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連載小説「遥か旅せよ」 第3回『なぜかしら』(白木 朋子)

 ホテルの食堂で朝食を終え、デザートのライチの皮を剥いていると、隣のテーブルに座る白人の老婦人に声を掛けられた。私のこの街の滞在は最終日を迎えていた。
「学生さん?」
「いいえ、そう見えますか?」
「私より若いということは分かるわ」
 婦人は食後のコーヒーを飲みながらいたずらっぽく笑った。彼女の英語にはどこかの訛りがあるようだった。
「お一人?」
「はい」と私は答えた。そして次に、自分でも驚くような話が飛び出した。
「元々は恋人が一緒だったんですけど、逃げられたので」
「まあ、旅行中に? それは災難だったわね」
 婦人は心を傷めたように胸に手を当て、私の顔を悲しげに見つめた。
「いいんです。これも運命ですから」
 何故かわからないが、そんな台詞が私の口から流れ出た。「運命」だなんて、日本語の会話だったらまず言わない単語だ。
「でも、あなたは愛していたんでしょう?」
「一人の方が気が楽です。ずっとそうでしたから」
 私はライチをつるっと頬張って、婦人に向かって笑ってみせた。婦人はゆっくりと私を見て、肩のストールを掛け直し、ソファの背にもたれた。
「私もね、本当はここには夫と来る予定だったの。もう何十年も前に、一度二人で来たことがあるのよ。その頃はこんなにきれいな街ではなかったけれど、危ないことも、初めてのことも、全部楽しかった。夫は屋台で売っていた何かの串焼きをいたく気に入って、何本も買って食べていたわ。そうしたらその後、急にお腹が痛いと言い出して、もう分かるでしょ? 持ってきた胃薬を飲んでも治らないから、ホテルの人に頼んで薬をもらったの。オレンジ色の見たこともない粉薬で、夫は警戒して、これ以上変なものを飲みたくない!って叫んでたわ。それでもなんとか飲ませて、翌日にはけろっとしてまた屋台で串焼きを食べてた。また当たったらあの薬を飲めばいいから、って。呆れるでしょう」
 婦人はそう言って笑い、ウェイターが注ぎ足したコーヒーを飲んだ。カップを持つその手には血管が浮かび上がって、細かい皺が刻まれていた。そして少しの間の後、婦人は呟くように言った。
「あんな薬がいまもあればね」

 部屋に戻って荷物をまとめ、ベッドサイドにチップと日本から持ってきたのど飴を二包み置いて、チェックアウトをした。飛行機の時間まで、まだ少し余裕があった。私はボストンバッグをホテルに預け、しばらく市内を歩くことにした。  
 薄曇りの街は車道から流れる排気ガスでさらにくすんでいるように見えた。埃っぽい通りの片隅に果物や土産物を並べる露店が出ていた。横道から大きな野犬がタッタッタッタッと走ってきて、息を荒くして私を見つめた。私は思わず道の隅に避難した。すると、野犬は急にやる気をなくしたようにゆっくりと元来た道へ振り返り、そのままダラダラとした足取りで戻っていった。私は近くにあったセブンイレブンに入り、棚を眺めながら少し涼んで、何味か分からないスナック菓子と水を選んだ。レジで財布を出そうとしてリュックのポケットを探ると、携帯がぴかんと光ったのが見えた。
 店を出て、軒下の日陰へ入って携帯を開いた。泰晴からメッセージが届いていた。

 ヤスハル:よう、きょうだい
 ヤスハル:あしたかえるかい
 はるか:ううん、今日だよ
 ヤスハル:きょうだったかい
 はるか:もしかして
 はるか:韻踏んでる?
 ヤスハル:よるなのかい
 はるか:どうしたの急に
 はるか:家に着くのは12時くらいになっちゃうかな
 ヤスハル:あしたひま?
 はるか:そこは踏めよ
 はるか:予定はないけど
 ヤスハル:かあちゃんがこいって
 ヤスハル:とんかつするから、こいだって

 食堂で出会った婦人は、今日はかつて夫と歩いた旧市街へ行くと言っていた。
 二人で巡ろうと約束していた場所を、これから一人で旅するのよ、世界中、いろいろな街、だからとっても忙しいの、自分の家にいる時間の方が短いくらいよ、そうだわ、いつか私の家に来てちょうだい、一人でもいいし、もしその時にあなたに新しい人がいたらもちろん一緒に、夫が作った自慢のサウナもあるわ、私はコーヒーを淹れるのがうまいのよ、(小声で)悪いけど、ここのより何十倍もおいしいと思うわ、孫がシナモンロールを焼いてくれるはずよ、バスケットに入れて、車で森へピクニックに行きましょう、ベリーの時期がいいわね、たくさん採れるけど、全部はだめよ、次に来る人のために残しておくの、ベリーパイを焼いて、生のまま凍らせてお土産にしてちょうだい、あなたキノコは好き? やっぱりね、その髪型を見れば分かるわ、それかビートルズのファンかしらって思っていたの、ふふ、よく似合ってる、そうそうキノコ、自家製の乾燥キノコでスープを作るわね、夫も大好物だったのよ、病院の食事に飽きたと言うから、こっそり持って行ったこともあるわ、最後まで私のスープだけは飲んでくれたの、きっと来てちょうだいね、あ、すみませんウェイターさん、ペンをお借りできるかしら、ありがとう、紙ナプキンで悪いけど、はい、私の名前と住所、どうしてこんなことするんだろうって不思議に思ってる? そうよね、私も初めてだもの、ほんとうよ、誰にでも住所を渡すおばあさんなんて、危なすぎるでしょう、自分でも驚いているわ、でも何故かしら、あなたにはまた会いたいと思ったの、これっきりなんていやよ、また会いましょう、今度はあなたの話を聞かせてね、きっとよ、特上のコーヒー豆を用意して待っているわ、だから、元気を出して、そう、深呼吸して、大丈夫、あなたならきっと大丈夫よ。
 「ありがとう」と最後に言って、婦人は先に席を立った。お礼を言うのは私の方だと思ったけれど、何も言えないまま私は婦人がくれたナプキンを握ってそこに座っていた。ウェイターがやってきて、ペンと婦人のコーヒーカップを片付けた後も、私は涙が止まらなかった。

(第4回へつづく)

*しらき ともこ
東京都在住。洋食レストランと映画館に勤務。実家から届いたわかめがおいしい。

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