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メディア勉強会「動物化、亡霊化したメディアの行く末」に行ってきた。

1/19(金)石田健×米重克洋 メディア勉強会「動物化、亡霊化したメディアの行く末」に行ってきました。

個人的には、まずイベントの公式説明文(下記)が衝撃的で……。現在のメディア業界とその課題を端的に捉え、かつ文学的表現でまとめ上げている、とても素敵な文章でした。

今日のメディアはいかなる状況か。
あふれ返る猫画像が繁殖を止めても、次なるNyan Catの亡霊はミーム・データベースに登録され、消費を待っている。私たちの食指はいつもそこに誘導され、クリックベイトとフェイクニュースに引き込まれながら、ただ時間だけを浪費する。短期的な欲求(動物化)と、事実を置き去りにした扇情(亡霊化)がいまメディアには渦巻いている。
ページビューの短期決戦が途方もない消耗戦を続け、多くのメディアは数値主義の囚人となって自殺した。その構図はインターネットのみでなく、スキャンダルとスクープしか流すことのできなくなったテレビも同病である。
サーチ、フォロー、リコメンド。フィルターバブルと機械学習は、それらしい顔で情報を差し出してくる。 「これが欲しいんでしょ?」。否定はしないが、もっと読むべきものがあるのではないかと、ぼんやりと思う。
大きな物語が効力を失った現代において、メディアは何を語るべきなのか。
あらたな意味や、深さ、異質性といったものを、読み手は育んでいけるのか。


概要メモ

※クローズドにすべき部分もあったので、メモったものを出せる範囲で。

スピーカー(敬称略)
石田健 マイナースタジオ代表取締役CEO
米重克洋 JX通信社 代表取締役

オーガナイザー(敬称略)
桂大介 株式会社リブセンス


第一部「メディアの現在地」(現状のまとめと問題提起)

・Facebookと併せて伸びた新興メディア、パブリッシャーが厳しい状況。
・Toutiaoなど、アルゴリズミックフィード、機械学習でのコンテンツディスカバリーが台頭。経済的成功を目的とするなら、これらが鍵になるのは自明。
・しかし、フェイクニュース問題、フィルターバブルによる社会的分断の促進など課題があり、メディアとしての倫理的責任が問われる。

・そういったリスクもあり、Facebookはニュースを分離する流れ。伴ってコミュニティ強化?に舵を切っても、いずれにせよ社会的分断を促進。
・パブリッシャー側は、GoogleやFacebookなどPFに依存しない収益モデルと、フェイクニュースなどを超えて消費されるニュースの確立が必要。

・課金モデルで成功するメディアも、出てきつつある。
・しかし、そもそもメディアの社会的意義は、「自由で正しい知識の生産と平等な流通によって、社会に適切な意思決定材料を供給すること」。
・課金モデルは(そもそものインターネットの理念でもあるような)、この「平等な流通」に反している。


第二部 パネルディスカッション「動物化・亡霊化の行く末」

・報道産業には、下記のような負のスパイラルが存在する。
収益確保のため滞在時間奪取ゲームに(流通構造と収益の課題)
⇒ 収益源で取材にかけるコストがまかなえなくなる(コスト構造の課題)
⇒ 安易なコストカット、人員削減での質低下(報道の質・付加価値の課題)
⇒ そして、より収益が減る……という流れ

この悪循環を断ち切れるのはテクノロジーだけ。

・事実さえ置き去りにする速度を、どう乗りこなせばいいか?という大きな問い。(つまりはヴィリリオの速度論)
現状の消費速度では、社会による読解・解釈・検証を置き去りにしている。それに対して、書き手と読み手はどうすべきか?
メディア側からすると、ビジネス価値やライフライン(必要なアクションに繋げられる情報提供)として、速報性は大事になる。

・報道価値の判断とは?
従来のマスメディアでは、社会に影響を与えうる大きさ(必ずしも定量でない)での、最大公約数的な判断。現状は、各メディア(の意図)で異なる。
また、報道価値、社会としての倫理的な糾弾とは別に、ひまつぶし・エンターテインメントとしての価値判断もありそう。不倫報道など。それについては、ひまつぶし消費の代替品ができれば、変わっていく可能性もある。

もともとは、新聞が「国のニュース」としてナショナリズムの醸成を担っていた。そのように、帰属する集団(国~そしてローカル)のニュースも大事な一方で、個々の関心に即したニュースも必要。そういった意味で、報道価値は人によって異なる。

さらに、発信供給側の意図としての価値/消費者側にとっての価値という問題があり、報道すべきもの=みんなに受ける が成立しないジレンマもある。また、報道やジャーナリズムを担うのが、TVや新聞社である必要でもなく、それ自体が消費側判断という考え方もある。

・指名買いを乗り越えて、パッケージは復権するかのか。
指名買いの台頭により、釣りタイトル・クリックベイトが加速する。メディアのブランドやフォーマットやコンテキストは、パッケージを復権させることはできるのか?
新聞・雑誌などは、「パッケージが売れていない」のではなく、流通構造の課題がある。単純なコンテンツデリバリーではなく、サービス化を意識して滞在時間を獲得したり、サロンを運営したりと、工夫が必要。

・釣りタイトル問題についての整理。
釣りタイトルとは、中身が不一致である状態。つまり、タイトルでの期待に対して、説明責任が果たせていないということ。そこには、そもそも執筆側の文章力、取材力、理解力不足などの問題がある。
さらに、アルゴリズム最適化に影響されて、意図的に誘発されるという課題。
そして、狭いスマホ画面に入る文字数に収めるなど、フォーマットの問題がある。

・課金メディア、コミュニティのカルト化を許容するかどうか?
尖っていくほどロイヤリティの高いユーザーが生まれ、ビジネス的にも成功しやすくなるが、質を高める方向に向かわなかったり、それこそ社会的分断の先端になってしまったりする。
※ここは「消費者任せにすべき」「オルタナティブなコミュニティをつくればいい」「そういった閉じた循環での相対主義の行き過ぎは、倫理的にNo」というように、各意見が出ました。

・社会の分断に抗うような読み方はあるのか。動物化・亡霊化を乗り越え、異質性や別の物語を受け入れる方向性は?
課金にした瞬間に、分断は生まれる。それをふまえると、非営利運営の「soar」は、分断を生まない理想系としてのひとつの解。運営としても、読者を信頼して(読者の求めるものや理解力に寄せすぎず)発信視点で(届けたいものベースで)運営している。

また、アルゴリズムor非営利の二者択一でなく、多様なものが生まれるべき。
しかし、結局はキャピタリズムにのらないとスケールしない、そしてスケールしなくても資本主義的な競争から逃れられない、という側面がある。
寄付も課金モデルとして捉えられるし、寄付においても「効果的な利他主義」(ピーター・シンガー)的な考え方が発生する。
また、国営メディアという考えもあるが、ジャーナリズム追求できないので問題。その点、公共放送はベター。

・メディアがアルゴリズムを秘匿することで、企業が恣意的に情報統制することに対して、どう抗うべきか?(ディストピア論)
メディア側が、自社に不利な情報配信を規制したり、ポリティカルなバランスを取るようなアルゴリズムを採択したり、などが既に行われている。

結局は、消費者がどのサービスを選択するかという問題であり、社会のコミュニケーションで解消していく、つまり批判の声を上げていくしかない。(プロ市民的な) そしてアルゴリズム開示というのは、そもそもの開示内容の定義問題や、ビジネスモデルと直結することをふまえると、現実的でない。

・ファシズム的な完全なる統制と、それぞれが求めることに対して肯定するポストモダン的な相対主義との溝とを、どう埋めるか? どちらもダメという風潮の中、どう新しい価値をメディアが紡ぐのか?

前者の二極ではないはずなので、そこを各メディアが実験していくべき。
また、分断については、右派左派などの政治的なものだけなく、エリートとマイルドヤンキー的な分断もある。ただし、購読メディアが違うだけ、という捉え方もできて、そもそも埋める必要があるのか?という捉え方もある。

・メディアリテラシーは、どうすればあげられるのか?
書き手に期待しても仕方ない。読み手として、まずは、目の前の餌に飛びつかない「節制」の姿勢を、身体的にインストールしていく。

また、個人よりも、社会がメディアリテラシーをどう高めるか?という方が課題。(分断の件もふまえて)
そこも、メディアに期待しすぎてはいけない。教育の問題。メディアは、ビジネスにしろNPOにしろ、単独で採算をとらなければならず、所与の目的を達成することが求められるので、そこまで負えない。
100年前は新聞がフェイクニュース書いてる時代だったし、社会はより道徳的になっている。(ピーター・シンガーの話) 個人が、どこの団体に投資すれば、より社会が良くなるかを考えていくことが大事。

マクルーハン著書の中に、「時事ネタがきらいってわけじゃないの。ただ、このところ多すぎたから。」という漫画のひとコマがある。現代の状況を言い当てている。言説が、あまりにもポピュリズムに駆逐されているという危機感。

ただ、ここには答えがなくて、私たちは頭を働かせないといけない。


感想

たとえば、ファクトチェックに力を入れ「良質な情報を届ける」という発信者主体のスマートニュースと、「各々の欲しい情報を適切に届ける」という受信者主体のグノシーと、似通ったニュースアグリゲーションでも、そこにはわかりやすく理念の乖離があります。そして、業界全体的な風潮として、最近はやはり(テクノロジー進化とビジネスメリットの影響も受けて)パーソナライズに向かっているな、ということを強く感じていました。

その中で自分は、フィルターバブルなどのデメリットを認識しつつも、漠然とした懸念の域を出ず、さらに「セレンディピティもあったほうがいいから入れないと」くらいの、安易で曖昧な暫定措置レベルで思考停止していたところがあり、少し恥ずかしくなりました。例えが適切かわかりませんが、言ってみれば「この先AIに仕事を奪われるから、人間的でクリエイティブな活動をしないと!」くらいの、無理解と思考停止だったと思います。

また、情報は平等に行き渡るべきという理想の存在と、それによる収益モデル構築の難しさ、そして利益追求をすれば「良質な情報提供」の追求との溝を生み、それでいて利益がないと良質な情報を生み出して届けることはできない、というジレンマ。つくづく、メディアは難儀なものだと思いました。 
(ただ、個人的には、課金メディアによる社会的分離という部分においては、現状仕方がないとも考えています。このあたりは、著作権の軽視やコンテンツクリエイターの搾取にも繋がりそうで、現状の市場経済としては、相応の対価が発生するのが健全であると。そもそもの政治的議論も含め、理想論を語るなら、他で資金源を得る手段もあるとは思いますが。ちなみに、本編で少しwikipediaやウィキリークスなどの話も出ました。)

結局、読み手としては、自分が求めるものに対価を払い、自分の信じるものに投資していくしかない、そして、書き手(メディア側)としても、どんどん模索していくしかない、というところについて、自分も同意です。

また、書き手側を見ても、今後はパブリッシャーとしてメディアブランドを背負う記事に留まらず、細切れのようなUGCがさらに増え、流通するコンテンツの総量も増えていくはずです。いままさにこのnoteもそうですし、他にもブロックチェーンメディアのSteemitやALISなど、書き手が独立して報酬を得られるようなPFも出てきています。すると、決してマス向けではない情報の比率が増え、相対主義と分断の加速が、さらに進みそうです。

新聞や教科書、報道などを考えるとわかりやすいですが、どういう情報に触れるかが、己の思想(帰属意識なども含む)に影響を与えます。口に入れるものが、自分の身体・健康に影響を及ぼすのと同じです。テクノロジーによるコンテンツディスカバリーの効率化を享受する一方で、ふと、自分が無意識にコントロールされているような、レッシグのアーキテクチャ的な意味での、見えない恐怖に襲われます。改めて、メディアというものの、社会的な意義、社会へ与える影響の大きさを感じることができました。

今回のディスカッションで見えたように、結局答えは出ないのですが、それぞれが考え抜いて理想に向き合い、実践を繰り返すことが、なによりメディアに携わる者として、あるべき態度だと思いました。メディア側に期待しすぎと言われそうですが、少しの希望を見たのは確かです。もちろん第三者的な視点でなく、いち読み手として、そして(こんな些細な文章でも)いち書き手として、自分も意思を持った実践をしていこうと感じました。

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