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男のコンプレックス Vol.7「もやし系男子のルサンチマン」

【注記】
これは、マガジンハウス「POPEYE」2010年2月号〜2012年5月号に連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在では男尊女卑や女性蔑視、ジェンダーバイアスに当たる表現もあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

中高時代の“マッチョの呪縛”
から抜け出せません!?

 社会人になってよかったと思う数少ない理由のひとつは、自分の体つきが貧相である事実に、さほどコンプレックスを感じなくて済むようになったことだ。

 思えば、中高生の頃のモテ基準って、「運動部・オア・ダイ」みたいなシンプルかつシビアなマッチョイズムに支配されていた。学校行事の打ち上げなどで盛り上がったとき、スキあらば服を脱いではしゃぎたがる奴らがいたが、あの輪の中に加われたかどうかが、当時イケてる男子だったか否かのひとつのバロメーターだと思う。私は当然、輪に加われなかった側だ。

 そもそも、生まれてこの方スポーツらしいスポーツを一切してこなかったせいで、華奢で猫背でなで肩という、限りなく「エヴァンゲリオン」に近い体型をしていた私は、当然クラスのモテチャートから早々に脱落。水泳の授業で運動部の同級生たちに囲まれていると、まるで自分がFBIに連行されるグレイ型宇宙人になったような気がして、ただでさえ貧弱な肩身をいっそう狭くしていた。

 とはいえ、大学生や社会人になれば、そんな「もやし系男子」にも芽はある。細身のシルエットを生かすファッションセンス、思想やサブカルを語れる知性、あるいは「ライフハックが…」とか言って仕事がデキる感を匂わせていれば、他にいくらでもモテる武器はあるからだ。にもかかわらず、一度植え付けられた劣等感をいつまでも引きずるのが非マッチョ男子のタチの悪いところ。

 かく言う私も、夏に薄着で出かけるときは、胸板の薄さをごまかそうとやや胸を張って歩いているし、体重やウエストサイズを聞かれたら、ちょっと多めにサバを読んでしまう。女の子が言う「恥ずかしいから電気を消して」にも、おおむね賛成だ。

 それに、「筋肉=バカ」の図式を流通させたいので、ガッツ石松や松岡修造をイジるのが大好き。テレビでアスリートがおもしろいことを言っても、笑うのを“やせ我慢”している。

 このように、青春時代にモテ の射程圏外だった非マッチョ男子のルサンチマンは根深い。こんな卑屈なもやし根性は捨てればいいのに、案外「そんな自分が好き」だったりするからなあ。

(初出:『POPEYE』2010年8月号)

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【2023年の追記】

肉食系/草食系とか、モテ/非モテとか、なんでも物事を二元論に分類したり分断させたりして考えるのはもうあまり流行らないとは思いますが、それでもあえて男性のメンタリティを何かで二分できるとしたら、「中高時代にノリで服を脱げる男だったか、そうでないか」というのは、割とその先の人生における決定的な違いを生んでいる気がするんですよね。

高校時代、体育祭などの学校行事やその打ち上げがあるたびに、男子の「一軍グループ」が服を脱ぎ、裸をさらして盛り上がったり雄叫びをあげたりしていて、そんなとき“脱げない”私は、彼らに「絶対的強者」としてのマウントを取られている気がして、すごく断絶を感じていました。

気分が高揚した結果として「裸になれる/裸になりたいと思える」というのは、「自分たちの裸は見せるに値する健全な肉体であり、それが同性へのマウントや異性へのアピールになる」という自信があるからできることです。そんな肉体を持っていることが、彼らの「男としての自信」の根拠だったのは間違いありません。

それって要するに、”「男である」ということだけを根拠に、自分の言動に自信を持つことができる”ということなのだと思います。なんかやっぱりその感覚って、自分には持てる気がしなかったし、この先も一生持てないでしょう。

吉田豪さんの名言に、「根拠のない自信がある男性は、たいてい股間に根拠がある(=巨根の持ち主である)」というのがありますが、男って、たとえ能力や経済力はなくても、「強くてたくましい体を持っている(そこには下半身的な意味を大いに含む)」ということが、それだけで自信の根拠になっちゃうんですよね。

「一気飲みしたら盛り上がってもらえる」「土下座で許しをもらえる」「肩がぶつかったら謝ってもらえる」「ストリートやバーでナンパできる」「飛び込み営業で仕事を取ってこれる」「かに道楽みたいな新人研修に耐えられる」「相手も喜んでると信じてセクハラできる」「押せば口説ける」と思うことができて、それを実行に移せてしまえる人って、「俺はそうしても許される特権がある」と思える人であって、それはさかのぼると「中高時代にノリで服が脱げる」ことと密接に繋がっているのではないかという気がしてるんですけど、これは完全に私の偏見と思い込みなので、大きな声では言えません。

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