ハーバード見聞録(13)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。


沖縄県の宮古島付近で10人が搭乗した陸上自衛隊UH60JAヘリコプターが行方不明となった事故は心が痛むばかりだ。
20年も前に、西部方面総監部幕僚長に着任した直後、鹿屋航空基地から海上自衛隊のP-3C哨戒機に搭乗して、南西諸島から尖閣諸島に飛び、中国と対峙する最前線の様子を視察した記憶が蘇る。
緊張が高まる南西諸島方面において、健気に国防に取り組んでいる後輩たちに心から敬意を表したい。


ボストン美術館(4月11日)

米国独立記念日(7月4日)の翌日、好天の中、妻と二人でボストン美術館を訪れた。ボストン美術館は世界の4大美術館に数えられる。全体としては、米国のものはもとより、日本を含むアジア、エジプト、ギリシア、ローマ、インド、エトルリア、アフリカ等の膨大な歴史的美術工芸品のほか、モネやピサロなど印象派などを含むヨーロッパ美術が展示されている。

3時間ほどで見るにはあまりにも広く、展示コーナーの数、展示品の数量とも膨大で、日本美術の展示コーナー以外では、殆ど駆け足で回ることとなった。殆どの展示コーナーでは、昔、小・中・高校の学生の頃に美術の本などで見たことのある有名な展示品が数えきれないほどあった。

日本コーナーでは、版画、陶磁器、漆器、刀剣、金属加工、織物、仏教画、仏像、絵巻物、屏風絵などが展示されていたが、期待していた浮世絵には出会えず、いささか残念であった。

今年は、日露戦争100周年に当たり、これに関する石版画、木版画、写真、スケッチなどが特別に展示されていた(注:2005年7月1日~06年3月8日)。

ボストン美術館の愛蔵品すべてについて語るには、歴史・芸術などについての博識が必要で、到底私の手に負えるところではない。従って、私が元自衛官であったことに免じていただき、日露戦争に因んだ展示品について、少しく紹介し、若干の所見を述べさせていただきたい。
この展示品は、製作技法として大別すると、石版画、写真、木版画、スケッチに区分される。これらの区分に従い、アットランダムに展示品を簡単に紹介する。

[石版画]
○東郷提督東京への凱旋式(1905年)

○明治天皇観兵式(1906年)

○ルーズベルト大統領日露戦争仲介の図(1905年)
累々たる「されこうべ」の山に取り囲まれて、ルーズベルト大統領がレ スリングの審判のような格好で、明治天皇とロシア皇帝を仲裁する風刺絵

○看護婦と負傷兵士

○日露戦争大日本赤十字野戦病院負傷者救療の図

○日露戦争写真画報(第9,12,18,27号)

○乃木将軍の生涯
将軍の幼少時代のスパルタ教育から始まる、8枚綴りの絵葉書で将軍の生涯を説明。次の説明が添えられていた。
「乃木希典、第3軍司令官。旅順港を奪取した時は、日本の古武士の精神を体現していると受け止められ、後の1912年9月13日の明治大帝大葬の日の午後、夫人と共に殉死した時は、忠誠心の象徴ともなった。」

○大山元帥
大砲の傍に立った大山元帥の表情豊かなポートレート。薩摩隼人の元帥は、心なしか現在の統合幕僚会議議長先崎一陸将や防衛大学校一期生の源川幸夫元陸将(東部方面総監)――二人とも鹿児島県の御出身――に似ている気がした。

○日本海海戦記念絵葉書

[写真]
○二百三高地から見た旅順港(縦30センチ横90センチ)
説明文によると「この写真は光村トシモ写真班(身元を特定できず)によるもので、乃木大将が1904年12月東郷連合艦隊司令長官訪問時プレゼントされたもので、その直後の旅順港に対する最後の総攻撃準備の際、攻撃目標を確認するのに役立った」と記されている。因みに旅順港は翌1905年1月2日に陥落した。

○ロシア側(旅順港側)から見た二百三高地

[木版画]
○大激戦二百三高地占領(小村キヨチカ作)

○南山の敵塁を破砕して鉄条網を抜く(月三(ゲツゾウ)作)

日本軍の眦を決した突撃の様子が良く描かれている。

○七星門外斥候衝突(美邦(ヨシクニ)作)

○鴨緑江上の衝突(美邦作)

○我が駆逐艦、速鳥と朝霞が大風雪を冒して敵艦を旅順に攻撃する図(コウ挙)

[スケッチ]
○英国エドワード7世の誕生日(1904年11月9日)を祝う前線での相撲大会(Frederic Whiting作)
 説明によれば、このスケッチを、英国に送り新聞に掲載した由。
○日露二人の兵士による白兵戦
双方が着剣した銃を持って組み合い、日本兵が足払いを掛け、今にもロシア兵を倒さんとする瞬間を描いたもの。

  1. 若干の所見

    1.錦絵から石版画へ
     私の記憶によれば、戊辰戦争から西南戦争の様子は錦絵が主役であったと思われるが、僅か30余年の後の日露戦争においては、石版画が新しい映像技術として急速に広がり、ボストン美術館の説明によれば、「一版で何千枚もの絵を刷れる石版画は、安価な手段として、日露戦争の指導者達の写真を普及することを可能にした。」とあった。
     この新たなメディアが、以下述べるような様々な効果――内外に対する情報戦の成果――を生み出すのである。

    2.天皇、軍指導者たちのカリスマ性・権威及び国民の戦意の高揚に石版画を活用
    「明治天皇観兵式」、「東郷提督の東京への凱旋式」、「乃木将軍の生涯」などに見られるように、石版画による大量印刷により、天皇と軍指導者のカリスマ性が高められ、戦場における陸海軍の活躍を活写した写真・絵等により国民の戦意の高揚が図られたものと思われる。 
    乃木大将、東郷元帥は後に神格化され、神社に祭られるに至った。

3.戦略的宣伝戦・心理戦に活用
 1904年11月7日の英国エドワード7世誕生日を祝う前線兵士による相撲大会のスケッチは、当時満州における日本軍の兵站線が伸びきり、旅順攻撃でも攻め倦み、バルチック艦隊の来航する中(日本海海戦は翌1905年5月27日)、日本軍の「不安感、切迫感」をロシア側に悟られまいとして、精一杯ゆとりのあるところを見せようと開催した「宣伝戦・心理戦」の一環と見られる。
 世界各国の特派員がこの席に招待され、このスケッチは、我が国と同盟関係にあった英国の新聞を通じて世界に運ばれた。
 因みに、日露戦争におけるメディアの攻防は、「日露戦争を演出した男モリソン」(ウッドハウス暎子著、新潮文庫)に興味深く描かれている。

4.映像情報の草分け
 1904年12月、二百三高地から見た旅順港の写真が東郷提督から乃木大将の手に渡り、旅順攻撃に活用されたという。写真の軍事的活用が何時から始まったのかは定かではないが、私自身、防衛庁情報本部の初代画像部長(人工衛星写真情報担当)を勤めた立場から、写真が軍事作戦に活用された事例として、大変興味深かった。

5.銃剣格闘
 テロ・ゲリラ時代の戦いで、陸上自衛隊として、銃剣道・銃剣格闘をどう位置づけるか論の分かれるところである。この息を呑むような白兵戦のスケッチを第32普通科連隊時代の部下・清水剛2佐(全日本柔剣道選手権大会で5度も優勝した強者)や藤原利将(元陸将)氏以下日本中の剣道連盟の方々に是非見せたいものだと思った。

6.美術館・記念館は如何にあるべきか
 ボストン美術館を見ると、「パックスアメリカーナ」と言う言葉が頭に浮かぶ。同美術館は、日本、エジプト、ギリシア、ローマ等の最高の歴史的・文化芸術的遺産を収集(収奪?)できるアメリカの国力を見せ付けつるものである。
 これに比べ日本はどうだろうか。第2次世界大戦に因む記念館の殆どは、「自虐史観」に支配されているのが特徴だ。「この記念館は、本当にわが国のものなのか?」と疑いたくなるほどだ。我々は未だ、敗戦のトラウマから回復していないとの思いが強い。そそのことは、アメリカや中国のそれと比較するときにはっきりと分るのではないのだろうか。
 21世紀前半は、憲法改正のほか、敗戦によるトラウマから生じた様々な課題を克服する時だと信ずる。


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