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アメリカ行きをプッシュしてくれた人

その昔、ぼくが大好きなバンド "toe" のギタリストである山嵜廣和さんがこんなようなことを言っていた。

30歳までにどれだけ"お金にならないようなこと"をやっていたかで、そのひとの人間としての魅力が決まる気がする

どこかで読んだインタビュー記事の断片だから、一字一句合っているわけではないと思う。なんだけど、これを読んだときに妙に胸を打つところがあって深く頷いたことだけは鮮明に記憶している。学生時代にみっちり勉強することや若手社会人時代にあくせく働くことはぜんぜんわるいことじゃない。それどころかきっとそうした方がいいだろうと胸張って言えるくらいだ。一方で「これをやっておくと後で役に立つ」とかそういった損得お構いなしに、ただただ好きだからやるという時間が人生を色彩豊かなものにする、ということについても触れないわけにはいかない。


好きなことをやる

この言葉に出会うずっと前から潜在的にそういうことが大事だなと思っていたぼくは、社会人になるかならないかのタイミングで「20代は好きなことを全部やろう!」と決めていた。渋谷のベンチャーにいたときもその後アマゾンジャパンで働いていたときも仕事は大好きだったので結構な時間を仕事に費やしていたけれど、休みの日はいわゆる"お金にならないようなこと"をするようにしていた。ぼくはもっぱら文系の人間なので「じゃあスポーツでひと汗かこう!」とはならなかったけど、文化系の趣味をそれなりにコツコツとやっていたわけだ。絵が好きだったこともあり、お茶の水にある美術専門学校のデッサンの授業に通ったり、Pinterestというアプリでゴッホやマティスの絵の画像をわんさか集めたり、美術館にあしげく通ったりなんて時期もあった。兄貴が舞台俳優をやっている影響もあって下北沢や駒場東大前の小劇場に芝居を見に行ったり、戯曲を買い漁って読んでいたりということもしていた。LOOKTONEという代々木上原にあるデザインの学校に通い、グラフィックデザインや動画作成について一年間みっちり学ぶなんてこともあった(あの一年は大変だったけどほんとに有意義だったなー)。そして20代の最後、29歳のときにそれまでもずーっと好きでやっていたギター、なかでもジャズギターをまじめにやろうと思い立った。最初は自由が丘のYAMAHAに通って基礎を学んだ後、東京は白山にあるbf jazz schoolというところに通った。

どれもこれも一銭にもならない。なんだけど、思い出すだけで「ムフフ」と頬が緩んでしまうような(もちろんエロいことを考えてとかじゃなくて)そんな気分にさせてくれる。色んな過去の大変なことだって、思い出が味方してくれたら、なんだか色褪せるような、そんな気すらする。

好きなことをやるということは、プールの中を潜水するような感覚に近いものだなとつくづく思う。ついさっきまで地上でせっせと仕事に励んでいた人が「じゃばーん」とプールに飛び込んだら最後、そこはもう別世界。冷たいプールの気持ちよさを肌で感じながら、まるでかえるのごとく手と足で水をかき分け底へそこへと進んでいく。見渡すと「あれ、このプールこんだけ広かったっけ?」とか「ここから見ると地上ってこんな風に見えるのねー」とかなんとか考え巡らせていると、そろそろ空気が吸いたいなという気分になり今度は地上までまっしぐら。「ぷしゃー」って勢いよく吸い込む空気の味は新鮮で、プールをあがって一息ついたころには「またいっちょ仕事するか」なんて気分にしてくれる。好きなことを直接仕事にしている人を除けば、好きなことをすることはその対象の世界で束の間の夢を見るようなものだと思う。その世界の広さと深さに感嘆しながら身をゆだねて泳ぎまわる。その行為それ自体にきっと深い意味があるように思えてならない。

そしてもう一つ。好きなことをやることの大事な意義はそれを通して"出会う人々"にあると思う。趣味の時間で巡り会った素敵な大人は幸運にも両手の指で数えられないくらいにはいるけど、その中でもこの人に出会ってほんとうによかったなーという方がいる。その一人がジャズギターリストの井上智さんだ。タイトルからご察しの通り、この人こそがぼくのアメリカ行きをプッシュしてくれた人物である。

井上智さんの話

ぼくがbf jazz schoolというこれまた素敵なジャズの学校に通っていたときにちょうど1年ほど師事することとなった。井上先生は「日本で一番歌うジャズギターリスト」だとぼくは思っていて、とにもかくにもそのメロディアスな旋律にはいつもうっとりしていた。最初に先生の演奏を見たのはBody & Soul (今は渋谷にあるけどそのときはまだ青山にあった)というジャズクラブで、そのエモーショナルな演奏はもちろんのこと、ほんわかとした佇まいから繰り出されるMCがとても印象的だった。もはや絶滅危惧種だと思っていた"親父ギャグ"をふんだんに取り入れたMCは、観客の絶妙な"やや受け"のリアクションによって引き立っていた笑。先生は日本に帰国されるまではニューヨークで20年ほどジャズミュージシャンとしてご活躍されたいたすごい方で、ジュニア・マンス、バリー・ハリス、ロン・カーター、そしてジム・ホールといった名だたるジャズレジェンドと共演を重ねられてきたプロ中のプロだ。初めて授業でセッションをさせていただいた際は、あらゆる技を駆使して演奏を包み込んでくれるものだから、頭のてっぺんからつま先までもふもふの毛布でバフっと羽織ってもらったような感触だった。スキルに溺れたイケすかない感じではなく、どこまでも温かく優しいのだ。素人に毛が生えたようなレベルだったぼくだが、井上先生には文字通り手とり足取り (いや足は使ってないか) ジャズの基本を教えてもらった。ちなみに先生の演奏に興味ありって方には、ぜひナイン・ソングスなんかを手に取っていただきたい。きっとここにつらつらとぼくがここに書くよりも、納得していただけるはずだ。

先生とは授業以外でも交流を持つようになり、話の流れで井上先生のYou Tube チャンネルを一緒に立ち上げることになった。ぼくがYou Tubeというプロダクトをもうちょっと触ってみたいというのもあったけど、そこには純粋に先生の演奏をもっと多くの方が観てくれたらいいなという思いがあった。最初はまずは手軽にできるものでということでソロギター(一人での演奏)の動画を撮影することに。機材はIPhoneにコンデンサーマイクにオーディオインタフェースと至ってシンプル。その当時ぼくが住んでいた大岡山の部屋まで先生にはギターを担いで来てもらい、あーでもないこーでもないと作戦会議をしながら、いそいそと撮影・編集をしていた。いま見返してもとっても気に入っている動画ばかりで、Georgia on my mindなんか特におすすめです。先生の演奏、実にエモいっす!

そんな撮影なりなんなりをしている隙間時間には、よくニューヨーク時代の話を聞いていた。こちらの記事にも書いたけど、ぼくはちょうどその頃本気でアメリカのテック企業(もっと端的にいうとAmazonのシアトル本社)への転職を覚悟しようとしていたタイミングだったので、先生の20年に渡るアメリカでの生活にはもちろん興味津々なわけだ。1980-90年代のニューヨークや当時のジャズシーンの話なんかはとっても面白くてそれだけでご飯三杯はいけそうな内容の濃さだった。

アメリカ挑戦の不安、そして後押し

ぼくはアメリカ本社に転籍する上で不安に感じていることがいくつかあった。それはもちろん「アメリカで自分が通用するか?」ということもあったし、「ほんとに全員外人だけの環境でやっていけるの?」ということも考えないわけではなかった。ただそれ以上に「こんな感じで家族なり親友なり全員ほっぽりだしてアメリカ行っていいのかな?」というのがなんと言っても気がかりだった。その当時付き合っている彼女がいるわけでもなかったぼくは、アメリカに行くとなった時点で「じゃあこの際ゴールイン!」なんてことにも当然ならない訳だ。家族がついてくるなんてことももちろんない。しょっちゅー飲みに行っていた親友とだって会えなくなる。つまり一人で海外に渡るということを意味する。百歩譲って仕事がうまくいったとして、その後どうなっちゃうわけ?ということを考え出すと気が気でなかった。

もちろんずーっとアメリカに行きたいという気持ちがあったからこそ、その挑戦に迷いはこれっぽっちもなかった。いざそのチャンスが舞い降りてきたときには実際に無我夢中で追いかけたわけだし。ただ、やっぱり人間なので綺麗さっぱり「これはこれ、それはそれ」なんてきっぱり切り分けることは難しい。胸の内を明かすならば、一抹の不安が、いやなんならバケツ一杯の不安をもったまま転職活動をしていたということになる。こんな孤独な闘いに身を投じていいんだっけ?と思うところがなかったわけではないのだ。

お茶の水のスターバックスで井上先生とYou Tube動画について打ち合わせをしている際に、上に書いたようなことについてポロッと相談している自分がいた。先生はふむふむと軽く頷いた後に、こんなことを言ってくれた。

アメリカ行ったら人生を変えるような出会いがきっと待ってるよ。心配せんで飛び込んでおいで。

ハッとするような感覚だった。先生だってそれまでは京都でギターリストをしていたわけだからニューヨークへの挑戦は大冒険だったに違いない。日本に残ったら残ったで、それはそれな人生がきっと待っていたことだろう。ただそこで飛び込んだからこそ、その後の人生が"それはそれ"なものから大きく形を変えることとなったのは言うまでもない。これまでも、そして今でも共演している方の多くがニューヨークで出会った人たちだったという話はよく聞いていた。そしてもちろん、先生が共演なり師事なりしてきたジャズレジェンドたちとも、日本でそのままギターリストを続けていたらゆめゆめ会うことはなかったはずだ。リスクをとったものだけが見える世界があり、手にすることができるチャンスがある。20年のニューヨーク生活を経て今ここにいる先生の言葉は、ずしっと重く、底無しに深かった。理屈でうまく説明することはできないけれど、きっとそうなんだよなという確信めいた思いでいっぱいになった。今やこの言葉は、ぼくにとって一つの星となって燦然と輝いている。それはもちろん希望という名の星である。

そんなわけで、アメリカ行きをプッシュしてくれた人で頭に浮かぶのが井上智さんだったという話でした。これが職場とかじゃなくて趣味のジャズスクールで出会った人から影響を受けてるって考えると、人生っておもしろいなーって思う。なにがどう繋がるかなんてぜんぜん分からないわけだ。ヘタに頭でっかちになってあれやこれやと計画ばっかり作ってがんじがらめになるよりは、今好きなことやって、新しい人と出会って、また人生の一ページをめくる。そんな生き方っていいよねーって思う今日この頃。"お金にならないようなこと"がきっとあなたを魅力的にするのだ。

最後まで読んでいただきありがとうございます。今日はシアトルはSouth Lake Unionから見える朝焼けで締めようかな。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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