不在」という物語に長らく束縛されてきた。西洋伝来の芸術という概念がハリボテの仮構である以上、当然中身はない。それゆえ「内面の不在」という空虚な表面を徹底的に突き詰めることこそ、ポストモダン以後の日本の現代アートが歩むべき道であると。だが、いかに「内面の不在」を吹聴したところで、どこかで歪んだ自意識や暗い欲望が滲み出てしまうのが人間の性であり、なにより見る側は作家のそうした無防備な人間性に触れたとき、えもいわれぬ感動を覚えるのだ。

新聞の一面記事の上に自画像を重ねた新作を見ると、その表情が記事の内容と対応しているのがわかるが、これは「内面の不在」の不在、すなわち内面が存在しないことの不可能性の現われにほかならない。このようにして内面をめぐる両極を同時に描き出す吉村の作品には、今日の芸術にとっての本質的なニヒリズムが見事に転写されているのである。これを快挙といわずして、なにをいうのだろうか。

初出:「美術手帖」2009年1月号

吉村芳生新作展 第62回山口県美術展覧会特別展示
会期:2008年10月9日〜10月26日
会場:山口県立美術館

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