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おいしいものを、すこしだけ 第6話


 亜紀さんはめずらしく日曜日が休みだ。なぜか自分の本棚から絵本を何冊か抜いて、悪戦苦闘しながら梱包している。図書館員のくせに本の梱包が下手だ。見かねて手伝った。
「これ、どうするんですか」
「甥っ子の誕生日に絵本をプレゼントしようと思って」
「へえ」
 亜紀さんは家族と絶縁しているような印象だったので意外な感じがした。
「甥御さんて、いくつですか」
「三歳です」
「かわいいでしょうね」
「まあ子どもですから、さすがに大人よりはかわいいですね。人間の子どもは大人から見てかわいい様子をしていないと生きのびられませんから、そういう方向に進化したんだなと思います」

 子ども好きというわけではないらしい。そのわりに、亜紀さんの本棚には絵本や児童書がたくさんある。
「ずいぶん絵本がありますよね」
「自分が昔読んだものもあるし、児童サービスの勉強中に買ったものもあります。結局そちらの担当にはなりませんでしたけど、もともと興味があったので」
「意外」
「そうですか?」
「亜紀さんはあんまり子ども好きに見えないから」
 亜紀さんはすこし考えてから言った。
「司書の資格を取るすこし前に、高名な学者のインタビュー記事を読んだんですが、その人の書斎の一角に子ども向けの本がたくさんあったそうなんです。記者が『それは何ですか』と尋ねると『ああ、孫のために買ってあるんですよ』という答えが返ってきました。この話、どう思いますか」
「どうって、ただのちょっといい話としか」
「その学者先生は、自分のありあまる知見を動員して選んだ本を、ひたすらお孫さんのためだけに使うわけですよね。その子は大きくなってお祖父さんの書斎から大人向けの本も読むようになるかもしれないし、やがてその子もまた学者になるかもしれない。そのとき考えたのが自分の家のことでした。両親と兄は本を読まない人たちだったので、家には本と言えるようなものはほとんどなかったし、私のために本を買い揃えてくれる人もいませんでした。自分が図書館に育てられたことに初めて気づいたわけです。それで私は、いつか他人の子どものために本を揃える仕事をしようと思いました」
「すると夢が叶ったというわけで」
「そうですね。大学生や社会人だって大きくなった他人の子どもですから」亜紀さんはさびしそうに笑った。「思い描いていた人生とはすこし違ってしまいましたけどね」
 絵本を梱包し終わると、立ち上がって本棚を指さした。
「日向子さんも、ここにある本で欲しいものがあったら、よかったらもらってください。どうせ私が死んだら廃棄物になってしまうものですし」
「いりませんよ。縁起でもない」
 そう言ったものの見るとけっこう面白そうな本があるので「借りて読むかもしれません」とつけ加えた。
「その場合は借用書を書いていただきます。貸出期間は二週間で延長は一回まで、延滞された場合は延滞日数分の貸出停止となります」亜紀さんはスラスラとしゃべった。職業病だ。
 洋書で挿絵つきのものがあったので、手に取ってみた。表紙の、本を持っている痩せた女の子の絵が、なんとなく亜紀さんに似ていた。点と線で描かれたシンプルな顔と言い、これで背が高かったら完全に亜紀さんだ。「Matilda」というタイトルだった。
「マチルダという女の子が主人公なんですが、その子は生まれつきものすごく頭がよくて、四歳にしてディケンズだのフォークナーだの、文豪の大作をつぎつぎに読破してしまうんですね。ところが両親は娘の価値をまるで理解せず、マチルダはいつも邪魔者扱いで馬鹿にされて育ちます。初めてこの子の才能を見出して手を差し伸べるのが、ミセス・フェルプスという図書館員なんです。私も彼女もこの本が大好きでした」
「読んでみようかな」パラパラとページをめくった。
「児童書だから英語もそんなに難しくないし、日向子さんなら問題なく読めますよ」
 借用書を書いた。
「でも亜紀さんが死んだ後のことまで考えるのは早くないですか」
「そうですけど、母も六十にもならないうちに亡くなりましたし、じつは母方の伯母も同じ病気で亡くなっているんです。家系かもしれません。そうなると私に残された時間はあと二十数年ということで、短くはないですが、長くもないです」
「でもそれは家系じゃなくて偶然かもしれないし、どのみち二十年もしたら医学が進歩してそれくらいでは死ななくなるかも」
「そうですね。でも私の立場では、そのくらいがちょうどいい寿命かなとも思うんですよ。この収入で老後の資金を貯えるのは絶対に無理でしょうし、たいして年金も貰えないでしょうし」
 嫌な予感がする。この調子ではこの人は将来胸にしこりを発見しても病院に行かないのではないだろうか。その時私がどこに住んでいるか知らないが、首に縄を付けてでも連れて行ってやろうと内心で決意を固めた。
 亜紀さんは人の気も知らないで荷物に貼る宛先を書いている。
「兄の子どもがよその子どもと比べて特別かわいいということはないですけど、彼女の子どもだったらかわいいだろうなと思いますね。自分が子どもを産みたいとはまったく思いませんが、彼女の子どもなら一緒に育てたいと思っていました」
 もうその件はあきらめたほうがいいと思うのだけれど、何も言わなかった。
「亜紀さんは、家族で実家に集まったりしないんですか」
 言ってしまってから亜紀さんの表情を見て「ごめんなさい、よけいなことで」と謝ると、亜紀さんは「いえ」と首を振った。
「下手に寄りつけないんですよ。母が亡くなってから父が身の回りのことで不自由するのは目に見えていましたし、独身の娘というのは介護要員としてあてにされかねません。父は私の個人的な事情については何も知りませんが、私が結婚しないことや非正規で働いていることをむしろ好都合だと思っているふしがあります」
 亜紀さんにしては珍しく強い口調で言った。
「彼女は私が選んだ人でしたし、もし何かあったら一生面倒見る覚悟でしたけれど、あの家で父と同居するくらいなら餓死したほうがましです。あの人は自分の両親も母に看させていましたし、介護どころか、誰かの体を気づかったり、食事の面倒を見たりしたことがいっさいない人ですから」
「お兄さんがいるんでしょう」
「兄もこちらに出てきているのでどうなるかわかりませんが、義理の姉はいい人ですし、彼女に迷惑をかけるようなことには絶対なってほしくないので、それくらいならはやり実の子どもがやるべきだとも思います」
「わかった、お兄さんの奥さんも好きだったりするでしょう?」
 何の根拠もなかったけれど直感的にそう言うと、亜紀さんもさすがにあきれた様子で「さあ、それはどうでしょう」と苦笑した。
「ただ、子どもにはひかれないですがお母さんというものにはひかれますね。お母さんの疲れた様子を見ると何か痛ましいような感じがして、この人を苦しめたくないなとは思います」

 また母親から電話だ。最近はなるべく出ないようにしているけれど、あまり連絡がつかないと直接押しかけてくる可能性があるので、たまには出なければならない。一般企業を全部落ちたことは言わないで、何社か結果待ちということにしてある。
「ともかくお母さんがそんなに心配することじゃないから」
「自分の子どもに苦労させたくないと思うのは当然でしょ」
「他人の子どもは餓死してもいいの」
「それはその人の親御さんが考えることよ」
「私を心配してくれるなら、日本中の若者を正社員で雇用するように政府に働きかけてよ。それか非正規労働者の待遇改善を求める署名運動」
 そう言ってやると母親はため息をついて「まったくこの子は何を考えているんだか」と言って電話を切った。

 亜紀さんと一緒に、すこし遠くのスーパーまで買い出しに行ったところでジロに会った。
「ジロ」
 呼びかけると、ジロはいつもどおり「よーお」と言いながらショッピングカートをスイッと押して近づいてきた。どうみてもカートが必要なほどの量ではないのに、この人は昔からショッピングカートが大好きで、みんなで買い出しに行ってもやたらと押したがった。子どものころは上に乗って遊んで怒られていたタイプだ。
「日向子がこんなところまで買い物に来るの」
「こっちのほうが品揃えがいいから」
 なぜか亜紀さんは急に他人の振りをして、豆腐の賞味期限を熱心に調べている。
 ジロの買い物カゴにはサバ缶とかトマトとか栄養のありそうなものが入っていた。最近は栄養失調の心配はなさそうだ。
「『サバ缶トマト味噌チーズ』というオリジナル料理を開発してさ。超絶的に美味い。今度つくってやる」
「ありがと」
 じゃあな、とジロはまたスイスイとカートを押して、レジに進んでいった。
 亜紀さんはその背中を面白そうに見送って「あの人が例の日向子さんの元彼ですか」と言った。
「だから違います。亜紀さんまで、どこからそんな話聞いてきたんですか」
「自分で電話口でしゃべってたじゃないですか。大声で」
 誤解を解くための電話を聞いて誤解している。それにしても亜紀さんの口から「元彼」などという単語が出てくると、髭の長いおじいさんが「最近の若い者の間では、『ついったー』なるものが流行っておるようであるが」と言っているような感じがする。
 亜紀さんは結局買わないことにした豆腐を元に戻して「あと何を買いに来たんでしたっけ」とつぶやいた。


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