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パリでもないのに~ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ篇~|⑦言語能力≠コミュニケーション能力

コロナ禍のパリ留学について独自の視点で綴った片岡一竹さんの好評連載。これから留学を考えている方々におすすめなのはもちろん、パンデミックが留学生にもたらした影響について記した貴重な記録です。
人と話すとき、誤解を避けようとつい様々な留保をつけながら話したくなりますが、こと外国語のスピーキングにおいては、たとえ十分な文法の知識を身につけていたとしても、そうした気持ちをおさえて話さないと逆効果になることが多いうえに、まったく伝わらないとまではいえないが、場合によっては大きなリスクを自ら背負うことになってしまうのではないか、ということが今回のテーマです。

 フランス語の発音は簡単だ、というようなことを前回書いたが、それはフランス語が簡単な言語である所以ではない。

 もちろん文法は複雑であり、そのぶん実際に話すことは比較的困難である。
 簡単なことを口に出す場合であってもいちいち「これは女性名詞だっけ」「あれ、時制はどうなるんだ」「活用が分からん」「この場合は接続法を使うべきか?」などと考慮すべきことは多く、些末な文法ミスも頻発する。

 それから、これはフランス語に限らず西欧語全般、少なくとも英語やフランス語に言えることだが、言語特性の違いにより表現の仕方が日本語と異なるという点も慣れを要する。

 フランス語を解さない方もいるだろうから英語で説明すると、例えばメールで「今夜パーティがあるけれど、来る?」みたいに問われ、

 うん、明日までにやらなければいけない宿題があるから長くいられるかはわからないけれど、それでもよかったら、今夜のパーティに参加するよ

みたいな返事を書きたいとする。これは日本語として自然な文章だ。
 しかしとりわけ筆者のごとく主に学術論文を中心にその言語を学んでいる者の場合、「この場合主節は「パーティに参加する」であり、その前の部分が条件を表す従属節で、かつ意味を補って明確にしないと伝わらない可能性もあるから……」などとつい理屈っぽく考えてしまい、

Yes, although I don’t know if I can stay for a long time because of some homework which I have to finish by tomorrow, but if you still want my participation, I would like to take part in the party which will take place tonight.

というやけに複雑な、機械翻訳調の文章を書いてしまう。

 これはこれで高度な文であり、文法知識に長けた奴だと思われるだろうが、その分相手との壁も厚くなるかもしれない。英語としてあまりにまどろっこしい。読む方に大きなストレスを与えるので、日常的コミュニケーションには到底相応しくない。

 それにこれが会話であった場合、絶対途中でミスを頻発させて挫けたり、謂わんとしていることを見失ったりして、要は伝わらない可能性が高いのである。

 外国語のスピーキングを実践するにあたっては、リスク管理が重要だ。ここで言うリスクとは、要するに文法や発音を間違ったり、適切な語句が出てこなかったり、喋っている途中で文の構造が分からなくなるリスクである。

 完璧な美文をめざすといきおいこのリスクも大きくなる。見事な文法的精確性の下で全体が有機的に連関している文章は確かに美しいが、その反面、読解に相応のストレスを要求する。さらに文の途中で少しのミスや不適切な個所があると、もう何を言いたいのかわからなくなってしまう。

 それゆえ①シンプルに②短い文で③断言するという原則に従わねばならぬ。特に経験が浅いほどそれを鉄則とすべきである。したがって上の文は、

Sure, I’ll join it. But I won’t stay long, ‘cos I must finish some homework by tomorrow. Is it OK?

という感じにすべきだ。
 日本語に訳すと「うん、参加する。でも長くはいない。明日までにやる宿題があるから。大丈夫?」という、いかにもアメリカ流のフランクな言い回しになるが、それでいいのだ。
 そもそもこういう「アメリカンな」感覚は、英文を直訳することで醸し出されるものだから、アメリカンに訳せる分だけ自然な英文だということになる。

 日本語は語尾の表現を工夫することで断定を避けた婉曲的な言い回しが可能であり、また婉曲的である方が柔らかく、ニュアンスを充分に表現した質の高い言い方になる。反対に西洋語ではなるべく断定的にスパッと言い切ってしまうほうが良い表現になる(少なくとも外国人にとっては)。
 だからつい回りくどく言いたい気持ちが生じるのを抑え、思い切って「言い切る」ように心がけるべきである。

* * *

 反対に、あまりに自然な日本語に直訳できてしまう場合は、自分の話す外国語が日本語の直訳になってしまっていることを疑うべきだ。

 現地の留学生向けの語学教室に参加して実感したのだが、フランス語と同系統、あるいは似た系統の言語を母語とする人々、つまりイタリア人やイギリス人、アメリカ人は、語学試験上は自分とそれほどレベルが変わらなかったとしても、自分より遥かに会話ができる。
 たしかにそこには初歩的な文法ミスが目立つし、発音の誤りも多々ある。だが彼ないし彼女らは聞けるし、話せるし、(俺様を差し置いて)盛り上がれるのだ。 

 しかし講義の内容がこと文法に及ぶと、連中はとたんにトーンダウンする。
 たしか「次の文章のうち、発音は正しいが表記が誤りである箇所を修正せよ」というような課題で、要は「Je n’ai pas de stylo」が「Je n’est pas de stylo」になっている、というような意図的な文法ミスが仕込まれている短文の誤りを正していくという簡単なものだったが、これが、グループの中で私が一番良くできたのだ。

 こちらの実力を見くびっていたであろうドイツ人が驚いたのを覚えている。「どうしてそんなにできるの」と訊いてきたので、

「日本語の文法構造はフランス語のそれとは全然違うので、日本人はフランス語の言語センスを持っていないだろう? だから文法を完璧に習得しないと話せないんだ」

というような答えを朕は返したのであるが、あまりに完璧な美文で言おうとしすぎて文が崩壊し、まったく伝わらなかった。

 しかしあの時に言わんとしていたことは正しいと思っている。
 事実、西欧語が母語であれば、文のシンタクスはほとんど同じだから、単語を置き換えるだけでよい。さらにロマンス語や英語の話者ならば、大部分の単語には「マイナーチェンジ」並みの差異しかなく、当然知っている母語の単語を「フランス語っぽく(感覚)」発音すれば通じてしまう。
 それゆえ彼女ないし彼らは「なんとなく」、「感覚で」フランス語を聞いたり喋ったりできてしまうのだ。これは日本語など東洋語話者が決して得られぬ、実に羨ましい特性である。

 特にイタリア語などロマンス語系の言語の話者にはそれが顕著である。その語学のクラスで知り合った仲間で集まって食事しているところに、仲間内の一人の友人で、イタリアから観光に来たという女子が加わったことがあった。フランス語は一切できないという。
 彼女には悪いと思いつつも、イタリア語の分からない我々はフランス語で会話していたのだが、なんと彼女は会話内容を「なんとなく」理解しており、ちゃんと話についてきていたのである。
 つまり喋ることはできないにせよ、しかしまったくの無勉強であっても、留学生の話す簡単なフランス語程度なら理解できてしまうのだ。

 それに反して日本人はそういったスキルを持ち合わせていないから、一から文法を学ばなければ、まったく太刀打ちならない。それゆえ学習のバランスが悪いと、文法知識ばかりが肥大化し、接続法半過去の活用を完璧に覚えているのに会話に取り残されるような事態に陥る。

* * *

 だから上に示したような複雑怪奇な長文を言ったり書いたりしてしまうのである。

 なまじ文法や語彙が身につきはじめ、長い文章を書けるようになってくると、自分のフランス語力が格段に向上したような気がして、ついつい複雑な構造の文章を作ってしまう。
 おまけに筆者を含めフランスの現代思想などを学んでいる者は、「このenに対応しているのはどこだあっ!」と海原雄山のごとく激昂したくなるような難文に日々出会っているので、なんとなく複雑な方が高級な仏文になるのではないかと思い、いたずらに代名詞や関係詞節をマシマシにしてしまう。

 その結果できあがるのは「不必要に複雑な・不自然極まりない・あきらかに非ネイティヴが書いたとわかる文章」であり、文法・語彙知識はあっても自然なフランス語にあまり触れていないから、単なる日本語の直訳にしかなっていない。

 哲学書や思想書で出会う複雑な長文は言うまでもなくネイティヴが書いたものであり、フランス語を知り尽くし、生来の言語感覚ももっている人間が、意図的に複雑で微妙なニュアンスを表さんとした所産である。そもそもスタンダードな言い回しを知らない学習者が母語の感覚に引き摺られて書く悪文とは根本的に異なる。

 したがって、特に会話の場合は「なるべく短文に」することを常に心がけるべきだ。微妙なニュアンスや留保など、どうせ日本語で話している時ほどは伝えるのは不可能なのだから、思い切って断言してしまう。言いたいことのエッセンスだけを抜き出して、イエスかノーか、賛成か反対か、殺すか許すかをはっきりと表明する。

 誤解を恐れずに言えば、外国語を喋るときは意図的に知的水準を数段下げ、自分でもバカっぽく思えるような仕方で話すことが肝要なのである。

 俺は自分の心の複雑なニュアンスを表現したいんだと希求しても、いきなりはそれを伝えられない。一旦は底まで下りて、単純でスタンダードな「クリシェ」的言い回しを習得し、それを土台としながら言語としてのレベルを徐々に向上させていくほかない。

 外国語のスピーキング能力は、どれだけ「子供に戻れるか」にかかっているのだ。

* * *

 文法は学んだ。語彙力もついた。自然な表現もだんだんわかってきた。
 しかし、だからといってそれだけで流暢な外国語コミュニケーションができるわけではない。

 外国で暮らしてみて痛感したのは、言語能力とコミュニケーション能力は別物であるということだ。
 いくら喋れても、言いたいことがなければ何も言えない。「話せる」ということと「何を話したらよいかわかる」ということは、似ているようで実は全く別の次元に属する。

 少し海外生活やその土地の言語でのコミュニケーションに慣れてくると、次に突き当たる壁が「何を話せばよいかわからない」である。
 これはとりわけ、特定の話題が与えられていない日常会話において深刻に経験される。複数人で何かを議論していて、ふと「君はどう思うの?」と誰かに意見を求められた際、

Bah, ouais…bon, en fait, j’avoue que je ne suis pas très sûr si ce que j’ai compris est bien approprié, mais je me permets d’avancer qu’il me semble qu’il ne serait pas forcément trop exagéré de soutenir que, si je puis dire, ça dépend.
(訳:そうですね……まあ、自分の理解したことが適切かどうかよくわからないのが実は正直なところなんですが、とりあえず言わせてもらえば、こう言ってよければですけれど、「場合による」と主張しても、必ずしもそれほど言い過ぎというわけではないかもしれないように思われるんですが)

などと、いくら流暢に言ったところで会話には全く参加できない。

 斯様に外国語の日常会話でしばしば遭遇する「何を喋ればよいかわからない」という現象は、概ね以下の二つの理由から生じていると思われる。
 つまり①ノリが分からない②共通の話題がないである。

 まず①「ノリが分からない」についてだが、特定の人間同士が集まると、その集団に共有されるコミュニケーションの基底的・公準的雰囲気、つまり「ノリ」が自然と形成される。
 「ノリ」が分からないゆえの苦労は日本でも新生活を始めた時などに経験されるが、しかしその苦労の大きさが、見知らぬ外国では桁違いになる。

 特にもっぱら現地で生まれ育ってきた人々で一集団が構成されている場合、現地人特有の「ノリ」があり、それに依拠しながらコミュニケーションが行われるだろう。しかし自分はそのノリを知らないので、うまく話に乗れない。なぜ今皆が爆笑したのかがわからない。

 現地人に訊いたところで、この「ノリ」は言葉で説明できないだろう。というのも「ノリ」とは言葉になる以前の感覚的な雰囲気のようなものであり、あまりに「自然で自明」であるため、逆に対象化したり言語化したりするのが困難な代物であるからだ。
 いよいよ老境に差し掛かった親と共にテレビのネタ番組を観ている際「今のギャグはどこが面白かったの?」と質問されたときの返答の困難さに似ている。

 精神病理学的な言葉で言えば、ブランケンブルクが内省型統合失調症者に指摘した「自然な自明性の喪失」に比されるような状態に陥ってしまうのである(このように安易なアナロジーで精神障碍を語るべきではないが)。

 要は「どう振舞えば・どういう言動をとれば」自然にその集団に溶け込めるのかが直観的に把握できず、いちいち学習していくしかないので、うまくいっても「人工的な自然さ」という形容矛盾のような事態になってしまう。
 結果として自分自身に対する「この集団における異物感」がなかなか消えず、つまりは「浮いている」という居心地悪さがなかなか消えてくれない。

 この①とも関連するのだが、②「共通の話題がない」もなかなか深刻である。
 会って間もない、しかも自分と同業でもなければ共通の趣味を持っているわけでもない人と会話しなければならない時には、「まあこの話をしておけばそれなりに会話のラリーが続くだろう」という話題の鉄板ネタを用意して臨むだろう。

 しかしこの「鉄板話題」が外国では極めて僅少になってしまう。

 なぜなら鉄板とされる話題は大抵、流行りのカルチャーや最新ニュースなどの「時事トピック」、同世代の過去の共通体験を語る「ノスタルジー」、そして皆に覚えがある事象を言語化する「あるあるネタ」に分類できるものだからだ。
 要は最大公約数的な共通点を探して、会話に参加する人々の全員ないし大半が知っていることを話題にし、それに対する感覚を共有しあう――という形で「無難かつある程度楽しい会話」は行われる。さそり座のアンタレスという星について長々と蘊蓄を垂れても、小一時間にわたり一方通行の会話が続く。

 しかし最大公約数たりうるような共通体験が、外国人との間には持ちにくいのである。

 自分を除いて共通の話題で盛り上がっているところに介入して、逐一「それはどういうこと?」などと無粋な質問をすることになってしまい、ああ今自分は会話のテンポを削いでいると申し訳ない気持ちになるうえ、説明されてもよく分からず、「へえ、なるほどね(わかっていない)」以上の返しができない。 

 あまりに盛り上がっていると、絶対に場を盛り下げる(誤用)であろうことが判然としている介入を行うのに躊躇し、皆が会話に疲労して暫時の沈黙が生まれたその刹那に狙いを澄まし、僅かな間隙に電光石火の勢いで別の話題を差し込むほかない。

 その結果、開口一番発せられる単語が決まって「Au fait(ところで)」になる。自分が介入できない話題を強引に終わらせ、自分の発言に有利なトピックへと無理矢理に移行させるための力技である。

 しかし会話のインセンティブをとれる有利な瞬間に限ってうまく話せないのだな、悲しいことに。

 共通の感覚を持てる話題があまりにないので、仕方なく「へえーそうなんだ、それが日本ではさー」というように切り出し、「同じ事柄が日本ではどう扱われるか話」をすることも多々ある。これはあえて上述のセオリーの逆を行き、「皆が知らないけど興味はあること」を話して歓心を買おうとする異他性の戦法である。

 この兵法はなかなか効果的ではあるが、何かにつけて「日本では」「日本では」を連発しているとあたかも国粋主義者のようになってしまい、「俺はどれだけ日本が好きなんだ?」と独り言ち、せっかく外国にいる気分が削がれてしまう。
 何かにつけて「儂らの若い頃は……」と相手が共有できない自己満足的な懐古趣味を一方的に押し付ける老人のごとく思えて意気消沈することもある。

 しかしそれも駄目ならもう天気の話しかできなくなってしまうのだ。

* * *

 色々と書いてきたが、しかしまあ、窮極的に言えばすべては「慣れ」の問題である。長く暮らしていると段々とノリもわかってくるし、生活の中で共通の話題も自然に生まれてくるだろう。

 今回書いた内容はあくまで「俺はこれが辛かった」という類の個人的な例であり、また私の言語能力の不足も多分に影響している。実際に、私より話せかつコミュニケーションに長けた同じ日本人は初めからフランス人集団のノリに難なく溶け込み、自然に談笑できていた。全員に当てはまるというわけではないだろう。

 たとえ文化経験に共通項が少なくとも、外国語を話すというハンデを背負っていても、最初に書いたように、自らの考えをわかりやすく決然と述べればきっと相手も聞いてくれる。その時間は互いにとって実りあるものとなるはずだ。自分の身を守るためだけの余計な遠慮や躊躇は、勇気を出して捨てるべきである。フランス生活に自然と馴染めた人にはそれができていたのだ。

 したがって以上に記したことは、まあ自分の理解したことが適切かどうかよくわからないのが実は正直なところなのだが、とりあえず言わせてもらえば、こう言ってよければであるが、「人による」と主張しても、必ずしもそれほど言い過ぎというわけではないかもしれないように思われる。

片岡一竹
早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース後期博士課程。著書に『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房、2017)など。

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