【ショートショート】別館五〇七号室
ひさしぶりに温泉にやってきた。
泊まっているのは巨大な温泉旅館だ。
本館があり、別館があり、新館があり、離れとしていくつかのコテージがある。
私は別館の五〇七号室に案内された。
一言でいえば、「案内された」だが、本館のロビーからここまでたどり着くのは大事であった。仲居さんはあちこちで廊下を曲がる。エレベーターで六階まで行ったかと思うと、渡り廊下を通って別の建物に入り、また二階まで行って、段差のある通路を歩き、渡り廊下を歩き、露天風呂の横の通路を通って、エレベーターに乗ってようやくこの部屋へと到達したのである。
「これ、ほんとうに最短経路なの?」
「なにしろ増改築をくり返しましてなあ」
と仲居さんは申し訳なさげに笑い、私に部屋の鍵を渡した。
「お食事は本館二階の紅葉の間でお願いします」
食事券を差し出した。
とてもひとりで本館までたどり着けるとは思えない。
「行けますかねえ、ひとりで」
「へえ。そりゃあもう、経路が書いてありますので」
食事券の裏を見た。
経路がびっしりと書いてあった。
私は軽く絶望したが、仲居さんはその間にさっさと出て行ってしまった。
やがて四時になる。
食事は六時からだ。
私は自分の方向音痴には自信があるので、すぐにも出かけることにした。
まずは露天風呂「棕櫚の湯」を目指す。エレベーターで一階まで行った。
さて、右か左か。
右に行った。外れたらしい。いつまでたっても部屋ばかり。こんなに歩きはしなかった。私はエレベーターまで戻ることにした。
左に行くと、案の定、露天風呂の裏口に出る。ごたごたとものの置かれた通用路を通って、赤絨毯の廊下に出た。うん。ここは見覚えがある。
渡り廊下に出て、外の風景を見、私は息を飲んだ。
一面の海である。
なんで山の中の温泉に海が。
見ない振りをして渡り廊下を渡りきった。
段差のある廊下を歩く。段差はだんだん大きくなってくる。どこかで曲がり損ねたかな。段差は大きくなる一方で、よじ登らねばならない。来るときにそんなことはしなかった。
それからあとは、迷う一方だった。
息も絶え絶えの私が仲居さんと遭遇したのは、新館の三階であった。
「お願いです。助けてください!」
「まあまあ、どうなさいましたか」
「どうしても本館にたどり着けなくて」
「案内しまひょ」
ぶじ紅葉の間にたどり着いたのは八時前で、もう食事時間は終わっていた。
私は、用心深く仲居さんを捕まえ、別館の五〇七号室まで送ってもらった。途中の土産ゾーンでビールとつまみを買う。今日の晩飯はこれだ。
あとの楽しみは温泉くらいだが、怖くて部屋を出ることができない。
結局、そのまま翌日の昼まで時間を潰し、電話をして部屋まで迎えに来てもらった。
受付でクレジットカードを使って決済し、宿の外へ出た。カードが使えてホッとした。
(了)
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