0と1で、すべてをつくる。
ふと気になったことがある。なぜ、標本化や量子化をするのか。それはもちろん、コンピュータの世界では0と1しか認識できないから、アナログをデジタルにするのは当たり前だ。便利になる、都合が良くなる。何一つとして間違ってはいないんだと思う。だが、アナログをデジタルにするのには必ず誤差が生じる。私は、この連続的なデータを、離散的な値にしてしまうのに、なにか違和感を覚える。
日記を書こうとして…
なにか大事なことがあった日や、覚えておきたいHappyなことがあった日、辛くてたくさん泣いた日、私はそのときの感情を詳しく書くのがとても好きだ。紙に、自分の感情をそのまま注ぎ込むように、書いていく。怒っていたら、紙が破れそうなほど強く殴り書き、泣いていたら、読めないほどの字で思いを綴る。あとで見返して、あぁ、こんなこと思っていたな、こんな空気だったな、と紙の匂いを嗅いだり、字にこもる雰囲気を感じ取る。
やっぱ物の記憶っていいな。と思う。
パソコンで日記を書くこともある。だが、やっぱ物足りない。なにを思っていたのか、全く分からない。なぜだろう。
この連続的と離散的という言葉が、頭から離れない。私の日記にはなにか連続的なものがあるのだろう。
話が変わるが、人は生き物だ。連続する生態系の循環のなかで、きっといつか死んでいく。人は、連続的な生き物だ。生まれては死ぬ。その連続した生きている時間こそが生であって、だから決して人間は0と1で表されない。きっと。そうであると望む。
すべてが機械化し、ネットワークに接続される社会。もはや0と1の集合体でないものは存在しないんじゃないかってぐらい。そんな世の中で、この世界の連続的なものに思いを寄せる...
うーーん....
--------編集後記--------
ずいぶんと迷ったことを書いてしまってすみません。こんなにアナログが好きだーーとか書いているのに、実は私、コンピューター好きでして、今プログラミングを絶賛勉強中です。あ、全然始めたばっかなのですが、今度大会があるので頑張ります。