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願いの先、苦しみの果て。

「意楽(いぎょう)は妄執(もうしゅう)なり」 一遍

心から願うことは、その願いに囚われているということ、らしい。

願うこと自体が束縛を生み、願えば叶うまで自分自身を苦しめる。願いが叶ったところで、また次の願いを欲してしまう。一遍上人らしい極端な捉え方だけど、わかる気がする。「南無阿弥陀仏と唱えれば、信仰にかかわらずその人は救われる」という究極的な彼の教えをなぞれば、「願う」という「希望ある行為」で先々の変化や維持に期待してしまうよりも、「唱える」という「目の前の単純な行為」だけに執着することで、唱えている「今という瞬間」を大切に思え、結果救われる、とでも言っているように思える。

去年は、人生に於いて断トツに一番最悪な一年だった。そしてこれからもその苦しみと悲しみを引き連れて生きていくことになるだろう。耐え難い日々が続いていくのだろう。その渦中で僕は、当然、散々、願い続けていた。

「この苦しみから、悲しみから、開放してください!」

「もとに戻してください!」

「救ってください!」

願えば願うほど、苦しみと悲しみは肥大してゆく。決して叶わない願いというのは悲惨で残酷なものだ。しかも、誰とも共有できないので尚更孤独なものである。一切皆苦を体現しながら生きている。と言いつつ、ここにこうやって長文を書いていることそのものが、無意識にも願っていることになってたりする。「誰か助けて」という願い。だがやはり、虚しくも叶わず引き続き一切皆苦の日々を送り続けている。

だから、意楽(いぎょう)はもう懲り懲りなのだ。

とはいえ、そんな悲観的な意見を述べたままでいいとは思っていない。これからもこの命を続けていかねばならないのだから、せめて最期の瞬間には、悪くなかったと言えるような人生でありたいとは思う。(まぁ、これも願いか。)叶おうが叶わまいがどちらでもいい。いずれにせよ僕が決めることではない。なぜなら、人生は願って叶うものではないからだ。そして僕にとって願うことはもう懲り懲りなのだ。願い疲れて朽ち果てている心が、僕の胸の中で鎮座している。

そうしているうち、僕の心はいつの間にか「他力本願」にシフトチェンジしていた。どっかの神様か仏様が「すべての生きとし生けるものを救わずにはいられない」と言っているそうで、人々は自らの強い願いや慈悲のはたらきをアウトソーシングすること、つまり「他力本願」と云う方法を編み出す。だからもう、僕の願いについてはすべてどっかの神様か仏様におまかせして、自分はただ目の前のことを淡々とやるだけでいい。そう思うようにした。「一切皆苦」とはいえ、やらねばならないことが結構あるのだ。日頃の仕事はもちろん、夕飯の準備、銀行の振り込み、この間買った本を読むこと、友人からの頼まれごと、趣味の陶芸や素描、録画した映像の視聴、ジョギング、などなど。

「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな、この世は巡礼である」    

「人間はみな同じような状態にいるんだ、まぬがれることのできない、生と死のあいだで、ぎりぎりの所で生きている」

これら山本周五郎の言葉は以前から知っていたが、身を以てその本当の意味を知ることになった。「この世は巡礼」「ぎりぎりのところで生きている」こうまで言い切ってもらうと、なんとなくだが潔く苦しみを受け入れられそうで、少しだけ創造的な生活が送れそうな気がした。

絆創膏を思い出した。絆創膏の「創」は「傷」という意味がある。「傷をつなぎ止めておく油薬」が絆創膏。傷が深ければ深いほど、より創造的なのかなと、拡大解釈としてそう思った。

どれだけ苦しんでいても、悲しんでいても、やらなきゃいけないことがある。「願い」を「祈り」に代えて、やることをやろう。

すべては、形ある行動にある。そんな気がする。




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