報酬の無い教育活動を通じて気づいた自分の限界【未来の教育 No.12】
気付いたらもう今年も半年が過ぎそうですね。
こんばんは、フクちゃんです。
先日、奨学金財団の活動である学生の面談+評価を終え、無事奨学金を受け取れる学生を決定しました。1人あたり1時間弱の面談、計9人を評価したので9時間くらいかかりましたか。
加え、事前に生徒の論文を読み込み、質問事項も考えておかなければならなかったので、その1.5倍くらいの時間はかかっています。土日の午後を使ったことも、地味に厳しかったですね。
ただ!
非常に優秀な生徒達と話しが出来、彼らの価値観に触れることが出来たのは一ついい経験になりました!
社会人との面談って凄く緊張すると思いますし、ホント学生の皆様お疲れ様でした。
一方で、今回の活動とその前後を通じて感じたのが、、、
私、おそらくボランティア(No報酬)のお仕事を土日使ってやるのは無理だ
でした。
自分のバックグランドから、教育、格差社会を無くすための教育を提供することが自分の使命かと思い数年やってきました。しかし、それを大きく考え直さねばと実感している今日この頃です。
当たってきた壁、大きく3つです。
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①教育(講義やワークショップ)でお金を取ることが難しい
過去も書いたと思いますが、学校はよほどのことが無いとお金を払ってくれません。社会人ならなおさら、ボランティアを求められることが多いです。
先生はお金をもらえるのに、社会人の授業だとなぜお金が出ないのか?は相変わらず不思議です。
が、おそらく教育事情を鑑みると、お金を取る先を学校や生徒(受益者)にすることがそもそも難しいのかもと思っています。自治体や国の補助金活用、もしくは教育Youtuberなどの副収入で稼いでいくしかないのかなと現時点では考えています。
②私の地位と名声が中途半端
奨学金の財団に居て思うのですが、財団で一番重要なのは「誰の後押しがあるか」です。
この有名な人・実績がある人が財団の役員についているのであれば安心だよね
応募してくる生徒も、寄付を行ってくれる人もそこを見ます。
懇親会的なパーティーがあっても、プレゼンをしたり挨拶をしたり、重要な箇所はこの役員の面々が行います。
が、実際学生の論文を評価したり(その評価項目を考えたり)、面談したり、最終決定の会議をしたり時間をかけた作業をしているのは下々の者(つまり私のような方々)です。
パーティーでも、受付だったりの雑務を任されて、表に出てきません…
報酬ももらえず、下働きもする。
「この世の中の為だ」という大義を行っているのは分かるのですが、なかなか腑に落ちることは無かったです。
③「好き」の延長線上にないもの、人から強いられる活動には見返りを求めてしまう
本当に好きなこと、私ならばギターを弾くことや走ることでしょうか。その延長線上にあるものをただやるだけなら、お金をもらう必要はありません。あとは、自分の好きなタイミングで、制限のない活動が出来るのであれば報酬はいりません。
ただ、本当に"好き"ではなく、苦労が入るもの。もしくは「こういった成果を、この時期に出してほしい」などの制限が入ると、報酬が欲しいと感じます。
私の授業であったり学生の評価であったりは、本当は好きの延長線上に無いモノなのかもしれません。
もしくは、やはり期待値に応えることに「めんどくさいなぁ、、、報酬がもられれば」って考えに至ってしまうのかも知れません。
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ここまで書いていてつくづく思うのが、私のキャパシティに限界があるなと。聖人になり切れないな、ってことです。
本当に「世の為、人の為」を心から出来る人であれば、人から求められる活動であっても無償で出来るでしょう。
ただ、
私はどうやら普通の人間、凡人だった
ということです。
会社でもよく「やりがい搾取の仕事は後輩にさせない」とメンバーに言ったりします。価値のある仕事に対しては、しっかりと評価・報酬で報いるべきだという考えなのですね。
やりがい搾取
財団であったりNPOの活動を行っている人は、本当に聖人なんだなって思います。
自分には出来ないこと、心から尊敬します。
今日はここまで。
自分の限界を知るって経験も、すごく重要だなと思いました。
凡人には凡人の人生がある!
それを今後探っていくのもまた新たな冒険だと思います。
もしコメントなどございましたらぜひお聞かせくださいませ。
合掌!
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