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やりたいことにさからえないわ

JUDY AND MARYが解散した後、ボーカルのYUKIさんはソロでの活動を本格化させる。その2枚目のアルバムが『commune』だ。

ぼくがこのアルバムを聴いたのはちょうど高校一年生ぐらいの時だった。なんでもかんでも楽しいという少年期から、憂いというものが影を刺す青年期へと移行するその過渡期だった。ぼくは学校から家に帰ると部屋に閉じこもりベッドに横になりながら小さなCDコンポでこのアルバムを擦り切れるまで聴いた。

「70's」と「SLOW」というのがテーマになっているのも頷けるほど、全体を通して音は少しフルボケていて、それでいてやけに優しく心の深い部分に沁み渡る。ノスタルジックなピアノとアコーステックギターの旋律から始まる『SWELLS ON THE EARTH』という曲を聴いただけでパッと世界は暗転し、自分がこのアルバムが持つパーソナルな物語の一部になっていることに気付く。グランジっぽい『泣きそうだ』で青春を感じるエモさにやられ、『ロックンロールスター』を聴く頃には心の中で泣きじゃくっている自分がいる。『Good times』と『ストロベリー』なんかは暗がりの部屋でジトジトと降る雨を窓越しに眺めながら聴きたいし、『コミュニケーション』を聴き終える頃にはポケットいっぱいの勇気を握りしめて街のどこかでだれかと話したくなる。

この『commune』はYUKIさんが発売したCDアルバムにおいては最も売れ行きが芳しくなかったみたいだ。まあそれも納得できるかもしれない。3枚目以降のアルバムに通底するガーリッシュで可愛い感じや踊りたしたくなるような溌剌 (はつらつ) としたエナジーのようなものはこのアルバムにはない。それどころか少しセンチメンタルな内容で、そこにあるのはだれにも見せたくないノートを一人でひっそりと読み返しているような体験だ。「あんなこともあったな」とくよくよと思い起こしながら「よし、ちょっとエネルギー充電できたかな」と思い立って現実世界へと戻る。とても個人的で、だからこそ大事にしたいアルバムだ。

きっとYUKIさんはそんなこんなは分かったうえで「やりたいことをとことんやろう」という気持ちがあったんじゃないかと思う。そしてその試みはひょっとしたら大衆には刺さらなかったのかもしれないけれど、特定の人にはきっと深く突き刺さっているんだと思う。ぼくもそのうちの一人だ。

やりたいことにさからえない

この『commune』というアルバムに大好きな曲がある。それは『スタンドアップ!シスター』という曲だ。

アコースティックで削ぎ落とされたシンプルなサウンド。その上に優しく、されどソウルフルに立ち上がるYUKIさんの歌声。聴いているだけで深く癒され、お腹の底から静かにふつふつと元気が出てくる。

この曲の中で忘れられない歌詞がある。それがこちら。

枕のフリル 海鳴りの夢
幼き日々は あのままで
お金だけでは 満たされないわ
やりたいことに さからえないわ

YUKI 『スタンドアップ!シスター』

最初にこの歌詞を聴いたときに「はっ」としたことをよく覚えている。率直でいて耳に残るフレーズ。

最後の2行、特に"やりたいことにさからえないわ"という言葉はとても力強く、奥深く心に刺さって抜けない。大人になる過程で、そしてキャリアを積む中で、この言葉をときたま思い起こした。そしてその度に深く頷きながら「そうなんだよなぁ」としみじみ思う自分がいる。

やりたいことってさからえないと思うのです。「今は時間がないから」とか「もう少し準備をしてから」とか理由をつけて回避したり先延ばしにすることはできる。それでも一度心に引っ掛かるとどうしても離れない。これは「ラーメン食べたい」みたいな小さなものから、「海外留学したい」といった大きなレベルまで一様に通じるものだと思う。

ぼくの場合はアメリカで働くことがまさにそうだった。改めて自分が一番最初に書いたNote (以下の記事) をざっと読み返すと、なんなら最初からアメリカに行くことは決まっていてその結果に吸い込まれるようにしてぼくの学生・社会人生活が形作られたとすら思える。そう、文字通り"さからえなかった"のである。

そう言えば2023年のM-1で決勝に進んだ芸人が高学歴で話題になったという話を聞いた (真空ジェシカの川北さん、令和ロマンの髙比良くるまさん、松井ケムリさんは慶應大学卒業か中退)。「なんで凄い大学に行ったのに芸人になるんだろう?」と口にする人はまだまだいるんだろう。細かい事情はぜんぜん知らないけれど、おそらくこれも「やりたいことにさからえられない」ということに行き着くんじゃないかと思う。周りがどう言おうが、やりたいことに導かれていってしまうものだと思う。だから実はぜんぜん不思議じゃないことなのだ。

どんな回り道をしようと、言い訳をしようと、やりたいことが持つ抗えない魅力に惹きつけられてしまう。それに正直になってやってみるか、やらずに後悔するか。もちろんトライしたところで必ず結果が伴うわけではないのが厳しいところだけど。

"やりたいこと"というのはそういう意味ではキラキラしたものというよりは人生について回る"厄"のようにも思えるから興味深い。

やりたくないことはやっぱりやらない

最近つくづく思うのです。この逆も然りだなと。逆というのはつまり「やりたくないことはやっぱりやらない」ということだ。

「起業したい!」と豪語していたのに永遠とサラリーマンを続ける人。「海外に住みたいんだよね〜」と口癖のように言うけれど旅行ですら海外に行かない人。「あたしはあの人と一緒にいて幸せ」と自分自身に常々言い聞かせて結婚したのにやっぱり離婚してしまった人。

たとえ理屈で自分の考えや行動をねじ込めようとしても、本心ではやりたくないと思っている。そしてカラダはちゃんとそれを知っている。だから"やりたくないこと"に対しては自然と大事な一歩が踏み出せない、もしくは踏み出したとしてもその先が続かないようになっている。

ぼく自身もぜんぜん例外ではない。ぼくはよく「自分でプロダクトを開発して起業したい」と言ってきた。そして実際にプロダクトの設計書を書いたり、プログラミングを勉強したりとしたアクションを取ってきた。

でもぜんぜん起業しない。その代わりに釣りに行ったり、旅行に行ったり、飲みに行ったりしてるではないか。なんだか書いていて情けなくなってきたが、本心ではそういう娯楽の方がとてもワクワクするし勝手にカラダがそっちの方向に動き出すのだ。

もちろん今後どうなるかは分からない。自分でプロダクトを一から作ることは実際にやりたいことではあるからやるとは思う。でも自分にとっては優先順位が低かったのだ。そう認めざるを得ない。

人間はおもしろさの奴隷

食欲、性欲、金欲、所有欲、名誉欲…。人は欲深いものものでこうした欲望にいとも簡単に左右されてしまう。今も昔もそんな姿は変わらないし、なんならグローバル化が進んで資本主義社会がもっともっと加速すれば人間の欲は暴走の一途を辿ることになるかもしれない。

だけどここに一つの希望がある。それは人間を突き動かすものの重要な切り札として"おもしろさ"があるということだ。

以前上記の記事でも紹介したけれど、ぼくは20代前半で聞いた「人間はおもしろさの奴隷である」という言葉にぶっ飛んだ。この言葉によって"おもしろそう"と思う自分の心を羅針盤としてキャリアを、そして人生を歩むことを大いに勇気づけられた。今やこの言葉はぼくの生き方の中核にあると言っていい。ぼくにとってはインドでカースト制度のアンケート調査をしたことが、大学でベトナムのスタートアップで働いたことが、渋谷のベンチャー企業に新卒入社したことが、アマゾンに入ったことが、そしてアメリカに来たことはすべて"おもしろさ"に従った結果なのだった。

目標や夢に向かって頑張るのではない。ただ「おもしろさ」に従っていく。そうこうしているうちに自然と人生という道が出来ていく。そんな生き方にぼくは魅了される。

そうそう、これを書いていて気付いたことがある。「人間はおもしろさの奴隷」と「やりたいことにさからえないわ」というのはほぼ同じことを言ってますね。なんでこのテーマに自分が惹きつけられるのか。それを今後の研究テーマにしてみようと思います。

シカゴのリンカーン・パークにて。

今日はそんなところですね。街を描く人、それを撮影する人、そしてそれを撮影するぼくという構図。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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