絵画の様式論(五)
辰野登恵子の「様式」を近代の「アンラーニング(unlearning)」としてとらえうるとすれば、近代への徹底的な反逆の先で絵画を一から「ラーニング(learning)」してきたのが森山安英である。森山(1936- )と辰野(1950-2014)は世代も画風も思想もまったく異なるが、こと近代芸術をめぐる「ラーニング」と「アンラーニング」という観点においては、両者は明瞭な対照形を描き出す。
森山安英は北九州市八幡で生まれた美術家である。「僕は絵を手放したことは一回もない」という発言とは裏腹に*1、その名前は60年代後半に活動した反芸術パフォーマンスのグループ、「集団蜘蛛」の主要な構成員として戦後美術史に刻まれている。「反芸術パフォーマンス」という様式を命名した黒ダライ児によれば、「集団蜘蛛」とは「1968年9月に北九州市で結成され、70年11月(裁判闘争まで含めれば73年11月)まで活動した美術・パフォーマンスのグループ」*2だが、菊畑茂久馬はその特徴を次のように明快に指摘している。
「このグループは、政治と芸術が激しくスパークした六〇年代と、七〇年代万博芸術幕開けの谷間、時代の関節がポキポキと鳴る音を枕に産声を上げた。二つの時代の股間から生まれた「蜘蛛」という名の鬼子は、生まれ落ちた瞬間、ガブリと左右の太股に噛みついた」*3
事実、「集団蜘蛛」の活動は極めて攻撃的かつ破壊的だった。たとえば、1970年2月26日の、いわゆる「性交ハプニング」は、福岡は天神の交差点の真ん中で森山と女性がセックスを試みたもの。平田実が撮影した写真を見ると、夕暮れ時にタクシーや路面電車が行き交うなか、線路の上で長襦袢をはだけた男女がシックスナインの体勢でまぐわっている姿を確認できる。一見して「公然猥褻罪」の対象になりかねない危うい行為だ。じっさいは、警察官の到着に先駆けて一目散に逃げ出したため事なきを得たそうだが、今現在この写真を見返しても、この行為が一般公衆が信じて疑わない性的羞恥心を大きく揺るがしかねない暴力性をはらんでいたことは想像に難くない。あるいは、生放送のテレビ番組になだれ込み、女子高生のセーラー服を剥ぎ取ったり、メンバーの頭髪を剃刀で剃りあげたり、さらには男女の性器を描いたムシロ旗を掲げながらデモに参加したり、そのデモの到着地である学校の屋上で陰部を晒したり、「集団蜘蛛」によるハプニングの狂乱ぶりを思い起こせば、それらは近代的市民社会の価値観や常識を撹乱させんとする、ある種のテロリズムと言っても過言ではないのかもしれない。そこには、たとえば同じように公衆の面前で裸体を晒した「ゼロ次元」のような儀式的な演出など見るべくもなく、たんに「むき出しの行為があるだけ」*4であり、つまりいかなる芸術性も見出すことができないほど、直接行動の純度が際立っていたからだ。
*1 「森山安英インタビュー」、『森山安英——解体と再生』grambooks、2018年、p149
*2 黒ダライ児『肉体のアナーキズム』grambooks、2010年、p440
*3 菊畑茂久馬「蜘蛛之巣城物語」、『反芸術綺談』海鳥社、2007年、p148
*4 黒ダ前掲書、p452
しかし「集団蜘蛛」の破壊的攻撃性は一般公衆を対象としていただけではなかった。それは、当時の美術、より厳密に言えば、「反芸術」も標的としていた。改めて確認しておけば、日本における反芸術とは、直接的には1960年の「第12回読売アンデパンダン」についての展評のなかで東野芳明が工藤哲巳に代表される日常品や廃品をメディウムとした一連の作品を形容した言葉に由来するが*5、今では50年代後半から60年代の美術を象徴する様式のひとつとして定着している。よく知られているのが、菊畑らによる「九州派」をはじめ、吉村益信や篠原有司男、赤瀬川原平らの「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」、そして高松次郎や赤瀬川、中西夏之による「ハイレッド・センター」などである。少なくとも現代美術における60年代とは、まさに「反芸術」の時代だったわけだ。だとすれば、先ほど引用した一文の中で菊畑が「時代」という言葉で何を暗示していたのか、おのずと明らかになるにちがいない。すなわち、「集団蜘蛛」という鬼子が鋭い歯牙で噛みついたのは、菊畑自身が所属していた「九州派」であり、そればかりか、「九州派」のなかでも傑出したスターであった菊畑個人でもあったのだ。
*5 東野芳明「ガラクタの反芸術」、『読売新聞』1960年3月2日夕刊
たとえば「集団蜘蛛」は、菊畑の版画作品をあからさまに偽造した。電話帳を頼りに片っ端から印刷所に電話をかけ、印刷所を特定するや菊畑の声色を装って増刷を発注。菊畑の版画作品をまんまと入手し、いけしゃあしゃあと「集団蜘蛛」のサインを入れたうえで菊畑作品の隣にこれみよがしに展示したり、それを一枚百円という破格の値段で販売したりした。あるいは、菊畑の講演会場に乱入し、壇上の菊畑の傍らで突然服を脱ぎだし、大勢の観客の前で全裸を見せつけた。おかげで菊畑は男性器を露出した全裸の男性たちを従えて大まじめに講演する羽目になったという。もっとも、森山はこうした愚行の計画を菊畑にあらかじめ通告していたと打ち明けているから*6、特定の個人を標的にしたハプニングといえども、ある種の共犯関係の側面があった事実は否めない。だとしても、現在にまで語り継がれている数々の「反芸術」の武勇伝と聞き比べてみても、「集団蜘蛛」のエッジがひときわ鋭いことに違いはない*7。「反芸術」に噛みついたことを思えば、それを「反・反芸術」などと概念的に言い表すこともできよう。だが、より端的に、より率直に言えば、それは「チンピラとしての身振り」*8に近い行為だったのである。
*6 「森山安英インタビュー」、p142
*7 「集団蜘蛛」の活動をより詳しく知るには、註の1および6で言及した「森山安英インタビュー」を参照。このなかで森山は「集団蜘蛛」の活動について自らの視点から回顧しているが、これがやたらめったらおもしろい! おそらく森山による北九州の方言をそのまま文字にした点も大きいのだろうが、たとえば赤瀬川原平による一連の著作からは見えにくい、しかも現在の基準からすると「ギョッ」とするような、この時代の生々しい文化の質が克明に浮き彫りになっている。いわゆる60年代の前衛物語を相対化するうえでも必読の文献である。
*8 「お帰り集団蜘蛛」展(GALLERY SOAP、2008年3月11日〜3月30日)
しかし、興味深いのは、そのような「集団蜘蛛」のラディカリズムをいち早く、なおかつ的確に評価したのが、当の菊畑その人だったという厳然たる事実である*9。散々自分を小馬鹿にしてきた「集団蜘蛛」の本質を突く菊畑の視線は、じつに深い。
「(集団蜘蛛は)芸術の否定、芸術を否定する芸術の否定、芸術運動の否定、連帯の否定、前衛の否定と、最もラジカルな先鋭部分にかぶりついた。六〇年代を席巻したアクション・ペインティングが、次第に単なる絵画的手法に陥り、ハプニングもまた、その意味を常に芸術に帰還させていた中で、彼らは芸術の魔の手を払いのけ、芸術として収斂していくあらゆる回路を切断しようとしていた。徒手空拳のまま、ただ"行為"だけに賭けた」*10
芸術への遁走を徹底して拒否すること。どれほど過激で非芸術的な行為であっても、いずれ芸術として回収されることをある種の「言い訳」とする美術家は今も少なくないが、菊畑によれば「集団蜘蛛」はそのような安全な退路を自ら断ち切っていた。だからこそ、それは活動を繰り広げれば繰り広げるほど「『先鋭化・過激化・自滅』へと転がっていく」*11ほかなく、事実、構成員の追放や離脱を繰り返し、やがてほぼ森山ひとりとなった「集団蜘蛛」は、1970年のいわゆる「伝習館闘争」*12において森山が「公然猥褻罪」で逮捕された事件を契機に「自死」していくのである。磯崎新が的確に指摘しているように、「ラディカルは自滅するしかない」*13のだ。
*9 「機関16 「集団蜘蛛」と森山安英特集─美術をめぐる思想と評論」、海鳥社、1999年
*10 菊畑前掲書、p151
*11 黒ダ前掲書、p442
*12 1970年、福岡県教育委員会が、教科書使用義務違反や偏向教育などを理由に、県立伝習館高校の教諭三名を懲戒処分とし、処分を受けた教諭や支持者たちがこれに反対した運動。
*13 磯崎新「空間と時間への関心——建築家から見た中原佑介」、『「中原佑介美術批評選集」通信第一〇巻 社会のなかの美術』、中原佑介美術批評選集編集委員会[近日刊行予定]
むろん、ここでいう「自死」とはレトリックであり、じっさいに自殺を遂げたわけではない。森山は現在も健在である。たしかに裁判闘争の後、15年に及ぶ長い沈黙期間のなかで、それまでの交友関係を絶ち、芸術的な表現を自ら封印したことは事実ではあるが、1988年に福岡市の天画廊で個展を開催して以来、これまた長い時間をかけながら、ひとり、表現の再起を図るのだ。だが、どのようにして? 絵画によってである。
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