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ニュースってなんやねん -オーストラリアの毒グモの話と-

ぼくは小学校1~3年生ぐらいまでの時間をオーストラリアのシドニーというところで過ごした。ぼくは最初に現地の学校に通うこととなったけれど、アジア人差別にあったことで馴染めず、方向転換して日本人学校に通っていた。それについては細かくこちらの記事に書きましたけれど。

日本人学校というのは海外に住む日本人のお子さんが通う場所だ。シドニーという場所にあるからといって、日本人学校である限り教室の光景は日本のそれとさして変わらなかった。ひとクラスに大体20-30人ぐらいの生徒が所狭しと机を並べて授業を受けるわけだ。

授業の形式も変わらない。そして朝礼という行事もそっくりそのままそこにはあった。

ある日のことだった。それは朝礼でのことだった。

担任の先生(これまた日本人)がいつも通りガラガラと教室のドアを開けて入ってくる。先生が教壇に立つ。生徒たちは行儀良く起立して挨拶をする。先生は40歳ぐらいの中年の男性だった。

挨拶を終えると「それでは朝礼を始めます」と言って先生は生徒に向かってボソボソとこう話をした。そう、それも限りなく事務的に。

えー今日は残念なお知らせがあります。みんな教室をいつもキレイにしてくれているお掃除係の人がいます。

昨夜、そのうちの一人の方が死んでしまいました。掃除をしていたら毒グモに噛まれてしまったんです。本当に残念ですね。

みなさん、くれぐれも毒グモには注意しましょう。


「注意しましょう」ってなんだよ。そんなこと言われても。


そう幼心に思ったものだ。

今思い返してみると一体みんなどういう気持ちで聞いていたんだろうと思ってしまう(笑)。ぼくは幼かったとはいえ「なんだこの話」って思ったことをよく覚えている。そう言い放って「じゃあみんな国語の教科書を開いてください」と言った先生を見て狂気すら感じてしまった。



でもこれを思い出してなぜだか分からないけれど考えたことがあった。

ニュースってそういうものかもしれないんじゃないか?ということである。「殺人事件があった」とか「隣町で火事があった」とか「レッサーパンダが立った」とか言われてもどうすりゃいいの?って思ってしまう。

一体それを伝えてあなたやわたしにどうしてもらいたいの?そう聞き返したくなる情報で溢れている気がする。

もちろんニュースの中でもとても大事で情報を含んでいるものはある。地震の速報だったりは速く正確に、そして幅広く大衆に伝えられるべきものであろう。政治に関することだってそうだ。なんでもかんでもニュースが悪いと噛み付くつもりはない。

でも報道って結構目的がふわっとしているなと思う。今も昔も「知ったところでどうしようもない」という情報ばかりが提供されている気がする。もちろん情報というネタを提供してお金を稼ぐという資本主義的な文脈での役割はあるけれど。そしてこの「あんまり意味のない情報の流布」をインターネットが不可逆的に加速させてしまったことは周知の事実だろう。

そういった情報の洪水がなかった時代は心も頭もスッキリしてたのかななんて思ってしまう。

そしてこう思う。もうインターネットがなかった時代には戻れないのだよなーとも。

そうするとこの現代にどうやって心と頭のスッキリを守るのか?と案じてしまう。マインドフルネスも瞑想もいいけど、それでもあのインターネット以前の時代にはやっぱり戻れないんだよなーと思う。しみじみ。

ぼくの帰り道

今日はそんなところですね。仕事帰りにシアトルのダウンタウンを歩きながら。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!


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