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ほめるのに比較はいらない

今振り返って思うことがある。それはぼくはまあまあ小説を読むことが好きだったということだ。「病弱で小さい頃は本ばかり読んでました」とか「みんなが校庭でサッカーをして走り回る中、教室で一人静かに本を読んでました」なんてことはない。ただぼくなりのペースで、コツコツと、小説を読んできたなーという実感がある。アイデンティティーを形成する重要な要素として「ぼくは読書家です!」と声高々に言えるほどではないけれど、「まあ、それなりに好きだったな」としみじみ思うようなレベルだ。

中高でもぼちぼちだったけど、特に本を読んでたのは大学生の時だった気がする。その当時好きだったのは吉本ばななさん、村上龍さん、山崎ナオコーラさん、とかとか。そして兄がお芝居をやっていた影響もあって劇作家の小説や戯曲もよく読んでいた。野田秀樹さん、松尾スズキさん、前田司郎さん、本谷有希子さん、などなど。

その中でもとりわけ好んで読んでいた作家がいた。絲山秋子さんだ。デビュー作の『イッツ・オンリー・トーク』はうつ病を患った自称画家の女性が、勃たない衆議院候補者や心はまともな?痴漢たちと織りなす不穏なストーリーだ。軽快なようでいて片足を少しだけ引きずったような独特な文体に引き込まれ、キャラの濃い登場人物には溜め息交じりに感情移入をしてしまう。最後のシーンでキング・クリムゾンの歌が鳴りながら「It's only talk (ただのムダ話さ!)」と喝破してしまうところなんかは鳥肌ものでカッコよすぎる。もう読んだのは随分と前だから細かい話の顛末は覚えてないけれど、読み終えた後の「なんだこれは!?」というような奇妙な感慨はよく覚えている。

このほかにも芥川賞を受賞した『沖で待つ』や傷ついた大人たちの孤独が沁みる『海の仙人』などどれも印象深く心に残っている。ぼくが青年から大人へと移行する過程で出会ったこれらの作品は、ぼくの心のポケットの中で今でもほかほかと温まっている。そんな気がする。

Wikipediaを見てみると‥

そんなこんなをある時ふと思い出した。そして「絲山秋子さんは今どうしているのかな?」とも思った (そんな昔の友達じゃないんだからって気はするけどまあそれはさておき)。

Googleで「絲山秋子」と検索してみる。すると驚くことはない、たくさんの情報が出てくる。その中でWikipediaのリンクがあったので開いてみる。

ばあーっと経歴なんかを斜め読みして「ふむふむ」と頷く。そして"評価"という項目があったので自然な流れでさっと目を通す。そこにはこう書かれていた。

文庫版『海の仙人』の後書きを手掛けた文芸評論家福田和也は『SPA!』2008年10月21日号の坪内祐三との連載対談で、『ばかもの』を絶賛して、絲山が村上春樹を駆逐する存在になるのではないか、と評した

Wikipediaより。太字は筆者(ぼく)によるもの。

正直に言おう。ぼくはこの項目を読んで吐き気がした。特に"絲山が村上春樹を駆逐する存在になるのではないか"という部分に。

「なんて趣味のわるいほめ方なんだろう」と思った。なんでわざわざ村上春樹さんを貶す必要がここであるんだろうか?ぼくはそう思う。

ちなみにぼくは村上春樹さんの側についてるとかそういうことではない。なんなら村上春樹さんの小説は読んだことがない (そんなことはこちらの記事で書いたけれども)。

そう、だからこれが村上龍さんであれ、アーネスト・ヘミングウェイであれ、ガルシア・マルケスであれ、変わらない。ぼくが気に掛かるのはその褒め方にこそある。

比較することで失われる価値

人間が分かる (つまり理解する)ためには"分ける"という作業がどうしても必要になる。"ブルー"という色を理解するためにはそれが"イエロー"や"グリーン"とは違うものとして分ける必要があるし、"バナナ"を理解するためには"リンゴ"や"洋梨"と区別する必要がある。そして世界をスパスパと切り分けて知覚するために言葉というものがあるわけだ。

そこから後続する作業として"比較をする"ということも当然出てくるのは納得できる。「"バナナ"にはこういう特色があって、対して"リンゴ"にはこれとあれが特徴で…」という具合に。そしてもちろんこの比較は日常空間に存在するすべてのものに対して行うことができるわけだ。それは言うまでもなくスポーツや芸術といったものまでも当然含む。「大谷選手はイチローと比べて…」とか「YUKIは好きだけどMISIAは好みじゃないな〜」なんて会話は日常茶飯事だろう。

ただここで注意をしないといけないことがあると思う。「ほんとにその比較って必要なんだろうか?」ということだ。

例えばバナナの甘みを感じるためにはバナナを味わって食べて心の中で感じるものを観察すればいい。「マフッとした歯応えやドロッとした舌触りが食べ応えを効果的に演出してるな」とか「このバナナの皮を剥いて食べるという工程自体がコミカルで面白いな」とか。そのバナナの味を理解するために、わざわざリンゴを食べて「あーバナナと違ってシャリッとした歯応えで酸味の効いた酸っぱさがあるな」とか思う必要はそんなにないんじゃないかと思う。

よくよく考えると当たり前なんだけど、資本主義社会ではそんな"比較をしたくなるトラップ"だらけだったりする。仕事でも売上や利益を報告するには昨対比や前週比を使うことが正しいとされている。はたまた人事評価でも比較は大活躍する。「先週の売上は好調でして昨対比+30%、前週比+20%でした」とか「タナカさんはハシモトさんと比べて仕事が速い」とか。

比較をすることは一方を特定の枠内に押し込めることを意味する。ある意味で、比較された方は否が応でも基準化されることで無価値となる。昨対比+30%というとき昨年の価値はただのモノサシへと変わり、ハシモトさんはタナカさんとの比較のもと低い位置へと落とし込められる。

ただ、去年には去年の、あの人はあの人なりの価値があるんじゃないか。去年には「あーあの商品が売れたな」とか「ハシモトさんが最後の追い込みでしゃかりき頑張ってくれたんだよな」とか感慨があったんじゃなかろうか。すべてのものは比較を必要とせずとも、それぞれの価値とストーリーを持っている。その意味で受け手がそれをどう汲み取るかにかかっているように思うのだ。

あなたの大事な人をほめたいとき、もしくは大切な作品をほめたいとき。「誰かと比べて〜」とか「あの作品と比べて〜」というのは必ずしも必要ではないんじゃないか。そんな比較の誘惑に勝たないといけない場面も少なからずあるはずだ。


先ほどの"絲山が村上春樹を駆逐する存在になるのではないか"という言葉に戻る。

ぼくはこう思う。そんなことを言ったって絲山さんの凄さが分かりやすくなるなんてことはないし、誰も嬉しくもないはずだ、と。きっと村上さんはもちろん、絲山さんもこう評されてガッツポーズをすることはないんじゃないかと思う。ほめるときに比較はときとして不必要なだけではなく、誰かを傷つけさえすると思う。


…うーん、一体なんでぼくはこんなに怒っているのだろうか (笑)。まあでも資本主義のトラップに対するぼくのささやかな抵抗なのです。



ぼくの頭の中もこの絵のようにカオスです

今日はそんなところですね。旅で訪れたニューヨークにて。Moma (ニューヨーク近代美術館)でジャクソン・ポラックの絵を眺めながら。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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