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英語ができない帰国子女 - ぼくがAmazon本社で働くまでの道のり

どうも、こんにちは。福原たまねぎです。

現在、ぼくはAmazonのシアトル本社でシニアプロダクトマネージャーとして働いている。主にAmazon Coupon (クーポン)の機能開発をしており、プロダクトの戦略を考えたり要件定義をしたり、はたまたエンジニアとトラブル対応に追われたり‥ といった毎日を過ごしている。クーポンはAmazonのセール機能のひとつです。ひょっとしてこのNoteを読んでくださっている方の中にも、Prime Day (プライムデー)やBlack Friday (ブラックフライデー)などのセールイベントで使ったことがあるという方もいらっしゃるかもしれない(もしそうだったらとても嬉しい)。

このNoteでは、ぼくが現在の仕事に就くまでについて書きたいと思う。自分が大学生だった10年とちょっと前。Facebook, Twitter, そしてもちろんAmazonなどが勢いを増して世の中のインフラになっていく様を見た際に、「自分もこういうサービスを作る側の人間になりたい」と思ったことをよく覚えている (そしてその気持ちは今もぜんぜん変わらない)。Google, Twitter, Facebook (今でいうMeta)などの本社が構えるいわゆるシリコンバレーやAmazonやMicrosoftの本社があるシアトルなどに強い憧れがあり、「ぼくもいつかああいうところで仕事したいなーーー」って思っていた。

こういったアメリカのテクノロジー企業で働きたいと思っている方は少なからずいるのかな?と思った時に(あんまりいないかもだけど)、「ぼくの場合はこんな経緯で就職したよん」という情報が誰かの役に立ったらいいなと考えるようになった。というのも、アメリカで就職することは一筋縄ではいかないことだし、ぼくもいろんなことを考えては試して失敗して‥ の連続だった。それらを経た今、「もっと早くこういう情報を知っておきたかったな」ということも少なからずあるのも事実。このNoteがそんな誰かの参考になることがあるとしたら(あくまで一つのサンプルとして)、こんなに嬉しいことはないなと思っている次第です。

ちなみに。これからNoteではアメリカ就職やプロダクトマネージャーの仕事などについて、これまで考えてきたこと・今考えていることについて書き連ねようと思っている。とある理由から"考える"というと"たまねぎ"のイメージがあり、そんなわけあってニックネームは "福原たまねぎ"とすることにしたわけである。ま、それについてはまた別記事で書こうと思う(どうでもいいけど笑)。

では本題に。

はじめにお伝えしておくとぼくのキャリアは決してピカピカなものではない。アメリカの大学を出ているわけでもMBA卒でもない。コンピューターサイエンスなどの理系の大学院を出ているかというとそんなこともない。じゃあ職歴はどうかというと、「マッキンゼー出身です!」「ゴールドマンサックスで働いてました!」、みたいないわゆるエリートでもない。必殺の専門性があるかと問われれば、首を勢いよく横に振ることだろう。

大学生時には就職活動はうまくいかず、休学中に出会ったベンチャーの世界にハマり、そのまま流れに乗るように日本のベンチャー企業へ。その後アマゾンジャパンを経て現在に至るという感じ。振り返ってみても、思い起こされるのはいろんな場面で泥吸ってきたことだ笑。書いているうちに自信がなくなってきたが、以下これまでどんなことをしてきたのか記そうと思う。書いてるうちに筆が走ってしまい気づいたら結構な分量になってしまったが、そこはお酒を飲みながら読むなり、音楽を聴きながら飛ばし飛ばし読むなりしていただけたらと思っている。

繰り返しになるけど、きっと誰かの何かの役に立てば!


オーストラリアでのこと

ぼくは横浜で生まれついたのち、父親の関係で1年ほどニューヨークに家族で移住した。さすがに0歳でのことなので全く記憶にない。その後日本に帰国して数年が経った後、今度はオーストラリアはシドニーに赴任することとなった。父親は日本の証券会社勤務で海外を飛び回るという感じでもなかったけど、まだまだ未開発だったオーストラリアに行ってこいという感じで赴任が決まり、結局そこで3年半ほどの時間を過ごすことになる。その時僕は3~4歳だった。

幼稚園児だったぼくは、近くの現地校に通うことになる。当然周りはほぼオーストラリア人。それまで横浜の幼稚園でわんぱくに過ごし、毎日スカートめくりばっかりやっていたぼくは(なぜかその記憶はしっかりある。笑)、ここで人生に決定的な影響を及ぼす経験をする。

とにかく馴染めない。英語が話せないということもあるが、シャイな性格が災いし、なかなか友達ができない。教室の中で白人のいかにも育ちの良さそうな子供たちが僕をじろっと見ている光景が今でも目に浮かぶ。自分だけが髪が黒く、肌の色が違うことを認識せざるを得なかったと思う。物心ついて初めて世界が自分とそれ以外で分断されたような感覚だった。担任の先生も自分の親にその馴染めなさ具合について相談をしていたみたいで、それがとても嫌だった。そんなある日のこと、ある時から「あなたはこっち」みたいな感じで、小さくて汗臭い物置部屋みたいな場所で授業を受けることがあった。集まったのは3~4人のアジア人の子供たち。ぼく以外は全員中国人だったと思う。どうやら英語が出来ない子たちは特別授業で、ということみたいだった。うろ覚えではあるけれど、そこには確かに人種差別的なニュアンスがあったと思う。今考えると「南アフリカのアパルトヘイトかよ!」って思うようなことなんだけど、そんなことが起きた。そんなこんなありながら時間が解決して元のスカートめくりの日々が戻ってきたかというとそんなこともなく(海外でスカートめくりなんてしたらシャレにならないだろう。笑)、ぼくは結局現地の学校をやめてシドニーにあった日本人小学校に通うことになる。そこはシドニーに駐在している日本人のお子さんが集まる場所だった。ぼくはそこで2~3年の間、日本で受けるような教育を受けて、小学3年生の時に日本に帰国する。

その後、ハマっ子としてまたワイワイな日々が戻ってくるわけだけど、このオーストラリアでの経験は確かな傷として刻まれることになる。「海外に馴染めなかった」ということは自分にとって大きな挫折を意味し、強烈な外国人コンプレックスを持つことになった。「帰国子女だけど英語が話せない」という事実は人生を通して恥ずかしくて仕方なかったし、その思いは今も変わらない(幾分解消はされたけれども)。

オーストラリアにはいい思い出もたくさんある。真っ白な砂浜にこんがり茶色に焼けたナイスガイたちが優雅にサーフィンをする景色、やたらたくさんテニスコートがあって家族で散々飽きるまでテニスをした思い出、カンガルーやコアラにウォンバットといったポップで可愛い動物と戯れたことなんかただただ癒される記憶でしかない。なので全然ネガティブなイメージがオーストラリアにあるわけではなくて、あくまで個人的な体験としてそんなこともあったという話だ。もう30年ほど前の話だし、そういう人種差別がある場所だよ!みたいなことが言いたいわけではないので、そこんところよろしくです。

インド・ベトナムでのインターン

日本に帰ってからの話。中学高校は横浜の私立の学校にいきバスケやバンドにのめり込む日々を経て(今もどっちも好き)、受験勉強を経て早稲田大学に進学。世の中を統治する仕組みづくりに興味があり政治や法律の勉強をしたいと思っていたが、法学部に受かったのでそちらに行く。依然として外国人コンプレックスはあったもののグローバルなことにはそれでも興味があり、国際法のゼミに入る流れに。そこで出会った周りの先輩や同期がアメリカなりヨーロッパなり色んな国に留学したりインターンしたりで、とっても刺激を受けた。なにかマグマのようなものが胸の奥底からドヴァーンって噴き上げてくるものがあり、「おれも海外いきてーべさ!!!」ってなった。純ジャパでも海外に挑戦したりしている人なんかを目の当たりにしたときに、うじうじ外人が苦手とかぶつぶつ言っている自分がしょーもないなと思うようになり、「よし海外に行こう」という心持ちになったわけだ。その時点で大学3年生だったぼくは準備に1年ほど要する留学はあっさりあきらめ、もう少し短いリードタイムで行ける海外インターンにトライすることにした。

辿り着いたのはインドの北にあるチャンディーガルという街。ぼくはそこで目が見えない子供たちに勉強を教えるNGOの仕事を夏休みをまるまる使ってさせていただくことになった。文字が読めない分、ギターを使いながら音で英語を(ついでに日本語も)教えるというものでとても興味深い仕事だった。そして更に面白かったのがぼくが泊まったところだった。このチャンディーガルの街には世界中から大学生が集まってインターンをするような場所になっていて(今はどうなっているんだろうか)、ドイツ、イギリス、アメリカ、香港、韓国、その他色んな国の学生が集まっておんなじ宿に泊まった。週末はみんなでインドの色んなところをバスで旅行してといった感じで、ワイワイと楽しむことが出来た。これに加えてインドにいる間に、自分の専攻(国際法)に関連することで何かやりたいなと思っていたぼくは"人権"をテーマに何かやろうと思い立ち、カースト制度に関するアンケート調査というものを実施することにした。(今考えると完全にアウトな内容なんだけど)当時のインド人の学生がカースト制度についてどのように考えているのかというのにぼくは凄く興味があり、近くにあった小学校・中学校を片っ端から訪れて、質問事項を英語で書いたアンケート用紙を配り回答してもらうということをした。お返しに(なったかはわからないが)、「日本の大学生活では普段こういうことをやっているよん」というようなプレゼンをパワポでしたら、図らずも先生や生徒がキャーキャー発狂するほど喜んでくれて嬉しかった。おそらく日本人などほぼ訪れることのない土地柄を踏まえると、宇宙人とのファーストコンタクトのような形で受け入れられたのだろう笑。なにはともあれ、際どいテーマにも関わらず、アンケートの回答は約500人から得ることが出来た。日本に持ち帰り回答済みのアンケート用紙を一枚一枚読んでいき考察のようなものをまとめた。その後そのレポートを大学の広報誌みたいなものに運よく載せてもらうことが出来たときには、初めて一仕事を成し遂げたような妙な達成感があった。このたかが一夏の経験によって、ぼくの中で何かが目覚めてしまい「海外でもっと勝負してー!」と思うようになった。

その夏を過ぎた先に待っていたのは就職活動だ。「もっと海外インターンしてー!」という本心を押し込めながら、リクルートスーツを身にまとって行う就活は、まあなんというかテンションが下がるものだった。それなりに準備をして海外に行けそうな商社などを数社受けたものの箸にも棒にも引っ掛からず、「なんか違うな」と思ったぼくはその時点で就活をやめて大学を半年間休学することに。その間ぼくはまた海外インターンに挑むことにし、巡り会ったのはグリーンサンというベトナムはホーチミンにあるスタートアップ企業だった。日本に留学経験があり日本語も得意だったベトナム人が作ったこの会社は、日本からのオフショア開発(人件費の安い海外の会社に開発を委託してコストを浮かす)を主な事業としていた。日本から来るお客さんの接待みたいなことをしつつ、社員の日本語教育を担当するというのがぼくに任された役目だった。小さいビルのひとフロアで30人ぐらいのベトナム人がデスクトップパソコンと睨めっこしながら仕事をしているような職場で、いわゆる当時のスタートアップといえばこんな感じだよね、という雰囲気だった。みんなとっても若くて(25歳前後だったと思う)平日は学ランのようなスーツのようなユニフォーム?みたいのを着て懸命に仕事をしながら、週末には半袖半パンでみんなでバイクをぶんぶん乗り回しながら旅行するというなかなかわんぱくな感じだった笑。見方によれば大学生が真面目なサークル活動をしているようなこの職場でぼくが最も感銘を受けたのは、ソフトウェア開発についてだった。インターン中に一緒に仕事をしていたチームに「なにを開発しているの?」と聞いてみたところ、それは天気予報アプリであるという。よくよく聞いてみると、なんとそれは日本の多くのスマホにインストールされているアプリで、技術に疎いぼくでさえ知っているものだった。

この自分と同じぐらいの年齢の人たちが作っているものを日本の老若男女問わず多くの方が使っている(自分も含めて!)ということに、ぼくは結構な衝撃を受けた。"若くてもアイディアや技術があれば世の中の役に立つプロダクトを作れる"という発見がぼくを大いに興奮させた。時は2011年。その時期はスティーブ・ジョブズが亡くなり世代交代のようなものが進んでいて、若い世代のアメリカの起業家がFacebookなりTwitterなりを国をまたぐプラットフォームとして押し広げていたころで、日本でもどんどんユーザが増えているような状況だった(ぜんぜん友達でもないのにFecebook上でやたら友達申請をしたりされたりしたわけである。きっと連絡することはないと分かっていても、ただただ使いたかったわけだ)。やたら"ソーシャル"や"アプリ"という言葉が飛び交うような時代だったと記憶している。それまでピンと来ていなかった自分も、このベトナムでの経験を経て"テクノロジーが持つダイナミックさ"みたいなものにやられてしまい、テクノロジーの世界に引き込まれていくことになる。そしてどんな勘違いか知らないが、「自分もいつかそういう世界のプラットフォームを作る側に立ちたいな」と直感的に決意し、「おらさ、アメリカいくだ」という心算になった。

とはいえアメリカの大学を出ているわけでもエンジニアとしての学位があるわけでもないぼくにとって、いきなりアメリカで働くということはさすがに無理があった。ビザの問題だってある。そこで日本に帰国してからはまず修行も兼ねてテクノロジー企業の中でもスタートアップ・ベンチャーで働きたいなと思い、Goodfindというサイトを使いながら色んな企業の説明会なりインターンなりに参加した。このGoodfindというサイトはなかなか素晴らしく、日本の選りすぐりのベンチャーと学生を引き合わせるというサービスで、ぼくが就職するフリービットもこのサイト経由で知った。この時点では「アメリカに行く手立てはゆくゆく見つけていこう」と切り替えて、とにもかくにも勢いのあるかっちょいいベンチャーに入りたかった。それまで技術とは無縁だったぼくは「インターネットの基礎を学びたいな」という気持ちがありインターネットインフラ(その上に乗っかるアプリケーションではなく、インターネット通信の方)を扱うフリービットというベンチャーに就職した。経営者の石田宏樹さんや酒井穣さんが尖りまくっていて、めちゃくちゃカッコいいなと思ったぼくはこの企業に吸い寄せられ、2012年9月に入社することとなった。

フリービット

今でこそ東証一部に上場して立派な大企業の一つに入るであろうフリービットだが、ぼくが入社した当時は雑誌なんかでも「イケイケのベンチャー企業!」という枠で取り上げられていたことを記憶している。そんな勢いのある会社で、ぼくはとっても大変だけど面白い仕事の数々を任せてもらうこととなった。子会社のCOOのもとでアシスタント業務をするということから始まり、その後にシーンとして盛り上がってくる"格安スマホ"の新規事業を立ち上げたり、SIMカード (スマホに入っているカードで契約者情報なんかが登録されている)のデータ分析をしたり解約率を下げる施策をしたりといった具合だ。興味深いプロジェクトにたくさん恵まれたわけだが、なかでものちのち凄く役に立ったなということがいくつかある。一つはプログラミングを業務の一環でやらせてくれたことだ。とても優秀なエンジニアに囲まれていた環境だったので、みんなに手取り足取り教えてもらいながら、データベースからSIMカードに関するデータを抽出して分析用に加工するプログラムをPythonなんかを使って作った。それまで技術とは程遠いことしかしてこなかった自分にとって、どのようにソフトウェアを動かすかを学ぶ貴重な機会になったことは言うまでもない。加えて役に立ったのが、プロダクトマネージャー的な仕事をさせてもらったことだ。肩書きこそプロダクトマネージャーではなかったものの、エンジニアがものを作れるようにプロダクトの要件定義をしたりリリース後に効果測定をしたりといったこともやった。そして更に最高だったのが技術のロードマップを作るという仕事だった。これは今から3-5年ぐらいの間でどのような技術が現れ、付随してどのような新しいビジネスが勃興してくるかといった時代の潮流を先読みする試みだった。ひたすらネット記事を拾って情報収集するわけだが、例えば半導体がどのように進化していくかだったり通信技術(3G・LTE・5Gみたいなやつ)がどのように変化するかだったりを見通すことで、今後スマホがどういう風に改良されていくかが分かる。iPhoneがそういった技術を先取りしながらいかに他のスマホのスタンダードを作っていったか、そして他の企業がそれをいかに早くコピーしていったか、そんな流れが時系列を俯瞰することで見えてくるというものだった。言うまでもないことだけど、これらが事業立案やプロダクト開発の指針の一つとして役立った(ときっと信じている)わけである。ある程度のテクノロジーの規模ならR&D (研究・開発)部門などでこういったことは普通に行われていると思うが、ぼくにとっては目新しくテクノロジーの世界にまた一つ引き込まれるきっかけとなった。

ぼくがフリービットにいた3年半の間に学んだことは間違いなく今アマゾンのプロダクトマネージャーとしての仕事に生きまくっている。その意味でめちゃくちゃ貴重な経験をさせてくださった経営陣やその時の上司の方にはとてつもなく感謝している。じゃあなんでそんな職場を後にしたかというと、それは詰まるところ「グローバルなプロダクトマネージメントがやりたい」ということに尽きる。ぼくがフリービット時代に感じていたのは、「なんで世界中のインフラになるようなプロダクトがある一方で、日本に留まるようなプロダクトがあるのだろうか?その違いって一体なんだろうか?」ということだった。これはぼくがお世話になった会社への批判でもなんでもなくて、ぼくが歩んできた道のりから来る純粋な疑問だった。その疑問は時が経つにつれて、まるでぺたんこに萎んでいた気球にぼぉっと火が灯ってみるみるうちに膨れ上がり、今にも空を飛び立ちそうな状態になっていた。そのままの勢いでシリコンバレーやシアトルにひゅーって飛んでいってGoogleやAmazonなどの本社に就職できればよかったんだけど、そこまで都合よく人生はうまく運ばないもので(これについてはまた別記事でもう少し掘り下げて書きたいと思う)ぼくはアマゾンの日本支社であるアマゾンジャパンに縁があって転職することとなった。

アマゾンジャパン

ぼくがアマゾンで働くモチベーションは今も昔も変わらない。それは「グローバルなプロダクトマネージメントがしたい」だ。そんなわけで必然的にプロダクトマネージャーという役職で入社したかったのが、思い通りに行かないものだ。外資系の転職エージェントにお世話になりながら転職活動に励んでいたわけだけど、希望の職種はなんですかと問われたので迷わずプロダクトマネージャーっす!とお願いしたものの、返ってきた返事は残念なものだった。「ポジションはあるにはあるみたいなんですが、福原さんの経歴だとまだまだ経験が足りなくて難しそうです〜。」とのことで、簡単にいうと門前払いだった。もっとシニアな人を求めている模様。0.3秒ほどしょんぼりしたわけだけど、すかさずエージェントがフォローしてくれた。「代わりと言っちゃなんですが、WEBディレクターのポジションなら空いているみたいなんですけどどうします?」と聞かれ、正直なところ「うーん」っと頭をひねった。ただとっさの判断で「興味あります。受けます。」という返事をしている自分がいた。それは入社後も部署やポジションを積極的に変えることができるという話をちらっと聞いていたので、そこにかけてみようという気になったからだ。この時点で「しゃかりき頑張って、いつかプロダクトマネージャーになってゆくゆくはアメリカ本社に行くぞ!」って思ってた。そんなこんなでぼくは面接を突破し、目黒のオフィスで働き始めることとなる。

すこぶる運が良かったのは、ぼくが大好きな楽器・音響機器の部署に配属されたことだ。アマゾンは本・食品・家電などなどあらゆるカテゴリーを扱っているわけだけど、そのカテゴリー毎にチームがある構成になっている。楽器・音響機器は家電部門の中ではとても小さな部署だったけど、ギターが好きで音楽がないと生きていけないような自分にとっては文句のつけようがなかった。ぼくの仕事は担当メーカー・ベンダーのニーズを聞いてアマゾン上でマーケティング施策、例えば広告を売ったりサイト上での露出施策をしたりといったことを推進するというものだ。KORG・Fender・Denonといったぼくが今でも(そしてもちろん今後も)大好きなメーカーを担当させてもらったことは何よりも幸運なことだった。その本業に加えて、ぼくがもう一つ精力的にやっていたことがあった。それはセールのお手伝い業務というものだった。アマゾンではPrime Day (プライムデー)などの会社をあげたセールイベントをやっていることはご存知の方もいるかも知れないが、もちろんあのような大きなイベントをやるためには部門を超えての協力が必要となる。サイト周り(セール会場のページを作ったりそこへの導線を作ったり)でヘルプが必要という募集が社内であり、ぼくは真っ先に手をあげた。というのもアマゾンで働く理由にも関連するわけだけど、このアマゾンという大きな仕組みを横串で見渡せるいい機会だというのは明快だったし、そういうところを学びたいと思っていたからだ。そんな流れでぼくはプライムデー、サイバーマンデー、ブラックフライデー、そして日本独自のセールイベントである「Amazonタイムセール祭り」の立ち上げに尽力した。それまでベンチャーの環境で育ってきた自分にとって、多種多様なカテゴリーを跨いだこれらの壮大なプロジェクトはおもしろくって仕方なかった。好き好んで朝7時から夜11時ぐらいまで働き、それはまるで文化祭の準備にウキウキと取り組むティーンネージャーのような感じだったと思う。

そして転機は訪れる。セールのお手伝いばかりしていたぼくは、セールイベントを担当するチームから声をかけてもらうことに。なんと用意されたポジションはプロダクトマネージャーだという。Connecting the dotsとはよく言ったもので、なにがどう未来につながるかなんて分からないものだ。将来どう役立つかを考えすぎるのではなく、直感で”これ頑張ったほうがいいよね!”ということは全力でやるモンだなという学びになった。それはさておき、ぼくはそのご紹介をありがたく受け、JP (Japan) Deals & Events teamという部署に異動することとなる。それまではあくまでも他部署からのお手伝い(の割にはガッツリやってたけど)という立場だったわけだが、今度は先頭立ってセールイベントを指揮することになった。アマゾンジャパンのあらゆる部署、それは 商品のカテゴリー部門はもちろんのこと、出品者チーム、物流、カスタマーサービス、リーガル(法務)、マーケティング、デザイン、そしてありとあらゆるプログラムチーム(アマゾンプライム、アマゾンミュージックおまけにプライムビデオなどなど)に指示を出さないといけない。役職も下っ端のぼくが自分よりも一回り上の人たちに動いてもらわないといけなかったわけだけど、これがまあしんどかったのは言うまでもない。ただ周りから言わせると「ウキウキ楽しそうにやってたよ?」とのことで笑(それでも色々と苦労はあったのだけど)、ぼくにドーパミンのごとくやる気を注入してくれたことがいくつかあったのは事実だ。その一つはプロダクト開発。ぼくはチームの一員として最初から最後までイベントのリードという業務はやっていたわけだけど、日本にいる開発チームと新しいプロダクトを作る機会に恵まれた。開発したのはセール会場のページやそこで使用するバナー(グラフィック)を自動で生成するアプリケーションだ。ここでフリービット時代の経験が生きてくる。要件定義や進捗管理、はたまた効果測定にレポーティングと開発に必要なことはくまなくやるわけだ。このプロダクト開発の経験は「そうそう、こういうことがやりたかったんだよね」という確かな手応えを覚えるものだった。一方で開発にのめり込めば込むほど、日本支社では作れないものもたくさんあり、そんな限界も同時に見えてくる。そこで浮き上がってくるのは、そうアメリカ本社だ。

いよいよ、その時が来る。アメリカ本社に移籍することを本気で意識したのは2021年3月ごろ。その時既にアマゾンジャパンに入社してから5年の月日が立っていた。仕事でアメリカ本社の人と仕事をすることもよくあり成長は実感していたものの、相変わらず外国人へのコンプレックスはあったし英語だってぜんぜん完璧だったわけではない。それでも「行くぞ」という覚悟だけはなぜかこのとき決まっていた。ぼくはその当時シアトルから日本に来ていたアメリカ人のマネージャーのもとで働いていた。前々から話はしていたけれど、改めてアメリカに行きたい旨を1対1のミーティングで伝えたところ「うむ、シアトル来いよ!」「おーアメリカできっと会おうな!」なんて男の会話をした (少年ジャンプ的なノリである)。その時はぼくのアメリカ移籍へのボルテージは頂点に達していた。なのにうまく行かない。海外支社からアメリカ本社に転籍するには、通常の採用プロセスと同様に面接を突破する必要がある。ぼくはアメリカ本社のプロダクトマネージャーのポジションで空いているところをリストアップし、その中から興味があるポジションの採用マネージャーにコンタクトを取り始めた。だがしかし、これがなかなか取り合ってもらえない。「うーん、もっと技術に強い人が欲しいんだよねー」とか「〇〇の業界のことを知っている人だといいんだけどー」といったレスポンスばかり返ってくる。日本支社とはいえそれなりに力を尽くしてきたにも関わらず、面接にも辿り着けないという現実は厳しかった。このままだともう数年修行が必要なんだろうなと思い始めていた矢先、あることに気がついた。ぼくはこのアメリカに行くタイミングでセール以外の別の分野に挑戦したいという欲が出ていた。今となってはそりゃそうだよという話なんだが、この気づきから自分の知見が生かせそうなところに焦点を置くことにし、セールのプロダクトを開発しているアメリカのチームにチャンスを伺うことにした。日本のセールチームで働いていた時からこのアメリカ本社の開発チームとはよく連携を取っており、一緒に仕事をしたプロジェクトもいくつかあった。ぼくはそのことを思い出し、その中で出会ったいちばんすごいなと思うプロダクトマネージャーに連絡を取ってみることにした(その彼女がゆくゆくぼくのマネージャーになるわけなんだけど)。事前にチームの空きポジションを見てみたけど残念ながら空席はない。もうダメもとで、ということでメールを送りつけた。アメリカ本社でプロダクトマネージメントをしたいこと、日本での経験がきっと役立つであろうということを包み隠さずに書いた。返ってきたのは「ちょうどいいタイミングに連絡してきたね!今から新しいポジションをあけるんだけど興味ある?」という一言だった。人生に何回かある、また目が覚める感覚だった。ぼくは即座に「もちろん」と回答した。あれよあれよという間に面接がスケジュールされた。

やっとつかんだチャンスだった(だんだんスラムダンクみたいになってきたぞ笑)。ぼくはそれから面接までの期間、土日をフルに使って面接対策をした。想定質問と想定問答を用意し、繰り返し練習した。文字通り何度もなんども。そして臨んだ面接。相手はアメリカのチームのプロダクトマネージャーとソフトウェア・ディベロップメント・マネージャーの5人だった。何人か知っているメンツはいたものの、面接は真剣そのものだった。ぼくは用意したエピソードを確かな熱量を持って話した。毎回面接を終える前には「これだけは言わせてほしいねん。ずっとアメリカに行きたかったさかい。せやからチャンス与えてくれへんか!?」ともちろん関西弁ではなかったけれど、気持ちだけは浪花節な感じで熱弁した。そして迎えた2021年12月28日。ぼくはきっとこの日のことを一生忘れないだろう。面接のフォローアップということで採用マネージャーが設定してくれたミーティングで待っていたのは、ぼくが長年待ち望んでいた言葉だった。

おめでとう。一緒に働こうよ。

ぼくは泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただただそのチャンスに感謝していることを伝えた。コールを終えて、ぼくは真っ先に両親と兄貴に電話した。電話越しでも透けて見えるようにニンマリ笑っているのが分かった。家族との長電話を終えると、ぼくはなんだかいたたまれない気持ちになり、家を飛び出し行き先かまわずわけもなく走った。走るしかなかったといえよう。

そして今ぼくはここにいる。このよく分からない巨大なオブジェの前で、何を考えるでもなくただぼーっと立ち尽くしている。

これでこの話は終わり。じっくり読んでくださった方も、ひゅっひゅっと飛ばし飛ばし読んでくださった方も、こんな長い文章に最後までお付き合いいただきありがとうございます。この記事がこれからアメリカ就職を目指す方やそうじゃない方にとっても、なにかインスピレーションを与えられるようなことがあれば、作者冥利に尽きるというやつです。それではどうも。お疲れたまねぎでした!


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