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ガラス越しで電話をする男女に過去の自分が重なった

長い帰省を終え、今日関東に帰ってきた。今年のゴールデンウィークは、家族と一緒にゆっくりと過ごすことができたと思う。母と服を買いに行き、温泉に行き、父の仕事場の山へ行き、祖父母と昔よく行ってた中華屋さんに行った。恒例のバーベキューもした。愛犬の尊さにも癒された。家族の時間を意識的に取ったが、結果とても充実した時間だった。
楽しかった分、帰る時は寂しくなるものだ。何年経っても、何回やってもこの胸がギュッとなる寂しさには慣れない。
帰ろうと思えばいつでも帰れるけど、簡単にはいつでも帰れない。だからこそ、一緒に居られることの愛おしさと儚さを抱きしめたくなる。

両親に見送られて着いた空港。寂しさを反芻しつつも、いつもの日常に向けて気持ちへと切り替えようと、保安検査場を抜け、手始めに職場へのお土産を選んでみる。九州っぽいのが良いか、甘いものかしょっぱいものか…などと商品に目をやる。
ふと顔を挙げると、出発ロビーとの間にあるガラスに向かってスマホを片手に電話をする男の子の姿が目に入る。ガラスとの距離が近くて、なんとなく気になって見入ってしまう。忘れ物でもしたのだろうか?あどけないし、大学生くらいの子だろうか?
と、気づいた。ガラスの向こうに同じくらいの年代の、同じようにスマホを片手にした女の子がいる。あぁ、彼はこの子と電話をしていたのだ。

私の場所からは男の子の後ろ姿と、女の子の表情がよく見える。あどけないその女の子が彼を見つめる目がとても優しくて、愛情がこっちにも伝わってくる。あぁ、きっと2人は特別な関係なんじゃないか、と勝手に想像する。
4月に新生活で地元を離れたけどGWに帰省した彼、また地元を離れる彼女は見送りに来たんじゃないか、とこれまた勝手に想像する。なんだかすごく甘酸っぱいじゃないか。語彙力がないが、青春だ。青春が目の前で繰り広げられている。

それほど経たず手を振り、搭乗口に向かおうとする彼。手を振るのが少し照れくさそうだ。電話口では、元気でね頑張ってね、とか、また帰って来てね帰ってくるね、とか、そんな会話をしているのかな。

また会えるとわかっていても、さよならの寂しさは何回やっても慣れない。だからこそ愛おしさを感じる、それはそうだと思う。
でも初めての別れは、とりわけ、その感情を際立たせたと思う。大学で進学するときに実家を出たとき、愛おしさよりも寂しくて寂しくて、家族にばれないように泣いた。一人暮らしの家で、1人なことをいいことに家が恋しくてまた泣いた。

それに、こと恋愛のような、ある種刹那的な関係にであれば、また会えるという気持ちはそうであってくれという切な願望に近かったように思う。離れた瞬間からこの関係が続くのかという不安と隣り合わせだったようにも思う。でも、自分の居ないところでも相手に健やかで居てほしいと願ったりもした。初めて遠距離恋愛をスタートした、新幹線の駅のホーム。記憶は遠くなったけど、そんな必死な自分がいたことははっきり覚えてる。
彼らはあのときの私と同じような気持ちなのだろうか。いつかの新幹線ホームの私は今日の空港の彼女のように愛しい目をしてたんだらうか。そんなことを考えながら過去に思いを馳せる。

一つ言えることは、そういう感情を味わえることは、一生でそんなにないと思う。歳を重ねた私に同じような出来事が起きたとして、同じ名前の感情は感じても、あの必死さというか熱量というか、心に迫るような感情は感じられないだろう。だからこそ人生は美しい。その中にある一つ一つの2度と訪れない瞬間は美しい。そういう美しさを青春って呼ぶんじゃないか、と思う。

彼女達はこれからどんな道を辿って、どこに行き着くんだろう。それはわからないけど、きっと今日のガラス越しの出来事は、記憶に残るんだろうし、彼らの一部になっていくんじゃないだろうか。

良いな、羨ましいな、と思って、ハッとする。いや、待て待て、羨ましいなんて思ってる暇ないぞ。私だって30歳の人生真っ只中、これから美しい瞬間を積み重ねていくんだ。青春真っ只中だ。、変に年寄りぶったことをちょっと反省して、飛行機に乗り込んだ。

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