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おいしいものを、すこしだけ 第5話

「知ってる? ジロが栄養失調で倒れたって」
 まったくどいつもこいつも、とテーブルの上に箸を投げ出しそうになった。何なんだ。流行っているのか。
 その情報をもたらしたサッちゃんは、トレーを置いて私の向かい側に席を確保したところだ。学食は混雑していて、声を張りあげないと話ができないくらいだった。私が黙って食べ続けているので、探るような目で見た。
「いいの? 日向子、いっときジロとつきあってたでしょ」
「つきあってません。なんだかみんなそう思いたがってるみたいだけど」

 正式には網代くんという人なのだけれど、みんなジロと呼んでいた。学年も学科も同じで、しかもサッちゃんとは高校で一緒に生徒会をやっていたそうなので、「友達の友達」という縁で、入学してしばらくたったころにはよく話をするようになっていた。ジロは目つきがギョロッとしていて、ニンマリと笑ったところが『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫に似ていた。いつも学食前のベンチで背中を丸めてぬくぬくとひなたぼっこをしていて、私を見ると「よーお」と片手を上げた。やけに年寄りくさい男子だな、というのが最初の印象だった。

 ジロは誰にでもニコニコと愛想が良かったけれど、とくに群れたがるでもなく、いつもどことなく一人でいることを楽しんでいるように見えた。そういうところが私と気が合ったのだと思う。サッちゃんやほかの仲間を交えてよく一緒に遊んだし、何度か二人で飲みに行ったこともある。

 当時の私は耳の後ろでくるっと一回ねじってピンで留める髪型をしていて、その毛先がぴょこんと跳ねているのがジロには面白かったらしく、会うたびに「おお今日もよく跳ねておる」と毛先をポンポンと撫でるのが挨拶代わりになっていた。相手によってはセクハラになりかねない行為ではあるけれど、ジロに髪をさわられるのは嫌ではなかった。そのさわりかたもなんだか犬猫をなでるような感じで、ジロも親元を離れて一人暮らしだったので、この人も寂しいのかなと思っていた。私が言うのも変だけれど女の子の髪というのはいいものなので、これくらいで慰めになるならそれもいいか、という気がした。

 大学に入って最初の夏休みが終わるころには、さすがに私でも、これはもしかして口説かれているのかなと思うことはときどきあった。ただ何もかもがあまりに遠回しなので、どう判断していいかわからなかった。

 夏バテ気味なのでスタミナのつくメニューはないかと相談され、ジロはほとんど自炊をしたことがないようなので、自炊の先輩としてアドバイスした。
「豚キムチなんかいいよ。簡単だし」
「面倒くさい」
「豚肉とキムチを炒めるだけだよ」
「なんか、自分で一人分だけわざわざつくるっていうのがなあ。もうちょっとこう、背中を押してくれる要素というのがさ」
 だったら聞くなよ、と思って帰る途中、もしかして一緒につくってほしかったのかな、という考えがちらっと胸をかすめたけれど、もう遅かった。
 寒くなってくると、一人で寝る侘しさについて切々と訴えられた。
「ぬいぐるみを抱いて寝るといいんじゃない」
「しかし女の子ならともかく、男がぬいぐるみ抱いて寝てる図というのはなあ」
「ハードボイルドなぬいぐるみにすれば」
「どんなぬいぐるみだよ。トレンチコート着て拳銃持ってマティーニ飲んでるのか」
「探せばあるかも」
「やっぱりぬいぐるみじゃなあ。温もりってものがさ」
「最近はあったかいぬいぐるみもあるよ。湯たんぽ入れるやつ」
 くだらないことばかり言い合っていないで、もし「うちに泊まって一緒に寝てくれ」と正面切って言われたとしたら、この人とそういうことになってもかまわないような気がしたけれど、一方でそれも何かが違うという気もしていて、ジロがそう言い出さないことにほっとしてもいた。そもそも私が自意識過剰なだけで、ジロには何の他意もなかったのかもしれない。真面目な顔をして冗談ばかり言うタイプでもあり、何を考えているのか今ひとつわからなかった。

 そのうちに学年が変わり、ジロは転科試験を受けて別の学科に移った。課題や何かで忙しくなったようで、以前のようにみんなで遊ぶときに呼んでも来ないことが多くなった。転科先で新しい人間関係ができたのだと思う。学食や大講堂ですれ違うことがあっても、「お。じゃあな」というような意味のない言葉を交わすだけになった。

 なんとなく芽生えかけていたものがなんとなく流れてしまうまでの半年間が、周囲にはつきあっているように見えたらしい。
 大学生の世間というのは不思議なもので、当人の気持ちのなかでもはっきりと意識していないことまで敏感に察知して容赦なく暴き出す。「あの二人は別れるらしい」とか、別れる本人たちより先に知っていたりする。そうかと思うととんでもない勘違いもしている。私の場合、二年もたった今になっても「最近どう? ジロとは」という人から「どうして別れちゃったの? お似合いだったのに」という人まで誤解の程度もさまざまで、いちいち説明するのも面倒なのでその時の気分で誤解を解いたり解かなかったりしているうちに、誰がどう思っているのかよくわからなくなってしまった。

 サッちゃんは私を離そうとしなかった。これからジロのお見舞いに行くので一緒に行こうと言う。
「お見舞いって、入院してるの?」
「ううん、もう退院してうちにいるらしいけど、何か栄養ドリンクでも持って行ってあげようと思って。重いから一緒に来てくれると助かる」

 そんなわけで、二人でスーパーの袋を提げてジロのうちに向かっている。しかしジロはこちらの学科とは縁が切れたと思っていたのに、私の知らないところでサッちゃんと連絡を取っていたのは意外だった。あの高校の生徒会は昔から結束が固く、卒業後も年中同期会をやっているくらいなので当然かもしれない。
 三分の二くらいまで来たところで、サッちゃんが突然飛び上がった。
「あっ、ゼミの資料ロッカーに忘れてきた。悪いけどこれ持って先に行っててくれる? 後から行けたら行くから」
 そのまま走り去ってしまった。なんだか態度が不自然なところが気になるけれど、べつに一人でジロと会えない理由があるわけでもない。倍になった袋を腕に掛けなおして歩きだした。

 ジロのうちには何度かみんなで行ったことがある。以前私が住んでいたのと同じような、木造ワンルームアパートだ。チャイムを押すとすぐにジロが出てきた。
 ガリガリになっているのかと思ったらそうでもなくて、むしろすこしむくんだ感じだった。一応ちゃんとした部屋着らしきものを着ていた。三年前に初めてジロと会ったころは、年寄りくさいなりにもどことなく少年の面影みたいなものがあったものだけれど、今はそれがすこしずつ消えかかっていて、もうすぐ完全になくなりそうだった。
「ああどうも、これ、私とサッちゃんから。途中までサッちゃんと来たんだけど、忘れ物したらしくて学校に戻った。後から来れたら来るって」
 栄養ドリンクと野菜ジュースの袋を渡しながら早口に言った。「ひさしぶり」とかいう挨拶はしたくなかった。
 ジロは「おお、悪いな」と言って袋を受け取り、気のせいかどんよりした目で私の頭を眺めた。私はだいぶ前に髪を短く切っていたので、撫でるべき毛先はもうなかった。
「栄養失調なんだって?」
「そう、朝起きたら体がまったく動かせなくて即入院だよ。コレステロール値が高いのに貧血なんだってさ。おっさんなのか乙女なのかわからないよな」
「何食べたらそんなになるのかね」
「一日一食コンビニパスタだったからかなあ。それかカップ麺」
「馬鹿」
 思わず口から出た。馬鹿としか言いようがない。
「一応、気をつけてはいたんだ。普通のカルボナーラじゃなくて『ほうれん草入りカルボナーラ』にしてた」
「ほうれん草が鉄分すごいって嘘らしいよ。グラム当たりで見たらアサリとかのほうがずっと多い」
「ボンゴレにしとけば良かったのか」
「それくらいでカバーできるかどうか」
「日向子ってそういうの詳しいよな。おばちゃんみたい。いかにも切り干し大根とか煮そうな顔してるし」
「悪かったね」
 前日に切り干し大根を煮たことは言わなかった。
「これに懲りてもうすこしましな食生活を送ったほうがいいよ」
「金ないもん。就活してるとバイトもそんなにできないし。奨学金も返さないといけないし」
 ジロはどういう事情か実家からの仕送りがなく、奨学金とバイト代だけで生活していると聞いた覚えがある。考えてみればサッちゃんと同じ都立高の出身なら大学に通える範囲に実家があるはずで、一人暮らしをしているのは不思議だった。ジロの口から家族の話が出たことはない。

 部屋の隅には就職試験の問題集が積んであった。ジロもこの時期になっても内定が出ていないらしい。二人で就職活動のくだらなさと社会の矛盾についてひとしきり愚痴った。
「景気が良くなってるって本当なのかね」
「まあ誰も就職できないならともかく、なんだかんだ言っても大多数の学生は就職していくからな。少数派は肩身が狭くなる一方だ」
 ジロは話しているうちに疲れてきたようで、ずるずるとビーズクッションに沈みこんだ。
「昔、生活保護打ち切られて餓死した人がいただろ。『おにぎり食べたい』って書き遺して。かわいそうになあ。単なる栄養失調でこれだけ具合悪くなるんだから、餓死の苦しみは想像を絶するよ」
「私たちも将来そうなるのかな」
「やめてくれ」ジロは頭を抱えた。
 部屋の中には余分な物がほとんどなく、シンプルを通りこして独房風と言ってもいいくらいだった。そんななかでひとつだけ、ベッドの上に大きなカニのぬいぐるみがあるのに気がついて指さした。
「それ、どこでもらったの?」
「自分で買った。『しまむら』で」
「景品かと思った。なんでカニなの」
「カニなら男の部屋にあってもおかしくないかと思って」
「カニって男らしいかな」
「ウサギとかよりはさ」
「抱いて寝てるの」
「悪いか」
「べつに」
 私はペンギンのぬいぐるみを抱いて寝ている。そういえば亜紀さんの部屋にはフクロウのぬいぐるみがあった。「これは知恵の女神ミネルヴァの使い」とかなんとか言い訳するかもしれないが、抱いて寝ているに違いない。三者三様にぬいぐるみを抱いて寝ているところを想像しておかしくなった。
 あまり長居もできないのでそろそろ帰ることにする。
「来週くらいには学校来るでしょ」
「たぶん」
「じゃ、お大事に」
 そう言って部屋を出た。サッちゃんは結局現れなかった。

 ジロとの話から思いついて、亜紀さんに鉄分を摂らせようと、帰りにスーパーでアサリを買った。パックに書いてあるとおり、塩水に浸けて薄暗い台所で一時間ほど砂抜きをする。最初のうちは驚天動地の事態に殻を固く閉じていたアサリたちも、徐々に落ち着いて管を出し始め、ときどきキュルッと音を立てて潮を吹いたりしている。もうすぐ食べられるとも知らずにいい気なものだ。この命を奪ってでも生きる価値が私にあるのか、などと考え出すと亜紀さんと同じ病気になりかねないので、考えないことにした。
 今日の夕飯はそのアサリたちを殺戮してつくった深川汁とおにぎりだ。炊いたご飯を炊飯器で保温しておくより効率がいい。それにいつかはおにぎりも食べられなくなるかもしれない。
 亜紀さんは「おいしい。生姜が効いていて」と深川汁を喜んで食べた。頬のあたりが前よりすこしふっくらしてきたようで、良かったと思う。

 サッちゃんは、私という人間についていろいろと誤解をしているようだ。次の日さっそく学校で私をつかまえると、自分が人に見舞品を持たせて結局姿を見せなかったことについてはひとことも触れず、「どうだった。昨日」と興味津々で聞いてきた。
「べつにどうもしない。栄養ドリンクは渡してきた」
「ふーん」
 意味ありげにじろじろと私を見てから、唐突に言った。
「日向子って、いい奥さんになりそうだよね」
「なんで」
「家庭的な感じがする。料理も上手いし。そうやってお弁当つくったりするところとか」と私の手元を指さした。
 余った煮物が冷凍してあったのを詰めてきただけだ。料理が上手いといい奥さんになるという短絡性がわからない。そういうことなら私より亜紀さんのほうがずっと料理は上手い。そもそもこの煮物をつくったのは亜紀さんだ。と思ったけれど黙っていた。
「ね、ジロにごはんつくってあげなよ。きっと喜ぶよ」
「あのね。何度も言うけど、私はジロとつきあってないの。過去も現在も」
「未来はわからないでしょ。ジロだってちゃんとしたものを食べなきゃまた倒れるよ。あんな安い栄養ドリンクなんか飲んだって役に立たないし」
 自分で見舞品を選んでおいてひどいことを言う。
「サッちゃんがつくってあげれば」
「あたし彼氏いるもん」
「こっちだってこれ以上他人の食事の面倒みるほど暇じゃないよ」
「これ以上って、今何かあるの」
 サッちゃんに亜紀さんのことを説明して理解してもらうのが面倒だったので「べつにないけど」と答えた。

 ほかにもあれこれ言ってくるのをようやく振り切って学食を出てくると、図書館棟の前でなんと亜紀さんにばったり会った。
「どうしてこんなところにいるんですか」
「ちょっと仕事の関係で」
 もう終わって帰るところだというので、一緒に正門まで歩いた。
 亜紀さんの勤めている市立図書館の返却ポストに、うちの学生がまちがって大学図書館で借りた本を入れたらしい。
「本当はこういうことはしないんですが、問い合わせたらその学生さんは入院中でいつ取りに来られるかわからないというし、そうなるとこちらも保管に困るし、返却期限は過ぎていて予約も詰まっているようなので、徒歩五分の距離ですから私が持って来たほうが早いということになりまして」
 本が入っていた濃紺の図書館バッグを大事に抱えているのを見せてから、ちょっと得意そうに言った。
「守衛所で学生と間違われました。学生、でまだ通るんですね私も」
 水を差すようだけれど、亜紀さんは若く見えるというより社会的地位がなさそうに見えるのだ。この人がスーツを着て名刺交換するところは想像できないし、主婦にも見えない。残る選択肢としては学生くらいしかない。

 まちがって大学の本を返却ポストに入れた学生というのはジロだったらしい。大学図書館の人から電話がかかってきて注意された、と言った。
「あのころすでに体調悪くてふらふらしてたからな。どっちで借りた本かなんて考える余裕もなかったよ」
 栄養失調が結ぶ縁といえば縁だけれど、わざわざ話すほどのことでもない。

 あれ以来、ジロとはなんとなく友人関係が復活したような形になっていた。と言ってもたまたま会ったときに多少内容のある立ち話をするという程度だ。ジロもさすがに食生活を改善する決意を固めているようなので、以前より自炊力が向上した私が再び自炊の先輩としてアドバイスした。
「昔、日向子にそそのかされて豚キムチつくったら大失敗した」
「そそのかしてないし、だいたい豚キムチなんか失敗するほうが難しいと思う」
「キムチ一瓶入れたら汁だらけになったから煮詰めようとして強火で炒めたら真っ黒になった。あれで自炊する気をなくしたんだな」
「それって私のせいなの」

 ジロはなんだかんだグズグズ言いながらも私につくってくれとは絶対に言わなかったし、一人で地道に料理の腕を上げているようだった。そのうち何か新しいメニューを開発して食わせてやる、とまで言った。


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