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読書日記:「Humankind 希望の歴史(上)」

正直、この本を読んで非常に戸惑いました。

著者のルトガー・ブレグマン氏が、スタンフォード監獄実験やミルグラムの電気ショック実験など、これまで定説とされていた「人間が"悪"である証明」的な事象を、本人のジャーナリズムによる証拠と論の組み立てで崩していくという流れ。

非常にエキサイティングでもあり、示唆的でもあるのですが。

正直な話し、私はちょっとこの本の本質が理解出来ませんでした…残念ながら

まだ上巻しか読んでいないのですが、おそらくこの本で著者は「人は本質的には善で、環境によっては悪になる」と言いたいように感じました。

そして上記とは対になるのですが「でも本質的に悪な人間もいる」というのがこの本から感じられたもう一つの考えでして、ここで混乱しました…

いくつか、気になったフレーズをメモしてたので、書きますね。

「科学や芸術の復興は、モラルを腐敗させたか、鈍化させたか?」
ルソーはすぐ答えを悟った。「一瞬にして、わたしには別の世界がみえ、私は別の人の人間になった」と、後にルソーは書いている。「文明社会(市民社会シビルソサエティ)はありがたいものではなく、災いであることにわたしは気づいた。」罪のない友人が投獄されている場所へ向かいながら彼は「人は本来善良だが、このような社会制度のせいで邪悪になるのだ」と思い至った

狩猟採取民は、ほとんど全てのものを共有していたからだ。そして、所有の始まりは、不平等の拡大を意味した。誰かがなくなると、その人の所有物は次の世代に受け継がれた。この種の継承が当たり前になるにつれて、貧富の差が広がっていった

定住と私有財産の出現は、人類史に新しい時代をもたらした。その時代には、1パーセントの人が99パーセントの人を抑圧し、口先のうまい人間が指揮官から将軍へ、首長から王への出世した。こうして人間の自由、平等、友愛の日々は終わった

ミルグラムから見れば、要になっているのは権威だった。人間は命令に無批評に従う動物だ。イエール大学の地下にある彼の研究室では、大の大人が何も考えない子供になった。「座れ」でも「お手」でも「橋から飛び降りろ」でも、命じられれば喜んで従う

ミルグラムの被害者と同じく、自分は善を行っていると確信していたので、悪を行ったのだ

特に最後のフレーズが気になるところで、「こいつは悪だ!」と思える人(例えば戦争始めた某国の偉い人)が居ても、実は「自分は善だと思っていたけど、実は他人には悪だった」というような行為。この本ではこれも"善人としての行動"として見返されているのかな、って思いました。加え、それに従っていた人、戦争で言えば兵士とかも、実は悪い人じゃなくて社会制度的にそうさせられていただけで実は悪い人じゃないという流れかと。

でも、その2こ上の文章をみると、でも誰かがその悪い社会制度を作ったことになって、やはりそういう人達は本質的に悪なんじゃないかな?って思いました。

ここら辺が、私としてはあまり理解が出来なかったというところです。

ロジック的には

  • 人は本質的には善

  • でも、本人の育ちとか経歴によっては、他人にとっての悪ですら本人には善となるケースもある

  • 賢い悪人が、社会制度を上手く利用すると、多くの一般市民はその悪にも考え無しに従うようになる

  • よって客観的に・歴史的に見て悪いと思われいた人も制度に従っていただけで、実は悪くなんかない

その事例がホロコーストのようなものだと、本を読んで考えました

とくに疑問に思ったところが、誰までが悪人で、誰までが善人か?という点です。

この考えに対する著者の姿勢も私は読み解けなかったですし、私としては「人間の多くは善人な"部分が多い"けど、大なり小なり"悪な部分"は存在する」というポジションを取ってます。ようは白黒ではなく、みんながみんな白黒のグラデーションかというポジションです。

大きくは某国のトップだったり、我が国の政治を行う人だったり。小さくは、例えば道中でゴミを捨てる人、歩きタバコする人、歩きスマホする人、犬のふんをそのまま放置する人、横断歩道の上で停車する人(最近多い)などなど

私はこういった悪の人を見るのがホント耐えられなくて、出来るだけ外に出ない・外に出ても他人をみないなど、悪に目が向かないように必死にがんばってます。

(いや、ホントなんですよ。結構人を見ないように歩いてます)

でも、おそらく、すべての人がゼロイチで「完全な善人」「完全な悪人」ってことは無いのかと思います。盗みを働くような悪人ですら、もし目の前の川でおぼれている人を見たらなんとか助けようと思うでしょう。人に対してすごく親切な態度を取る人も、実は家に帰ったらパートナーさんに冷たく当たる人だったりするかも知れません。

すべてがゼロイチではなく、グラデーションなのかなと。

私も"悪な部分"があるかと思います。が、社会人として活動することであったり、"善"を積み立てる行動をとる事であったりで、"悪な部分"を抑えるようにしているのです。

そうなると、著者の主張である「すべての人が元々は善人(なところはある)」って言われたって「そんなの当たり前じゃん!今更なに?」みたいに感じてしまう。この本(上巻のみ)を読み終えたあとの感想がこれでした。

そんなこと、分かっているよ!

と。
なので、新たな気づきを得て「なるほど!」という腹落ち感には至らなかった、そういう感想です。

うーん、私の理解度が足りないのか、なんとも言えない本でございました。。

ぜひ興味を持たれた方は、ご一読くださいませ!

海外では結構有名になった本と聞いて数年前に買っていたのですが、日本ではイマイチ話題にならなかったですね。ひょっとしたら、他国の人と日本人との考え方の違いなのかも知れません。

特に日本は数年前から飯塚という名の上級国民のひき逃げ事件、あおり運転、インフルエンサーの回る寿司事件、ルフィ事件など、悪のニュースに溢れかえってます。そんな中「人は本質的には善なんだ!」って本をアピールしても、火に油的な状況に陥るのかも知れません。

どの人のどこまでが善で、どこからが悪か。自分個人として、どこまでの悪に耐えられるか?人のどこの面とお付き合いしていきたいか。そこら辺を深く考え自分の姿勢をまとめるには非常に良い本かなとも思います。

今日は以上です。
ちょっと長かったですかね。

この文章を書くのに、久々に一晩寝かせ、さっき再修正してnote掲載に至りました。

ぜひコメント・ご感想など頂けると幸いです!

では。
合掌!

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