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【ショートショート】ノックの音が

 田中は原稿用紙とボールペンを買ってきた。
 パソコンを使って原稿を書いていると、すらすらと書けすぎてしまう。こんなに簡単に小説が書けていいわけはない。
 もうすこし慎重に書こうと思い、手書きを試してみることにしたのだ。
 万年筆のほうが恰好よかったが、書き直しできない点が怖くて、消せるボールペンに日和ってしまった。
 片付けたテーブルの上に原稿用紙を広げ、「とんとんとノックの音がした。」と書きつけた。田中の好きな書き出しだ。さて、どんな変なやつを登場させてやろう。
 田中はしばらく目を閉じ、じっと考え込んでいたが、
「ドアを開けると、そこには誰もいなかった。誰かが逃げた気配もなかった。」
 と書き継いだ。
 書き間違えたらいつでも直せると思うと、案外、間違えないものだ。田中はどんどんお話の続きを書き継いでいった。
 三時間ほど集中すると、短いお話がひとつできた。
 田中は「ほっ」と小さな息を吐いた。
 田中はプロの作家ではない。書いた小説の発表場所はネット上だ。推敲を兼ねてパソコンに入力しようと、一枚目の原稿用紙を取り出す。
 目を剥いた。
 なにも書かれていない。
 嘘だろう。
 自分で消した覚えはない。
 ゴミ箱から消せるボールペンの包装を探し出した。
 よく見るまでなく、包装には大きな文字で「消えるボールペン」と書かれていた。しまった。間違えて変なものを買ってしまった。
 使用上の注意を読む。
 このボールペンは書いた文字が消えるボールペンです。三時間程度で文字が消えます。四時間でボールペンが消え、五時間で書いた本人が消えます。注意してご利用ください。
 消えた文字は冷やせば復活すると聞いたことがある。田中は原稿用紙の束を冷凍庫に突っ込んだ。
 文字は復活しなかった。
 そうこうしているうちにテーブルの上からボールペンが消えた。
 うわっ。ほんとに消えるんだ。
 田中はあせった。どうしたらいいんだ。このままでは自分が消えてしまう。ボールペン会社に文句を言えばいいのか、病院に行ったほうがいいのか。いや、もう、どちらも受付時間を過ぎている。
 迷っているうちに、どんどん時間がすぎる。
 田中は家を飛び出すと、隣の家の玄関をノックした。
 隣の人がドアを開けると、そこには誰もいなかった。誰かが逃げた気配もなかった。

(了)

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