最近の読書から。『跳びはねる思考』『レインツリーの国』『暇と退屈の倫理学』

最近の読書から。まとまった文章を書くのが苦手なので、読書感想文ならぬ感散文になります。

ちなみにお正月は、ひたすらワンコとモフモフしてました。

◆東田直樹『跳びはねる思考』

本当は、理想の主人公などいないこともわかっています。僕は生まれたことに感謝し、ありのままの自分でいたいと思う反面、自分では叶えられないような、立派なことができる人に憧れているのです。おわり。(P.88)

わかるなぁ、と思う。カラオケで、歌の主人公になったつもりになると、スムーズに言葉が出るようになるところなんかも。

複数の人におすすめされて読んでみた本は、自閉症患者の感動ストーリー...ではなく、理想と現実のギャップにもがく、ひとりの男性の哲学だった。

ちなみに、読み終えた後、思い出した映画があった。

主役であると自らに言い聞かせ、前に進む東田さん。「脇役たちの国」を通じて、世界と接点を持とうとするオーウェンさん。どちらも、自分にとっては紛れもなくヒーローである。

(オーウェンさんが企画する「ディズニー・クラブ」は、まるで読書会のような楽しい雰囲気。『ぼくと魔法の言葉たち』、素敵なドキュメンタリーです)

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自閉症の方の思考に触れて新鮮だったのは、何よりもその観察力だった。

例えば、もし自分が東田さんをどこかで見かけたら、心のどこかで気になる。関心がないように振る舞っても、視界の端で観察するだろう。でも、一方の東田さんだって、しっかりとこちらを観察しているのだ。

これは、どんな立場の人同士でも当てはまる。ニーチェではないが、誰かの内面を覗きこむ時、自分は覗きこまれているのだ。人は意外なほどに「被観察」に気付けない。

(犬も人のことをよく見ている。ウチのワンコは、ご飯補充もトイレの始末も私にお願いしにくる。きっと頼みやすいのだろう。あと、「わたしが食べるとこ見てて!」と、なぜか食事立会人に任命されます)

◆有川浩『レインツリーの国』

観察といえば、有川浩さんの千里眼はエグい領域だと思う。

登場人物の「そんなに一瞬で色々考えられる!?」とツッコミたくなる他人分析モノローグは強烈。

特に、男性に求めるレベルは高い...気がする。メンタル豆腐な私なぞ、『県庁おもてなし課』の冒頭で、自分が値踏みされているような圧力を感じて体調を崩したほどだ。

(父に借りていたが即返却。当時、就活生だったのがよくなかったのかも)

甘い恋愛ストーリーに定評のある作家だが、それも計算しつくされているからこそ。ファンが多いのも納得です。

そして、個人的に6年ぶりの挑戦となった有川作品は、かつての自分の影が見え隠れする読書になった。

あらすじ紹介は省くが、読後メモを見返すと

「生活していると、一度お互いに傷付いて、心にかさぶたを作って、治る過程で強くなる、っていう経験がなかなかできなくなってる。ネットで知り合った場合は特に」

「みんな摩擦が面倒くさいし、人のせいにしたい。自分に劣等感があれば、なおさら」

と書かれていた。

自分には、主体性を持って人とつながれない時期があった。(今も?)

そもそも

「しばらく会っていない人には悪いイメージを持たれている。先入観ない人との方が、友達になれるはず」

という、今思えばアホすぎる思い込みに支配されていたフシがあった。

だから、気軽と手軽を履き違えた人間関係に手を出し、結局は時間を浪費した。

「合っている」と思った人にはズレていると言われ、無視された。当然だった。自分も、他者を信じる余裕なんて持っていなかった。

目の前の人の繊細さに苛ついたが、それは自分自身を映す鏡でもあった。

そして、あんなに本を読んでいた割には、人を認める、人の為に何かをする姿勢に欠けていた。

台湾のバンドMAYDAYの『Do you ever shine?』の歌詞には

摩擦を避ければ、飼い慣らされるだけ

という一節がある。

ネガティブな感情に飼い慣らされ、他者を拒絶する。伸とひとみも、一歩間違えれば、そんなありふれて残念な例になっていたかもしれない。

幸いにも2人は、お互いの傲慢さに気付き、ひとつの壁を乗り越えることができた。

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そういえば、当社比1.3倍くらい前向きに生きた2019年は、本当にいい年になった。

人との出会いに恵まれ、好きなことで盛り上がれた。読書会という芯を、太くできたのも良かった。

2020年も、自分にとっての『レインツリーの国』をより大きく、楽しくしていきたい。

(そうなのよ。誰に対しても、劣等感を盾に上から目線でいたら、いい関係など築けない。ウチのワンコは、こちらが椅子に座っていると床を鼻で指し、「頭が高い!」とアピールしてくる。またかよ~、と思いつつも寝転がってやると、すかさず耳を噛んでくる。お風呂上がりでも容赦ない。酷いけど、嫌いじゃない)

◆國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

突然ですが、私はけっこう飽きっぽい。

たとえば、行きつけのお店はあるけれど、「いつもの(メニュー)」を頼むことは少ない。むしろ、「何を食べてもいいと思ったら負け」とすら思っている。

ひたすら新商品、期間限定など「今だけ、ここだけ、あなただけ」のものに執着する。イベントも新鮮さを重視。本だって、どちらかと言えば乱読派だ。

そのくらいなら良いけれど、前述のように過剰に新しさを求め、勝手に傷付いた一年もあった。

それは、何故か?薄々気付いていた答えが、以前薦めてもらった本の最後に書かれていた。

なぜか?それはこの苦境が、記憶という傷跡の参照に歯止めをかけるからではないだろうか。逆に言えば、そのような苦境、あるいは精神的な熱中がないと痛み始める、そのような不快さをもたらす記憶というものが存在しているのではないだろうか。(P.427)

自分には、思い出したくない過去ばかりだった。それを打ち消すほど没頭できる今もなかった(趣味の有無、とはまた別の話)。だから「暇」ではないのに「退屈」し続けた。

だから、その何回虚しい結果になろうと、不器用な願望に負けてしまったのだ。

ようやく一昨年の終わりから、周囲の方の助けもあり、自分を落ち着かせてくれる記憶が増えてきた。もう、散漫な人間関係には期待しない。

この本を通読すると、いかに人間が退屈する生き物であるか、よく分かる。人間の絶望は、部屋でじっとしていられないから起こる。なるほど、と思う。

しかし、今年の自分は、部屋から出て絶望したとしても、他人のせいにはしない。その一歩先で、誰かの希望となるために動き続ける。

(と、カッコつけてみましたが、お正月はずっと家でワンコとモフモフしてました)

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