SDGsの同調圧力や便乗にまつわる話(あと関係ないけど靴下の話)
SDGsの解説本が書店に並びはじめて早数年。今では右を向いても左を向いてもSDGsが目に入る日々。テレビを点けると経営者は「事業計画にSDGsを取り入れ云々」と胸を張って会見しているし、バラエティ番組ではSDGsにかこつけたコーナーをよく見かける気がする(あまりテレビ見ないから気がするだけかも)。今時は小学校の教科書にも載ってるのかな?
とにかく猫も杓子もSDGs状態。世はSDGs時代である。
それにしてもSDGsが溢れすぎて、なにがなんでもSDGsを標榜しなければいけないような空気にはちょっぴり息苦しさを感じる。いわゆる同調圧力というかなんというか。
いや、基本的には良いことだと思うんだけどね。貧困とか飢餓とか教育とかジェンダーとか、問題が是正されるにこしたことはないってテーマも多いし。でもさすがに便乗しているだけというか、SDGsって言いたいだけでしょ?って事例を見かけたりすると、どうにも薄っぺらさを感じてしまったり。
「CO2排出を6割削減して環境に貢献します!」とか言ってるのを見ると「それはつまり従来比4割のCO2を排出し続けるって宣言だよね?今までよりゆっくりなペースで環境破壊に貢献し続けます!って意味にもなるのでは⋯」とツッコミたくなったりね。(ひねくれ者の発想)
太陽光発電にしても風力発電にしても"従来よりは"環境負荷が軽い、だけどゼロ負荷ではないって話なら、エアコンの効いた快適な室内で「環境第一!」ってドヤ顔されても流行りに便乗しただけのファッションSDGsにしか見えないよなぁ思ったり思わなかったり。(揚げ足取りな発想)
ところでSDGs云々の前に、いつの間にやら持続可能であることは大前提になってるけど、そもそも持続可能でなければいけないのかどうかって議論はないのかな?ってことが気になってみたり。生命の理に従って精一杯生きたその先に滅びを設定するのは有りか無しか、持続不可能な社会の方が健全じゃないか、みたいな主張はどこかにないのかな?本当にSDGsって問答無用でジャスティスなの?
そういえば最近はSDGsをテーマにしたアートイベントを目にする機会も増えた(気がする)。「SDGsがもたらすちょっと先の未来」は社会的意義のあるトレンディなテーマだし、その可能性をアートで垣間見せるってのは定石だと思う。企画も通しやすいだろうし、PRもしやすいだろうし(助成金とかも確保しやすいだろうし?)。そういうアートがあるのは全然問題ないのだけども、そっちばっかりに傾倒し過ぎなのはバランスよくないんじゃない?とも思うわけで。アートよ、あんたまでSDGsに迎合しちまうのかい!?
個人的にはどちらかというと反SDGsな持続不可能社会をテーマにしたアートの方が見てみたいってもんでして。SDGsの素晴らしさや可能性云々を見せられるより、持続不可能なディストピアを見せられて「これこそが定めよのぅ」とか「こうはなりたくないからやっぱSDGsは超大事」とか思うのもいいじゃない?そうじゃない?そうじゃないか〜。
ちょっとした余談だけど「SDGs アート」で検索すると、幾つかのアートフェスが並ぶその間に、SDGsへの取り組みを紹介するアート引越しセンターの企業サイトが割り込んでいたりして非常に趣深い。なんにせよ文化活動も企業活動も今はとにかくSDGsなんだな〜。
かくいう私はこまめにゴミを分別するしレジ袋は基本使わないし夏は概ね扇風機だし8階くらいまでならエレベーターもエスカレーターも使わず階段を駆け上る程度には環境低負荷人間なんですけどね。それはそれとして、SDGsに限らずだけど何でもかんでも同調圧力で押さえつけるような風潮や、その逆で流行りに対して軽薄に便乗するような風潮はどちらもなんだかなぁって話で。
近頃はそんなことに思いを馳せる日々を送っており、アーティスティックなものづくりに励む先進的クリエイターの矜持にかけて、同調圧力に流されて安易にSDGsを標榜したり、流行り物だからと浮薄な考えでSDGsに便乗したような作品は絶対作らないぞと、そう心に誓って引き続き創作活動に精を出そうと思っている。(おしまい)