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【個人哲学】利己=利他ではないかと思ったはなし
自分は究極、人間は利己的にしか生きられない生き物だと思っていた。
人間に限らず、生き物自体が、自己の生存を第一に行動するようにできていると思っていた。
他人への親切は自己に好感をもってもらいたいという欲求からきていると思った。
子供や組織への自己犠牲も、自分の遺伝子や精神を継承したいという利己的な欲求からきていると思った。
自殺は苦しみから解放されたいという利己的な欲求からきていると思った。
どのような利他的行為も、たとえそれが無自覚であったとしても、利己という範囲の中でしか利他は存在し得ないと思っていた。
しかし、果たして本当にそうだろうか。
人間も全ての生き物も競争を強いられている存在だと思う。
悲しいかな、生存競争の末の繁殖や、進化論にある自然選択への適合を経なければ、生き物は進化とは逆に衰退してしまうさだめにあると思う。
相手に何らかのポジティブなものを感じとって好感を抱かなければ、子は産まれない。
そのポジティブな要素とは、個としての強さや優しさなどであったりすると思う。
その強さや優しさが、個人の生存を有利にする(他の個との競争に打ち勝つための)利己的なものであったとしても、人間なら人間、ゾウならゾウ、てんとう虫ならてんとう虫という種としてのグループ全体の生存にとっても寄与しているならば、それはそのグループにとっては、利他的な行動と言えるだろう。
人間も動物も微生物も、あるいは非常に大きな視野で見れば、地球と地球外生命体も、地球や宇宙の資源を巡って、グループ同士競合関係にあるさだめではないか。
ならば、やはり一人間の全ての利己的行動も、一ゾウリムシの全ての利己的行動も、人間グループ全体にとっての利己的行動になるし、ゾウリムシグループ全体にとっての利己的行動になるだろう。
グループ全体のためになったというならば、その利己的行動は利他的行為であったと捉えることもできるだろう。
もっと言えば、地球の生命体がこの宇宙のどこかの生命体を競争の末、上回って淘汰してしまったとしても、それはまた別の宇宙の生命体との競争に打ち勝つための利己的行動ということになるのかもしれない。
そうなれば、それすらもこの宇宙グループが全滅せず生き残るためには、必要な強化のための競争という行為であり、その観点でこの宇宙グループにとって利他的であったということが言えるだろう。
それはつまり、
人間は、利己的にしか生きられないし、利他的にしか生きられない。
ということだと思う。
利己と利他。
永久にどちらがどちらを内包して支配することもできないと思う。
人間の原罪とは利己的にしか生きられないという生物的な特性とそのさだめを言ってのことだろうか?
それならば人間は同時に、原始的な優しさというか愛みたいなものも持って存在してくるのだと思う。
なぜなら全ての行動が、利己的であったとしても、その全ての利己行動は外へと続いていくグループ全体の利他的行為へと繋がっているのだから。
だから私たちは、「生きたいように生きて」、どのような運命を辿ろうとも、どのような感情を抱こうとも、善悪や成功失敗に囚われず、利他だったか利己だったかにとらわれず、「この世界に影響を与えた」ということ自体に誇りをもって死んでいっていいのではないだろうか。
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