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日本中世の古典に学ぶ「推しは推せる時に推せ」の教え

アイドルオタクをやっていると、常日頃耳にする「推しは推せる時に推せ」という言葉。アイドルオタク自身がその言葉を語る場合もあれば、時としてアイドル側が我々がオタクに対して投げかけることもある。

多くの人は、この言葉を「アイドルはいつか卒業する。いつか会いに行こうと思っていると、気づいたらそのアイドルは卒業してしまって会えないことも多い。今推している人がいるのであれば、ぜひ会いに行ってあげるべきである」というような意味で理解しているだろう。

何もなければ「推し」がステージで歌って踊ることが「当たり前」だと思って、特別意識したりしない。しかし、「卒業」ということが発表されるや否や、その「当たり前」は来たる「卒業」の瞬間に向かって特別な意味を持って我々に残酷な現実を突き付けてくる。そのような「卒業」までの「カウントダウン」を受け止める中で、オタクは「アイドル」として活動する「推し」の、ある種の「賞味期限」と対峙し、悲しむことになるのである。そこには「後悔」もあれば、背中を押してあげたいという「応援」の意味も含まれるが、いずれにせよ、「アイドル」を「推す」人々にとって、「推しを推す時間」というのは、決して「無限」に続くものではなく、「有限」であり、極めて「短い」ものであるということが自覚されるのである。

つまるところ、アイドルは「活動」を始めたその瞬間から「卒業」までのカウントダウンを開始したとも解釈できるが、現実問題として、やはり私たちオタクはそのような抗えない、来たる日の「大切なお知らせ」をいつかは受け止めなければならない生き物であると言える。

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かつて、日本の中世期に書かれた古典文学の多くは、「仏教的無常観」という思考様式によってその世界観が色濃く描かれていたわけだが、それはやはり、当時の社会状況に因るところが多かったことは否定できず、人智ではどうしようもできない世界の摂理をどのように受け止め、その上で生きるかを模索した結果の精神形態と言える。

鎌倉時代に成立したとされる軍記物語の代表作『平家物語』の冒頭では、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」と書かれ、絶えず移り変わる世相と「栄えた者も必ず衰退する」という無常の観が謳われている。

また、同じ鎌倉時代に鴨長明が著した『方丈記』では、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」と、随筆ならではの比喩も多用されながら、当時の社会に対する厭世観が格調高く詠まれる。

これらの文学作品を改めて読み返す時、私はこう思う。確かに、『平家物語』や『方丈記』を文学的にきちんと解釈するのであれば、当時の社会状況を理解した上で味わう必要がある。しかし、当該作品で語られる、無常観や厭世観は、実はアイドルの一生とも重なる部分が少なからずあるのではないかということである。

今や、アイドルを取り巻く状況は「戦国時代」と表現されるほど競争の厳しいものになっている中で、毎日新人アイドルがデビューしていく。アイドルも人間であるから、1年に1回歳を取る。あまたのアイドルが経験を積む一方で、若いアイドルもまた同時にたくさん生まれ、市場は飽和の一途をたどっているのである。

決して今のアイドル市場に悲観的な見方をするわけでも、「卒業」のあるアイドルの在り方を嘆くわけでもないが、だからこそ、そのような常に移り変わるフィールドで今日も輝く、そしていつかは「卒業」する「推し」を「今」応援する意味と意義を見出したいと思うのである。

エンタメ界では「流行り廃り」は避けては通れない問題であるし、メディアの食いつきによって話題も常に入れ替わる、文字通り生々しい戦場である。常に移り変わるからどうでもいい、のではなく、同時に「いつかは繁栄も終わるから最初から放置していればいい」というのは、傷つきたくない者の独り言かもしれないが、鎌倉時代を生きた人々も同じように捉えていたのであろうか。

森羅万象は常に移り変わり、栄えた者もいつかは滅びゆく運命にあるという思考様式は、むしろ「今」をどう生きるかをいう大きなテーマを我々に伝えているのではないだろうか。消えていく存在や儚い対象に美しさを感じ取るという独特のセンスは、日本人の得意とするところだが、それは決して「消えていく」「儚い」という推移そのものが重要なのではなく、その対象を朽ちる過程の中で捉えた時の受け手の心理的な働きを讃えたものであり、すなわち我々がどう受け止め考えるかが一層重要であると思われる。

中々「当たり前」を普段から意識して捉えることは容易ではない。「当たり前」が「当たり前」ではなくなった時に初めて「当たり前」であることの尊さを実感する。アイドルを推すという行為に、文字通りの「偶像崇拝」的な要素が少しでもあるならば、「有限」の存在である「推し」という花を今この瞬間に愛でることの意味も自ずと浮かび上がる。

「推し」を「推せる時」に「推す」ことは、何も来たる「卒業」に備えて為すべき行動ではない。「推す」行為そのものがオタクからアイドルへの一方通行的な営みであるがゆえ、連続的な「推す」過程の中で、今の「推す」ことを一度考えてみることも大切だろう。

朽ちていく対象の様相に美しさを感じる日本人の感受性を「寂び(さび)」と表現するならば、翻ってそれと向き合う我々の姿勢と態度がどこに向いているのか問うてみても良いのではないだろうか。「推し」を「推せる時」に「推す」ことの儚さは、日本人だからこそ理解できる宝物だろう。

(終)

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