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連載小説「遥か旅せよ」 第4回『船を降りたのは』(白木 朋子)

 泰晴からのメッセージに返信をして、私は再びチャイナタウンを歩きはじめた。通りを埋める屋台から朝食の麺やスープを温める匂いが立ち込めていた。私はセブンイレブンで買ったスナック菓子の袋を開けて、ぽりぽりとつまみながら歩いた。一つが茶色い小粒の豆ほどの大きさで、からりと揚げられ、少し苦味のあるオイスタソースのような濃いめの味がついていた。袋には「Wow! Tasty!」と言ってポップに笑う昆虫の絵が描かれていた。そしてその一粒をよく見てみると、形もしっかり昆虫そのものだった。
 食堂で出会った老婦人に自分がついた嘘を私は思い出していた。恋人に逃げられた、この旅の最中に、と私は言った。半分は嘘ではない。彼は私から逃げた。散々泣きわめき、自分を傷つけて、彼は私から逃げていった。

 その半年ほど前、私たちが付き合って五年が経った頃から、彼は私と約束をしても待ち合わせ場所に来ないことが多くなっていた。連絡をしても返信はなく、しばらく待ってから諦めて帰ると、「何故僕が来るまで待っていてくれないんだ」と電話が掛かってきた。電話口から、彼の家の近所にある教会の鐘の音が聞こえた。何故自分の部屋にいながら、私がもうその場所にいないことが分かるのか不思議だったけれど、彼はいつも私が待ち合わせ場所を去った後に電話を掛けてきた。そして、次は必ず行くから、だから待っていて、僕が来るまで帰らないで、と泣きながら謝った。そんなことが二週間に一度くらい、二人で仲良く決めたルーティンのように一切欠かすことなく行なわれた。その間に、たまに私が食料や日用品の買い出しをして彼の部屋に届けることもあったけれど、ほとんど毎回、彼が何かのきっかけで泣きはじめ、一人で布団に潜ってしまい、私たちの時間は強制的に終了した。
 そしてある日曜日、私はついに彼との待ち合わせ場所へ行かなかった。待ち合わせをした駅とは反対方面の電車に乗り、映画を続けて二本観て、蕎麦を食べ、デパートの食器売り場と本屋を眺めて銀行で記帳をし、夕方に駅の地下街でビールを飲んだ。店を出る前に、朝から切っていた携帯の電源を入れてみると、以前登録していた派遣会社のメールマガジンが一通届いているだけだった。
「めざせ!愛され派遣への道 第◯回 〜オフの日に磨くハッピー愛されオーラ〜」
 件名から先には目を通さず、私はごみ箱ボタンを押した。
 家へ帰り、夜になっても、彼からの電話は一度も掛かってこなかった。
 その翌日、夜の八時過ぎに私が最後の通話を終えてコールセンターの入るビルを出ると、明治通りの街路樹の前に彼が立っていた。私の姿を見つけると、彼は姿勢を正し、黒い背広の裾をぴんと伸ばした。彼がスーツを着ているのを見るのは、二年前の私の三十一歳の誕生日に初めて家族を紹介した時以来、二度目だった。

 帰りの飛行機は午後二時過ぎの便を予約していた。昼食も兼ねて、私は船に乗って川沿いの街へ行ってみることにした。チャイナタウンから電車を乗り継ぎ、大きな船着き場に到着した。観光船も通るその駅は人で溢れ返り、窓口が一つしかないチケット売り場には長い列ができていた。係りの人に誘導されて、船内でもチケットを買えることが分かり、私はすでに混み合いながらまもなく出発しようかという船に足早に乗り込んだ。
 観光客が多く下船する繁華街を過ぎ、私は何のあてもなく小さな船着き場に降り立った。古そうな頼りない橋を渡って通りへ出ると、同じような高さの建物がいくつも並んでいるのが見えた。外壁はどれも塗りたてのように白く、窓の手すりは緑や黄、青などで階ごとに塗り分けられていた。カラフルな団地かな、と思って近づくと、門に掲げられた看板に英語で「病院」の表記があった。入り口近くの一棟から車椅子を押す女性の看護師が出てきて、辺りを見回し、敷地の奥へと進んでいった。私は吸い込まれるように彼女を追って中へ入った。白い箱のような建物の並ぶ道を抜けると、そこには大きな中庭が広がっていた。看護師はベンチで日光浴をする中年の男性に声を掛け、彼を車椅子に乗せて、建物の方へ戻っていった。庭を見渡すと、同じように患者の手を引いて歩く看護師や、その家族たちの姿が点点とあった。私は庭の小道を進み、木陰に入ってペットボトルの水を飲んだ。風は真昼の熱を帯びて、川沿いのせいか強い湿気が肌にはりついた。私はリュックに入れていた折り畳みの麦わら帽子を被り、しばらく庭を散歩した。
 中庭を抜けると、狭い道に建ち並ぶいくつかの棟から大勢の若者たちが一斉に出てくるのが見えた。昼休みの医学生かな、と思って見ていると、後ろからシャーッという車輪の駆ける音が聞こえてきて、振り向くと数人のスタッフがストレッチャーを押して走ってくるのが見えた。その場にいた全員がさっと両端に寄って道を空けた。ストレッチャーは速度を緩めずに進み、私の前を風のように通り過ぎていった。運ばれていく人の姿は毛布で覆われていて見えなかった。そこは私がのんきに散歩をする場所ではなさそうだった。私はすぐに出口を探すことにした。敷地はかなり広そうだから、入ってきた門とは違う出口もありそうだと思った。そこから川沿いの大通りに出て、屋台かどこかで昼食を食べてから、荷物を取りにホテルへ戻ろうと計画した。
 けれど、それからいくら歩いても、出口は一向に見つからなかった。昼時のせいか警備員も見当たらず、それどころか、さっきまで行き交っていた白衣のスタッフや学生たちの姿さえいつの間にか見えなくなっていた。私は少し駆け足になって、高い建物に囲まれる道を進んだ。少し前に見かけた窓に国旗が掲げられた建物がまた現れて、すでに何度も通っている道だと分かったけれど、引き返すことはできなかった。進んでも進んでも、出口も人も見つからなかった。背中の中心を汗が流れていくのが分かった。誰か、いませんか。出口は、どこですか。誰か、誰か。

 明治通りの歩道の隅でネクタイを締めて立つ彼を見た瞬間、私は決意した。彼はゆっくりと歩き出し、私の前に立った。彼はおそらく何か大切な話をしにここにやって来て、そしてその内容は、私がいま決意したことと一致しているだろうと思った。彼の話は謝罪から始まり、そして最後に告げられたのは、予想通り私への別れだった。私は全てを黙って聞いた後、彼の黒いネクタイを掴んで、思いきりひねり上げた。彼は何とか姿勢を保とうと踏ん張って立ち、真剣な眼差しで私を見つめた。怯まないように耐えている表情が彼から見て取れた。私はネクタイを掴む手をぐっと引き寄せて、彼の顔をまじまじと眺めた。髭は伸び、電灯に照らされた目が充血していた。私はもうあなたを待たない、諦めたり、また信じようと努力したりする必要もない、あなたはこの船から降りるのだから。
 私は何も言わずに手を離し、そのまま彼の胸を押しやって歩き出した。駅へはこの道をまっすぐに行けば辿り着く。慣れた道を迷いなくただ歩いていけばいい。何も考えず、何も見ずに。そのことだけが救いだった。

 窓に国旗が掲げられた建物に再び行き当たり、出口も見つからず、流れる汗も止められないまま、私は病院の敷地内を歩き続けていた。どの道へ進めばいいのか、考える力はもうなかった。どの道も正しくて、どの道も間違っているような気がした。私は麦わら帽子を脱ぎ、わずかに残っていた水を飲み干して、空のペットボトルを近くのごみ箱に捨てた。突然、スコールが降り始めた。全てが終わった。私はもう一生ここから抜け出せない。誰もいなくなった病院でやがて朽ちて、消えるんだ。そんな気分だった。
 不意に後ろから肩を叩かれたのは、前髪から滴った雨粒が私の両目に流れ落ちた時だった。振り返ると、一人の男性が驚いた目で私を見ていた。そして近くの建物を指差し、その方へ走っていった。男性は軒下で頭や服の雨粒を払いながら、心配そうに私を見ていた。私はゆっくりと後を追って、同じ軒下に入った。
 それからしばらく、スコールは続いた。雨が連なって巨大な滝の前にいるようだった。白く霞んでいく景色を見ながら、私はふと気がついた。彼はあの日、待ち合わせをした最後の日、一日中私を待っていたのではないか。翌日私の前に現れた時の、皺が寄った彼の背広や、青白い顔、落ちくぼんだ目の一つ一つがまざまざと浮かび上がってきた。彼は待ち合わせ場所に来ない私を、私が彼を掬い上げるのを、ずっと待っていた。でも私は行かなかった。そして翌日、彼は待ち合わせ場所からそのまま私の職場へ来た。最後の挨拶をするために、精一杯の正装をして。その誠意に私は答えなかった。何も言わず、ただ彼を押しやった。心の中で彼の存在を散り散りに切り刻んだ。それは私が私を保つために随分前から続けてきたことだった。彼が待ち合わせ場所に来なくなり、帰った私に電話を掛けては泣き、それを日常として繰り返す中で、私は彼を待つことをやめた。身体は待ち合わせ場所へ向かうけれど、私は肉体も心もそこへ置き去りにした。自分をなくして何も考えず、ただそこにじっと立っていることが心地よかった。
 地面に跳ね返るスコールの粒を眺めながら、私はようやく気がついた。先に船を降りたのは、私の方だったのだ。


                         (第5回へつづく)

*しらき ともこ
東京都在住。洋食レストランと映画館に勤務。わんさと買ったパセリがおいしい。

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