ゲームはなぜ面白いのか?──『ハーフリアル 虚実のあいだのビデオゲーム』
「ちょっとだけ!」と思って、ゲームをやり始めて気づいたら何時間も経っていたという経験がみなさんありませんでしょうか。
かく言う私も数年ぶりに本格的にゲームをやるためにPS4を昨年に購入しました。早速『ドラゴンクエスト11』をやり始めたら、2日でプレイ時間が20時間になっていた…なんてざまです。
なぜ、ゲームはこのように時間を忘れて人を熱中させる力を持っているのだろうか?
そんな事をみなさんは考えた事がありますか。
そんな素朴な疑問を起点としてさまざまな学術的な研究として発展しているゲーム研究と言う分野が存在しています(日本ではまだあまり活発ではありません)。今回はその記念碑的書籍である『ハーフリアル 虚実のあいだのビデオゲーム』を取り上げます。
著者であるイェスパー・ユールはデンマークのゲーム研究者。本書ではビデオゲーム以前の古典的なゲームの分析から始まり、「ルール」と「フィクション」をキーワードとして進められていきます。現代版ホイジンガ(もしくはカイヨワ)的とも言える本書は、現代における「遊び」のメインストリームのひとつであるビデオゲームの面白さの深奥へと迫っていきます。
以下、感想です。
目次
■ゲームとは「(意図的に)様式化されたシミュレーション」である
■半分虚構で、半分現実
■「意図せざる」はどう生まれるか?
ゲームとは? ゲームの楽しさとは? 伝統的なゲームとビデオゲームはどうちがう? ビデオゲームのプレイは現実?それともフィクション?
あるものがビデオゲームであるとはどういうことなのか。 どういう場合にビデオゲームは楽しいものになるのか。 ゲームのルールはどのような仕方で機能するのか、また ルールはどのようにしてプレイヤーに楽しみを与えるのか。 どのようにして、そしてなぜ、プレイヤーはゲームの世界 を想像するのか。
新旧のゲーム研究に加え、文学理論、映画学、認知科学、 心理学、計算機科学、システム理論、ゲーム理論といった 多彩な分野からの研究成果を援用しながら、こうした問い を丁寧かつ明快に解きほぐす。
ゲームとは「(意図的に)様式化されたシミュレーション」である
かなり面白かったので、思いつくままに書いていきます。
ゲーム研究について、とても丁寧に書かれていて、非常に勉強になる本でした。ここまで真向のゲーム研究の書籍は初めて読みました(浅学なだけですが)。扱われるゲームも『ゼルダの伝説 風のタクト』や『グランド セフト オート』など日本人にとっても馴染みがあるものなので、実際のゲームを想像しながら読むことができるのもよかったです。ゲームの歴史について触れるものだと、ATARIの初期の作品などあまり実感がないものが多いので、最近(出版当時)のゲームについて触れられているのも驚きでした。
ゲーム研究の記念碑的名著と銘打たれているように、非常に示唆的で刺激的な文章がいくつも見られました。
著者はゲームとは「(意図的に)様式化されたシミュレーション」だと述べています。要するにある種のゲームは「現実世界の諸要素の脚色」をしているということです(分かりやすい例で言えば、『グランド セフト オート』は「現代の都市で犯罪者として生きること」をシミュレーションしています)。
ゲームは機能的な様式化を用いて、現実世界の面白い要素をシミュレーションしているという部分は非常に面白い視点です。ゲームはただ遊ぶものではなくて、ゲームを利用することで、何かに特化したシミュレーションができるということがわかります。(例えば、下記のURLのような例では「物体を認識する」という事についてシミュレーションしているとも言えます。)
半分虚構で、半分現実
また、著者がゲームを「ルール」と「フィクション」の2軸で語るというのも興味深いです。
本書では、ビデオゲームは不完全で非整合であるからこそ、プレイヤーへの想像の余地を与える、とされています。そして、その時に重要な要素が「ルール」と「フィクション」である。つまり、ゲームの面白さはこの両者の相互作用によって生まれるということです。
「ルール」は現実世界で操作するプレイヤーの動きに影響を与え、制約を設けることでゲームの楽しさをつくりだします(これはスポーツのルールなどを想像してもらえば分かりやすいかもしれません)。
そして「フィクション」は壮大な物語など虚構の面からその楽しさを補強します。
だからこそゲームとは「半分現実で、半分虚構」だと著者は述べます。
また、本書の中では「とくに空間は、ルールとフィクション両方の側面を持つものとして、特別に取り上げるべき論点だ。」とも述べています。
「意図せざる」はどう生まれるか?
ここで言及しているのはゲーム世界の中の空間についてだと思いますが、これは現実の空間を考えるときにも少なからず当てはまることではないかと考えられます。
「しかし、たとえあるゲームにおいて創発的で意図されていない出来事が数多く起きたとしても、それらの出来事は、そのゲームなしには生じなかったものだろう。そうした出来事が起きることを可能にしているのは、ほかでもなくそのゲームなのだ。」(239頁)
『スーパーマリオ64』では「ケツワープ」と呼ばれるチート的なワープの方法があるらしいです。そして、それを用いて世界中でクリアまでの早さが競われています。
こうした方法を用いてプレイされるということはおそらく開発者は想定していなかったことでしょう。建築も同じように当初想定していたこととは違う方法で使われることがあります。そして、こうした意図せざる現象はプレイヤー(ユーザー)に少なからず楽しみを与えます。そしてそれはそもそもゲーム(建築)が存在しないことには起こりません。しかし、ただ、存在していればいいというものではなく、その時に重要であるのが、ゲーム(建築)の「ルール」と「フィクション」がいかに冗長性をもってデザインされているかということなのだと思います。
たとえば、dot architectsによる「千鳥文化」はいわゆる「文化住宅」のような昔ながらの住宅を換骨奪胎して「意図せざる」ものに変質させてしまった例と言えるでしょう。ここでは、住宅から見事に設計者自身が運営するある種のパブリックスペースへと変質しています。そしてこの作品もまた「既存住宅」という「ルール」と、「アトリウム」を「公共空間」と言い切ってしまうある種の「捏造(=フィクション)」によって、結果としてできあがった作品ではないかとも思えます。
この「ルール」と「フィクション」というふたつの物差しは、他の分野においてもさまざまなことを考えられる面白い組み合わせではないでしょうか。
など色々な想像が及ぶ書籍でした。
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