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短篇小説「おばかさん」  第2回『花束と東京タワー』(白木 朋子)

 新宿から快速に乗り、遙の住む笹塚が近づいてくると、遠くの夕暮れに東京タワーが小さく見えた。僕はあの一瞬の東京タワーが好きだ。近くから見上げてその迫力を全身で浴びるよりも、流れる景色の中に瞬間現れて消える、あのささやかな発見が僕にとっての東京タワーだ。
 僕の立つ、タワーとは反対側のドアが開き、大勢の客が笹塚で下車した。それにつられるようにいつもの癖で降りそうになるのを踏みとどまって、元いたドアの方へ戻った。窓から見える緑道の桜はまだ咲いていない。
 先週、三月になって最初の日曜日の夜に、二人で遙のマンションへ帰る途中、あの桜のふくらみを見た。細い枝にふっくらとした蕾が点点とついていた。
「ここは毎年早咲きなのよね」
「早熟な子だなあ」
 そう言う僕をじろりと見た後、遙は口先を小さく上げて笑い、ゆっくりと歩き出した。  
 僕はしばらく、ひとり先を行く遙の後ろ姿を見ていた。
 遙は桜が好きだ。そうはっきりと聞いたことはないけれど、桜の木を見上げる遙を見ていれば分かる。
 僕が来ていないことに気がついて、遙はやっと立ち止まり、僕の方へ振り返った。春に生まれて、はるかと名付けられた。いつも僕の先を行って、そして僕を待っている。
 
 快速列車が次の停車駅をアナウンスした。倚りかかっていた手すりから背中を起こし、僕はスーツの襟や袖口を正した。
「スーツを着ない仕事ってだけで、俺たちは恵まれてるよな」
 と言っていたのは、僕より少し早く退職をした、二人の子を持つ先輩だ。
 僕たちの目の前の歩道を、スーツとネクタイの群れが大汗を拭いながら行き交っていた。
 契約している大学のエレベーターに不具合が起き、二人で修理に出向いた帰りの車内だった。夏の盛りで、冷房を効かせた僕たちの車は大通りの交差点で信号待ちをしていた。助手席に座る先輩は、制服である青色のつなぎを上半身だけ脱いで、中に着ている白いティーシャツの袖を片腕だけまくって煙草を吸った。僕も一本もらい、胸のボタンをいくつか外した。
 歩道の隅で、電話をしているスーツ姿の男が見えた。僕と同じ、三十代半ば程に見えるその男は、右手に携帯、左手に書類を握りしめ、何度も頭を下げて、何かを必死に訴えていた。そして、突然その場にひざまずき、書類を道に広げ、電話を左に持ち替えてスーツの内ポケットからペンを取り、素早く書類に走らせた。その間にも何度も頭を下げ、頷いたり、困った顔をしたりした。隣の先輩を見ると、彼も同じ男を見ていた。
「夏休みは、家族で旅行とか行くんですか?」
「ああ、今年は軽井沢。奥さんが人気のコテージ予約してて。二年待ちだよ、二年待ち。その間に子ども一人増えてるってのな。まあ車で行けるし、あいつも久しぶりにゆっくりできるかなと思って。ちびが小さいうちは、旅行は車に限るぞ。どんなに騒いでも、箱に入れちゃえばなんとかなるから」
 信号が変わり、僕はアクセルを踏んだ。バックミラー越しに見た歩道の男は、まだ道にひざまずいていた。

 仕事は、していません、遙さんが以前に派遣社員として来てくれていたメンテナンス会社は、少し前に辞めました、リストラというのではないですが、はい、色々とありまして、現在きゅうしょく中です、あ、きゅうしょくのきゅうは、休むじゃなくて求めるの方です、念のため。
 そう話して、初めてお会いする遙のご両親は納得なさるだろうか、なさらないだろう。隣で聞く遙に居づらい思いをさせないだろうか、させるだろう。今日、三十一歳の誕生日を迎えた遙。
 僕はほんとうに遙と結婚できるのだろうか。

 遙はいつも、時間より、そして僕よりも早く待ち合わせ場所に到着している。僕が遙を見つけた時、彼女が文庫本を開いていたり、イヤフォンで音楽を聴いていたりしたことは一度もない。ただそこに立っている。僕が来るのを待っている。それが嬉しくて、たまに少し苦しい。
 改札の外で遙を見つけた。遙はいつもの紺色のオーバーコートを着て、両手をポケットに入れて立っていた。そして、僕を見るとぱっと手を出して、右手を上げて大きく振った。初めて見た僕のスーツ姿に少し驚いているようだった。
 この街で遙は大学を卒業するまで暮らしていた。
「ここの餃子は人気があって、いつも夕方前には売り切れちゃうんだ。ほら今日も、もうないでしょ。あと、あの先も餃子。あそこはお店で食べれる。まあまあおいしい。もうちょっと行くと、チェーンの餃子屋さんもあるんだ」
 遙の地元案内は何故か全て餃子に集約されていた。
 十五分くらい歩いて、僕たちは遙の実家のマンションに着いた。玄関の前で遙は僕の正面に立ち、ネクタイを慎重に整えてくれた。

 お父さんはタルタルで、お母さんと弟の泰晴くんは犬のマークの定番ソース。
「大原さんは、とんかつは何で召し上がりますか」
 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、お父さんが僕に訊いた。それまでの僕は、ダイニングテーブルの椅子に案内されるがまま腰掛けて、でも何か手伝えないかとたまに立ってみたり、箸置きから落ちそうになっている遙の箸を直してみたりして過ごしていた。
「私と同じ、でしょう?」
 遙が、台所の棚から塩とペッパーミルを取って僕に見せた。
「あら、いいのよ合わせなくても」
「マスタードとかもありますよ」
 茶碗にごはんをよそうお母さんと、それを受け取る泰晴くんが顔を出した。冷蔵庫のお父さん、棚の遙、ガス台のお母さんと泰晴くん。四人が四人とも全く顔が被らずに僕の方を見て、僕は黒澤明のワンショットみたいだと思った。僕も元々、遙と同じ塩と胡椒派だ。
 お父さんに勧められて、僕はビールグラスを傾けた。
「少しにしてあげてね、最近飲んでなかったから」
 遙が自分のグラスにビールを注ぎながらお父さんに言った。
 仕事を辞めてから、僕は一切酒を飲んでいない。ということになっている。これが、僕が遙についた初めての嘘だ。
 台所から泰晴くんがお盆に乗せたごはんと蛤の吸い物を持ってきて、僕の前に置いた。蛤のいい香りがした。
「少し過ぎちゃったけど、まだ出してるの」
 台所から出てきたお母さんが、飾り棚に並ぶ雛人形を指して言った。素朴だけど端正な、うつくしい雛だった。
「大原さん、初めまして。いや、ゆくゆくのために、あゆむさんと呼んだ方がいいのかな。まあともかく、ようこそいらっしゃいました。そして遙、お誕生日おめでとう」
 おめでとう、と皆んなで言って、僕たちは乾杯をした。遙と酒を飲むのはとても久しぶりだった。お母さんの揚げたとんかつは、素晴らしくおいしかった。遙の言っていた通りだ。
 二杯目のビールは泰晴くんが注いでくれた。泰晴くんは仏文科の三年生で、春休みの今は沿線のレストランでアルバイトをしたり、学科に三人しかいない(泰晴くん曰く、「俺以外皆んな変わってる」)男子で銭湯やサウナめぐりをしたりしているそうで、そろそろ就活しなさいよ、とすでに日本酒へ移行している遙に睨まれていた。

 食後、僕は食器を少しずつまとめて流しへ運んだ。洗うのは遙が、拭くのは泰晴くんと僕が手分けした。初めて招かれた家で、それも男性の僕が台所に入ったりしたらお母さんは嫌がるんじゃないかと思ったけれど、最初、試しに空いたグラスを持っていくと、台所でコーヒーを淹れていたお母さんが、
「ありがとう、助かるわ」
 と言って明るく笑った。僕は自分のつまらない思案を恥じた。
 その後、コーヒーと僕の持ってきたケーキを皆んなで囲んだ。新宿のデパートで五種類のケーキを選ぶのは楽しかった。四つは自分で、一つは店員の紳士に推薦されたものに決めた。僕は紳士に聞いた通り、一つ一つのケーキについて皆んなに説明をした。
 お父さんとお母さんは、それぞれが選んだオペラとレアチーズケーキを少しずつ分け合って食べた。
「チーズの中の、この赤いのは何だろう」
「カシスよ。さっきあゆむさんが言ってたじゃない」
 泰晴くんはクリームのたっぷり挟まったシュークリームを片手で頬張った。
「あゆむ、っていい名前ですね」
「そうかな」
「名前に歩くっていう字の入ってる人は、自分の意志を持って、いい人生を送れる。そんな気がします」
「だといいけど」
「今、いい人生って聞いてどんな人生を想像しました?」
 僕はすぐに答えられなかった。手の大きいその青年は、いたずらをした子どものような目で僕を見ていた。僕たちは今度一緒にサウナへ行く約束をした。
 ピスタチオのムースを食べながら、僕はご両親からかつて旅をした様々な街の話を聞いた。
 冬の北海道を一周して、二人とも東京へ帰るやいなや風邪で寝込んだこと、返還前の香港で胃がはち切れそうになるまで飲茶を食べたこと、バンコクの屋台でラーメンに入っていた名前の知らない薬味がとてもおいしく、東京に帰っていくら探しても見つからなかったけれど、何年か前にそれが香菜(パクチー)だったと分かって二人で懐かしがったこと。
 僕は、遙とまだ旅行をしたことがない。付き合って四年になるけれど、遙も僕も電車で遠出をしたり、飛行機に乗ったりするのがあまり好きではない。これも遙からはっきりと聞いたことはないけれど。でもその時、僕はいつか遙と出かける様々な旅を思った。二人で行くものもあれば、子どもを連れて行くものもある。車で行ける場所でなくても構わない。僕たちはおそらく車を持たないだろう。それに、箱に入れちゃえば云々、というのも僕にはどうも分からない。
「タイの屋台なんて、お母さんよく食べたね。そういうの苦手なのに」
 遙がショートケーキの苺を食べながら言った。
「あら平気よ。若いうちはそんなこと気にしないの。あなたたちも行ってみなさい、あの匂いを嗅いだらきっと屋台で食べたくなるから」
 遙はそっと僕を見て、目で「いいね」と言った。僕も目だけで頷いた。
 遙は来月から新しい派遣先へ行くことが決まっている。
「テレオペなんて、ねえちゃんに絶対向いてないじゃん」
 僕は心の中で泰晴くんに同意した。
「しょうがないでしょ、お世話になってる営業の人にどうしてもって頼まれたんだから。若い子だと一回クレーム対応しただけで出社拒否になったりしちゃうんだって。私はその点、仕事に感情は持たないし、事務的に受け答えをするのが得意だから」
 仕事に感情を持たない、事務的な受け答えが得意、というのは、以前派遣されていた貿易会社で、お局の社員が遙を評して放った言葉だ。その日、仕事の帰りに二人で寄った新宿の飲み屋で、遙は初めて酔いつぶれた。
「なんだっけ、ほらネットで調べたテレオペの業界用語」
 僕は話題を変えようと遙に尋ねた。
「えごえ、ね。笑う声って書いて。電話口で印象よく聞こえるように、常に笑ってるみたいな声で話すんだって」
「なおさら無理じゃん、ねえちゃん」
「お客様、少々お声が遠いようでございます」
 遙が独自の「笑声」を作って泰晴くんに言った。
「お客様、そろそろ就活を始めないとご両親を泣かせることになるでございます」
「やめろよ。日本語変だし」
「でも、初めての仕事だから分かんないけどね。今までのパソコンとか事務のスキルとか、そんなの関係なくなるし。私も辛くて一週間で辞めたりして」
 遙はそう言って笑い、赤ワインを飲み干した。
 それから僕は、お母さんから遙が幼い時に贈った母の日の手紙を見せてもらったり、お父さんから好きな落語の一節を聴いたりした。お父さんの好きな落語家も、俳優も、名前を聞くと全員すでに亡くなっていた。

「仕事はね、あゆむさん、急がなくてもいいとは遙の父親としてはなかなか言いにくい。でも二人の生活は二人で作るものなんだ。あなたが一人で抱え込む必要はないし、遙もさっき話していた通り、結婚しても働いていたいと言っている。あなたがそれに甘えようと考える人ではないことは、今日お会いして僕もお母さんもよく分かった。君たちが結婚して子どもを持っても、僕たちが遙や泰晴にしてきたのと同じことを、経済的にも環境的にも、自分の子どもにはさせてやれないだろうという遙の気持ちは、きっと君にも分かるんだろう。時代が違うというと簡単だけど、それに尽きると僕は思う。だから、何も心配しないで、あとは二人でよく話し合って考えなさい。何があっても、お互いに話すことをやめてはいけないよ。僕たちから言えるのはそれだけです。またいらしてください。また皆んなで食事をしましょう」

 ホームで帰りの電車を待つ間、僕は遙に誕生日プレゼントを渡した。桜の刺繍がされた薄手のハンカチだ。
 そして、本当は酒をやめていなかったことを話そうかと思った。時々、遙との約束のない日に昼間から家で飲んでいること。この間酔って帰ってきて、たまたま鍵が開いていた下の階の部屋で寝てしまったこと。一回だけ別の女の人と食事に行ったこと。でも、言えなかった。遙がオーバーコートの中でつないでくれた手が、ご両親や泰晴くんにかけてもらった言葉やまなざしや全て、僕にはずっと触れていることのできないほど温かった。

 僕は遙と結婚する。広くはないけれど、日当たりの良い部屋を借りる。仕事を見つける。貯金もする。酒はほどほどにする。飛行機で旅行をする。子どもも作る。習い事もできるだけさせる。遙には誕生日や記念日のほかにも時々花を贈る。遙の好きな、好きな花は、桜のほかにはよく知らないけれど、その時に花屋にあるいちばんきれいなものを花束にして贈る。そして時には僕の方が先へ行って、遙を待つ。
 次に会った時に遙に伝える言葉を並べながら、僕は遙が笹塚で先に降りた後もひとり各駅停車に揺られた。
 夜の小さな東京タワーを見るのはすっかり忘れていた。

(終)

*しらき ともこ
東京都在住。テレオペの仕事で出会った一番の思い出は、「たまに話し相手になってください」と一人暮らしのおじいさんに言われたことです。


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