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2001年 アフガニスタン取材記①  「9.11」テロから日本出発まで


2001年に起きた「9.11アメリカ同時多発テロ事件」。
あの日、ワールドトレードセンタービル崩壊の衝撃的な映像と恐怖が世界中に拡散し、1ヶ月後にはアメリカと有志連合諸国がアフガニスタンに対して軍事作戦を開始した。
そして11月13日、半ば鎖国状態の中で厳格なイスラム法の行政を行なっていた同国のタリバン政権は首都のカブールが陥落し崩壊同様となった。
その二日後、私たちはアフガニスタンを目指して慌ただしく日本を出発した。
本文章はずっとパソコンのフォルダー奥に保存されてた取材手記を、改めて構成し直して公開しているシリーズになります。




「9.11」当日、そして翌日

2001年9月11日、関東地方に台風が近づいていた。
遅い夏休みで前日から那須に滞在していた私たち家族は、万一帰りの電車が止まってしまったら大変だと判断した私たちは、昼過ぎに東京に戻ってきていた。
散々の旅行になったので気晴らしに外で食事をしようと、一家で自転車で隅田川の河川敷沿いの公園に出ると、台風一過の澄んだ空一面がオレンジ色に輝いていた。こんな見事な夕焼け珍しいなあと持参していたデジカメで数枚写真を撮った。
自宅に戻った私は何気なくテレビをつけると、NHKで煙の上がる高層ビルの中継映像が映し出されていた。
「貿易センタービルが火事?こりゃ大変だ!」
とっさにそう思ったが事態は違った。
解説を聞いてみると飛行機が飛び込んだのだという。事故の起きたニューヨークの支局は大変だろうなぁとか、そんな事がありえるのだろうかと考えながら、事の成り行きを心配しながら見ていた。
 暫くして黒い小さな飛行物体近づいて来るのが見えた。取材のヘリコプターだとばかり思っていた。ところが飛んできた小さな物体はそのまま貿易センタービルのもう一つの建物に衝突し、大きな火柱が上がった。目の前で起きた現実の大事故の映像に、つきなみだが私は心臓が止まるようなショックを受けた。
その後、ワシントンのペンタゴンにも同様に飛行機が突っ込み、行方不明の旅客機が多数ある事、そして貿易センタービルがあっけなく崩落してしまった事。この晩、常識や想像を超えた現実が次々と続いたことは、皆さんのご記憶の中にもきっと鮮明に残っているはずだ。
 私はあの日の見事な夕焼け、そして夜テレビで見た同時テロ事件の映像は今も忘れることはない。

9月11日怖いほど真っ赤に染まった夕焼け

当然の事ながら、貿易センタービルに2機目の飛行機が突っ込んだ直後に会社に電話を入れた。電話口の周りから聞こえてくる騒がしいノイズから容易に社内が大混乱になっている事が解った。宿直の映像デスクは現段階での出社は考えなくても良いので、後で再度連絡欲しいとだけ言い、一方的に電話を切られてしまった。

 翌日、朝から何クルーもニューヨークに向けて出発する準備が始まっていたが、夏休み返上で出社した私は朝から外務省の玄関に一日釘付けとなり、田中真紀子大臣らの出入りを記録し続けた。残念ながら初動体制でニューヨークの現場に向かうクルーには選ばれなかった。

9月12日の外務省玄関エントランス

その後の国際情勢と報道取材

余りにも大きな被害と犠牲者。更なるテロへの不安や国際情勢。
当然ながらテロ直後はアメリカのニューヨークを中心としたテロ取材が大きく展開されメインとなっていた。
東京からも多くの取材班がアメリカに入っていた。
暫くしてテロの主峰者として名前が挙げられたのがイスラム原理主義の過激派グループ・アルカイダのリーダーであるオサマ・ビンラディンだった。
アメリカではビンラディン対する非難の声が高まり、同時に彼を囲まっているとしてタリバン政権下のアフガニスタン情勢が怪しくなってきた。
 アメリカ軍を中心とした部隊がアフガニスタンへの攻撃を始めるために隣国やインド洋に展開し始めた。そしてアメリカがアフガニスタンのタリバン政府に出したビンラディンの引き渡し要求をタリバンが拒否した結果、アメリカの軍事攻撃は避けられなくなってきた。
 こんな動きから取材ターゲットは自然とアメリカからアフガニスタンに向いてきた。
各国のマスコミ取材陣は有事の際を見越してアフガニスタンへの取材体制造りに入ったが、実質的な鎖国状態であったタリバン政権下のアフガニスタンへのアプローチは大変難しかった。唯一タリバン政権を承認していた数少ない国の一つが隣国のパキスタンであり、アフガニスタンへの国境が開かれていた。その上タリバン政権の大使館もイスラマバードに開設されていたのでパキスタンの首都イスラマバード中心に取材クルーが投入されはじめた。
この時点ではイスラマバードが情報収集と取材の最前線地になっていた。

そして10月7日にとうとうアメリカ主導の軍事攻撃が始まった。
それからは連日空爆の様子や、戦況情報が報道され続けた。想像していた通りアメリカ側の一方的な優勢のうちにアフガニスタンの北部からアメリカ軍側の支配エリアとなってきた。これには元々国土の90%以上を制圧していたタリバン政権が唯一支配出来てなかった北方エリアで反タリバンのゲリラ活動をしていたグループ「北部同盟」の力も大きかった。
アメリカ軍の支援を受けた北部同盟の進撃は目覚ましく、あっという間に首都カブールの北側まで最前線が南下してきた。
欧米や日本でも他社などは、北部同盟の最前線近くまで取材班が入っての取材をしているところもあったが、我社は取材クルーのアフガニスタン投入には慎重路線でいた。アフガニスタン国内に入っていたのは、北部タジキスタン共和国からほんの少し国境を入ったホジャマファウディンという小さな町のみで、ここからアフガニスタンの状況をレポートしていた。
 パキスタン側はというと、逆に劣勢に陥った親タリバンだったこともあり、国境は封鎖されていた。仮に国境を無理に越えて入ったとしても、陸路は著しく治安の悪いエリアが続くので、取材班をアフガニスタン側に送り込むことは現実的には難しい状況となっていた。

急遽、アフガニスタンのカブールを目指す事に

この段階になって、ずっと日本で取材を続けていた私にも、やっとアフガン取材の候補として声がかかった。
11月17日出発でパキスタンのイスラマバード入りして、現在パキスタンで取材中のクルーと交代する予定だった。
10月後半にパキスタンのビザを取得し、11月9日にインドのビザも取得。これはいざという時に退路をいくつも想定しておく意味があった。カブールは陥落したもののタリバン政権はアフガニスタン南部で未だ未だ交戦中であった。万が一の際にインドに逃げ込む事も考えての取得だった。

パキスタン(左)とインド(右)のビザ

ところが、大方の予想を越える北部同盟の大進撃で首都カブールが11月13日に陥落してしまった。
その為に状況が大きく変わった。それまで続けてきたパキスタン側での周辺取材の意味があまりなくなってしまい、取材の主戦場は鎖国状態の中、厳格なイスラム教行政にあった「謎の街」カブールに絞られた。
13日夜、自宅に帰電話が入り翌々日の11月15日に出発を早め、報道番組のクルーとして陥落したカブール入りを目指す事になった。
翌14日は出張機材の準備と情報収集に一日追われた。
目的地がどんな状況になっているか判らない為、クルー全員分の寝袋や懐中電灯、非常食の調達もしなければならなくなった。
驚くことに陥落翌日だというのに既に現地カブールには欧米のファシリティ(衛星を使った中継システム)が立ち上がっていて、回線さえ押さえれば素材VTRの伝送や生中継も可能になっていた。現地に簡易編集機を持ち込めば何とかなるとの見通しもたった。
現在のスマホでも綺麗な動画が何処からでも送れる時代ではなく、当時は普及し始めた携帯電話はほぼ通話専用。放送で耐えうる動画素材を送るためには、フライアウェイという可搬型の通信衛星の地上局装置が必要だった。当時は映像の電送を請け負う「衛星電送業者」が我先に僻地での紛争地で店開きしていた。

カブールのホテル屋上のフライアウェイ


そしてカブールまでのアプローチも決まった。アメリカ軍の援護で首都カブールを陥落した北部同盟と取材前線本部があるパキスタン政府とは関係が悪く、パキスタンからカブールに入る正式ルートは、この段階では確立されてなかった。(タリバンに拘束された日本人フリージャーナリストのように不法入国を除けばであるが)
北部同盟側をずっと支援してきて、北部同盟側の大使館(アフガニスタン・イスラム国)も開いているタジキスタン共和国経由で入るのが一番と判断された。その為に15日に出発してヨーロッパ経由で一度トルコに入り、そこからタジキスタンを目指すことになった。



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