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2001年 アフガニスタン取材記②  不安を抱えて日本出発〜タジキスタンへ


2001年に起きた「9.11アメリカ同時多発テロ事件」。
あの日、ワールドトレードセンタービル崩壊の衝撃的な映像と恐怖が世界中に拡散した。
1ヶ月後、アメリカと有志連合諸国はテロの首謀者ウサマ・ビン・ラディンを囲まうアフガニスタンに対して軍事作戦を開始。
そして11月13日、半ば鎖国状態の中で厳格なイスラム法の行政を行なっていた同国のタリバン政権は首都のカブールが陥落し崩壊同様となった。
その二日後、私たちはアフガニスタンを目指して慌ただしく日本を出発した。
本文章はずっとパソコンのフォルダー奥に保存されてた取材手記を、改めて構成し直して公開しているシリーズになります。



2001年11月15日(木) 日本ーイスタンブール(トルコ)移動

9時出発だったが7時に出社した。
昨夜、同行するSディレクターから連絡が入り、急遽タジキスタンにプレスカード申請用のスタッフの顔写真をインターネットで送る事が必要になった。その作業のための早めの出社だった。
 タジキスタン共和国の首都ドシャンベでアフガニスタン取材の後方支援をしているモスクワ支局記者からの情報によると、タジキスタンのプレスカードを手に入れないと次の作業(アフガニスタン入りの手続きなど)がいっさい出来ない。タジキスタンの外務省と話をしたら、申請書はファクスで受けたもので大丈夫。申請時に必要な顔写真は外務省の担当者宛に画像ファイルをe-mailで送っても受理してくれるのだそうだ。
ソビエト連邦から10年前に独立したばかりのお国の役所としては、随分と進んだ事をやっている。
 まず申請書を記入してドゥシャンベ滞在中のN記者の滞在しているホテルにファクスで送る。続いてスタッフ4名分の写真をスキャナーでパソコンに取り込んで、300dpiの解像度で3x4センチになる様に加工。N良記者から聞いたタジキスタンの外務省担当者のメールアドレスに「xxx.jpg is FUKU's face」などという頼りないキャプションと共に画像ファイルを添付して送信。一寸心配だったが、これで現地入りしてから手続きがはかどると思えば簡単な作業である。
(この当時は、顔写真のスキャンも会社でないと出来ない時代でした)

また昨夕(カブール陥落2日目)、タジキスタンのドシャンベで待機していたパリ支局のS記者と東京から行ったAカメラマンの二人が、北部同盟のヘリになかば強引に同乗して見事カブール入りを果たしていた。私たちのクルーもドシャンベからは同じルートを取る予定である。
出発直前に、カブールに入ったAカメラマンから映像部に電話が入り直接話ができた。
インターコンチネンタルホテルにベースを作ったものの、部屋は電気のみで水、現地の電話は全く機能して無い言う。
現地からの電話は持参していた携帯用のインマル電話を使ってだった。街中は意外にも平穏で市場では殆どの物が手に入るなど、これから現地入りする予定の私たちにとって貴重な情報が得られた。

通常の海外出張の3倍くらいの機材

9時、大量の機材と共に社を出発した。10時半に成田空港着。
今回の行き先は戦争真っ直中の国で、クレジットカードは当てにできない。事前に私と助手のH君はドル紙幣を80万円分用意してあったのだが、それでも一寸心配になったので、空港の銀行出張所で改めて20万円分をドルに交換した。
フランクフルト行きANA209便も機内はガラガラだった。恐らく3割ぐらいしか乗客が乗っていないだろう。これはテロ事件の影響がかなり出ているのだろうか。その他、搭乗時に改めてパスポートの提示があったり、機内食のフォーク、ナイフが限りなく柔らかいプラスティック製になっていたり、テロ事件の影響はあちこちに見られた。

ガラガラの機内
柔らかくて食べにくいフォークとナイフ

アームレストを上げてシート3人分を独占して横になることもできた。それでもなかなか寝つかれず、気持ちが晴れない。いつもの海外取材のようにワクワクする興奮ではなく、これから取材に入る決して安全とは言えない場所の事が頭をよぎる。自宅に置いてきた1歳8ヶ月の娘の事などを考えると自分が取った行動がこれで良かったのか悩んだ。
現地時間、同日16時45分にフランクフルト到着。いかにもドイツらしく清潔感があってシャキっとした雰囲気の空港だった。
ロビーで2時間のトランジットの間にSディレクターとYキャスターは早速、日本で借りてきたワールドタイプの携帯電話を取り出してテストも兼ねて本社と連絡を取る。
(当時はガラケーがやっと出回り始めた頃。携帯電話で画像や動画が送れて、そのまま世界でそのまま使える携帯が出るなんて夢にも思わない頃でした。)

レンタルのワールドタイプの携帯をテストするスタッフ

18時30発TK1590便に乗り継ぎ。3時間弱で第一の目的地トルコのイスタンブールに到着した。現地時間23時近くの為かタラップに出ると結構肌寒い。長旅の疲れもやや感じた。

深夜のイスタンブールは肌寒かった

入国審査、通関手続きを済ませて、最初に驚かされたのが通貨の桁数だった。有料カートを借りようとしたら書いてある料金の桁数が多すぎて目が眩み、全く理解でき無い。聞くと1米ドルでも良いそうで、だとしたらレートは幾らになるのだろうか?(ホテルのランドリー料金表にも150万リラとあった。この段階ではまだ現地通貨に両替をしてなかった)
 現地旅行社の通訳さんと合流して用意されたマイクロバスでイスタンブール市内に移動する。車が市内に入ると、古い城跡やモスクがライトアップされていた。さすがに歴史のある町だと実感。かつてオスマントルコ帝国の首都でもあり、長い歴史の中で栄えてきたアジアとヨーロッパの接点の町。興味は尽きないのだが、やはり何とも気が重い。
0時過ぎにやっと新市街にある小さなホテルにチェックイン。早速インターネット接続にトライする。AT&Tの現地アクセスポイントで一発で繋がった。担当部署のHP上で会社への報告、メールチェック、ニュースサイトで最新ニュースの確認をする。ここまでは良いのだが、次のタジキスタンから先はネット利用が難しそうだ。
(当時は有線電話のモジュラージャックをパソコンに繋いでダイヤルアップでインターネットに繋いでましたね。滞在先でのダイヤルアップの電話番号を事前に調べて行きました)

2001年11月16日(金) イスタンブール滞在

時差ぼけのせいか、気が高ぶっているのか、あまり熟睡できず7時には起きてしまった。部屋の小さな窓から外を見ると、どんよりとした低い雲の下に民家が寄り沿って建ち並んでいた。どこか下町風の雰囲気のある町並みだった。
8時に1Fのレンストランで朝食を取って、そのまま朝の散歩に出かけた。新市街といっても町並みは古いヨーロッパ風で何処を見ても楽しいし、何処にカメラを向けても絵になる。また町の人達の愛想が良いのには正直驚いた。カメラを向けているのに気がつくとニコッとして嫌な顔一つしない。トルコのお国柄なのだろうか。


イスタンブールを経由地に選んだのには訳があった。
まずタジキスタン共和国なのだが、日本には大使館がないので第三国のタジキスタン大使館などでビザを取得しなければならない。普通はモスクワでその作業をするのだが、私たちには撮影機材があり、ロシアに入国するとなると今度はロシアのビザが必要になってくる。そんな事を考えてた上、一番最良と考えたのがトルコ経由であった。
私たちの前にアフガニスタン北部に入ったクルーが取った方法なのだが、それはこうだ。トルコはトランジット扱いでビザ無し入国。翌日首都アンカラに行き、タジキスタン大使館で即日ビザを発行してもらう。翌日タジキスタンに向けて出発。
私たちも同じつもりでイスタンブール入りしてきた。本来は今日首都アンカラに出向かなくてはならなかったのだが、直前に実はそれが必要なくなった。
ドシャンベのN記者から情報が入り、アフガニスタン入りを目指した各国のメディア関係者のビザ申請に根を上げたタジキスタン政府が、ビザ無しでの入国を認めたのだという。正確には、入国した際に空港で外務省職員が臨時ビザをその場で発給してくれる事になった。
そんな訳で実はこの日にやる作業が無くなってしまったのだ。
飛行機は明日まで無いので、どうすることも出来ない。日本やイスラマバードの前線基地と連絡や情報交換などをしても、午後から少し空いた時間が取れたので駆け足でトプカプ宮殿、ブルーモスク、地下宮殿、アヤソフィアなどを見学。かつて繁栄したオスマントルコ帝国の壮大さがうかがえた。

トプカプ宮殿
ブルーモスクの荘厳な内部

宮殿の一番奥からボスポラス海峡がひらける。大きな貨物船、客船がひっきりなしに行き交う。昔、教科書で何度も勉強した有名な海峡を初めて見る事が出来た。対岸はアジアサイド。ヨーロッパの突端だと実感。
 早くからアラビア文字を捨て、洋服着用など西欧化を図ったこのトルコもイスラムの国という意味ではアフガニスタンやパキスタンと同じ。しかも今日からあの断食月のラマダンに入った。現地コーディネーターも昼間は食事ができず、一寸大変そうだった。
夕方インマル衛星電話のテストとインマルを使ったデータ通信のテスト。電話を南側が開けた窓際に置いて、ケースのフタと兼用になっているアンテナを南に向けると、思ったより簡単にセットアップできて日本と通話ができた。しかしパソコンを使ったデータ通信は失敗。2400bpsまでしか対応してないのでインターネット接続は難しいのか。

2001年11月17日(土) タジキスタンへ移動

時差ぼけ解消せず6時起床。昨日の日記書きやインターネット接続をする。7時過ぎ朝食を取って9時前に町の散歩に出る。
タクシム広場からトラム沿いにガラタ橋まで一気に下った。古い町並みと石畳の雰囲気が心地よい。ガラタ橋の上では土曜日と言うこともあって大勢の市民が釣り糸をたれていた。対岸のモスクを背景に釣り人の写真を撮った。橋を渡ってエジプトバザールを見たが観光客向けではなく地味な市場だった。

朝から橋の上に大勢の釣り人が

時間が少し余ったのでホテルの裏側の住宅地に足をのばした。急坂に小さな集合住宅がびっしりと列んでいる。坂道は途中に階段があって自動車すら通れない道も多く、往来する人たちが見え隠れした。どの家の窓からも洗濯物がいっぱいついた物干し竿が縦に出されているのが面白い。
 中から人の気配がするお店に目がとまった。曇ってすすけた窓から中を覗くと中はどうやら喫茶店で大勢の客がトランプに興じていた。窓越しに中を見ていたら、そんな客の一人に手招きされた。一寸躊躇したが恐る恐る古びたドアを開けてみた。一斉に常連さん達はこの珍しい客を見つけると一様に驚いたが、次の瞬間暖かい視線を送ってくれた。中に入ると手招きした男の隣に強引に座らされて、彼は私にチャイ(小さなガラスカップに入った濃い目の紅茶)をご馳走してくれた。片言の英語で彼らとやり取りし、「日本人」「仕事」という私の言葉に「ほーっ」と大きなリアクションをしてくれた。隣の男は私がぶら下げてるカメラを見て「でもカメラはドイツ製だな」というと、また一斉に笑いが起きた。常連さんたちは滅多に入ってこない珍しい客を楽しんでいるようだった。

Leica CL + CANON35mm/F2


13時ホテルチェックアウト。タジキスタン行きの飛行機は深夜発であった。時間がたっぷりあるので、機材を満載したまま有名なグランドバザールに立ち寄った。巨大なアーケード街で、行けども行けども組んだ通路が続いていた。朝行ったエジプトバザールとは違って高級品や観光客向けのおみやげ屋が多い。これからアフガニスタンに入ろうというときにおみやげを買う気持ちにもなれず、ぶらぶらと歩き回るだけだった。


今日、タジキスタンに出発する空港は一般的なイスタンブールの国際空港・アタチュルク空港とは違って、アジアサイドにある東欧向けの飛行場だという。ありがたい事に有名なボスポラス海峡を渡る訳だ。
 高速道路を走り、ボスポラス大橋を渡ってアジアサイドに移動する。細身でスマートな釣り橋は遠くから見ても、実際渡って近くから見ても美しい。丁度、橋の下を大きなタンカーが通り抜けるところだった。

橋の向こうがアジアサイド
ボスポラス海峡

18時、空港到着。真新しいターミナルはできたばっかりの様だが、夜は中央アジア向けに3便があるだけでロビーは静まり返っていた。おまけにエアコンを切ってあるらしく、ロビーで座っていると寒さがこたえた。Yキャスター差し入れのビールを飲んでも体が温まらない。20時半やっとチェックインでき、2階のレストランを利用出来るようになった。

アジアサイドにある国際空港

軽食を取っていたら、到着した飛行機の客がドヤドヤと空港ロビーに降ろされてきた。見ると殆どがトランジットチケットをもらっている。カメラやオーディを機材を持ってる客も結構いた。目的地はどうやら私たちと同じ様だった。
Sディレクターの顔見知りのテレビ朝日の記者がいて、Sさんは挨拶がてら情報収集をしてきた。彼らが乗ってきたのはタジキスタンエアーのミュンヘン発ここイスタンブール経由ドシャンベ行きだそうで、ミュンヘンではタジキスタンのビザが即日交付されるという。
 この時降りてきたトランジットの大勢のマスコミ人達は、私たちの便の30分前出発(23時半)のTGK122便で行ってしまい、イスタンブールでチェックインした乗客だけが23時45分発のTGK124に搭乗となった。バスで機体の前に移動すると意外と見た目には立派な飛行機だった。エンジンが尾翼に3つついている恐らくはソ連製の中型機(後で聞いたらTU154型だと言われた)でたった40人ぐらいでのフライトは楽勝と思えたが現実は厳しかった。

シートナンバーの枠に「free」と書かれた搭乗券

搭乗券の座席の記入欄に手書きでFREEと書かれているため、客はともかく我先にと機内に入り座席を確保して行く。しかも何故か前後のシートに座った客が無愛想なスチュワーデスさんに追い立てられ、機体の中央部分に集められた。そこだけが寿司積め状態になってしまった。サービスしやすくする為に客を一カ所に集めたとしか思えなかった。そんな中、幸い私と助手のH部君は3列席の両サイドに座り、真中にカメラを置いて他の客を寄せつけない事に成功した。

機内に乗ったとき一寸見たトイレは黒く汚れ、とても入りたい雰囲気でなかったし、シートもヘタってガタついていた。日本の感覚ではお客を乗せて飛ぶ機体とは思えない飛行機だった。23時45分、ガタつく滑走路から大きなエンジン音と共に機体が浮き上がった。これからタジキスタンまで4時間のフライトとなる。乗ってる機体に対する不安よりこの数日の寝不足の疲れの方が勝ったのか、離陸すると直ぐに深い眠りに落ちた。


本シリーズは続きを少しづつアップしていきます。
しばらくお待ちください。


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