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【ショートショート】正月明け

 もうはるか昔のことに思えるが、ひどく苦労して短い原稿を仕上げた。正月明けの、新聞用の挨拶だ。内容はたわいもない。ただ、短く仕上げるのが苦しかった覚えがある。
 ファクシミリがゲラを吐きだした。新聞社との間にたってくれている緑川さんという女性の顔が思い出された。正月早々にもう仕事を始めているという軽い驚きがあった。
 何カ所か注釈や質問のようなものが書かれている。
 ファクシミリの文字は粗く、原稿そのものが劣化しているように感じられた。私は清書して返送しようと思い、原稿用紙と万年筆を用意した。原稿の下書きはさまざまなところから出てきた。一冊のノートがその準備に費やされていた。長い長い下書きで、たった三枚の原稿のためになぜそんなことをしたのか今となってはもう思い出せない。自分の過去のことだから、書き始めると止まらなかったのだろうか。
 冷蔵庫の扉に磁石で止めてあった下書きもあった。ズボンのポケットからも出てきた。これらはかなり短いが、それでも十枚以上はあるように思われた。
 「こんなにあるんだから、なにか別の形にしないと」
 と妻に声をかけたが、返事はなかった。押し黙ったまま凝固してテレビに見入っている。
 そうこうしているうちに、送られてきたファクシミリを見失った。
 めまいがしてきた。
 とにかく依頼された枚数だけでも確認しようと思い、食卓の上の書類をごそごそと動かしているうち、依頼書が見つかった。十四文字の八十行だ。私は原稿用紙の下六文字分ほどを斜線で塗りつぶした。
 新しく書いてしまったほうが早いかもしれない。
 原稿用紙と万年筆をもって外に出た。
 外は、雲が太陽の光を遮り、薄暗かった。私が住んでいるのはこんな街だっただろうか。坂がなく、建物は低く、景色をどこまでも見渡せるような気がした。
 住宅街なのに、ひどくモダンな建物がある。球状のドームの中央から煙突のような棒っきれがぐいぐいと天を目指して伸びている。
 五分も歩いていると、だんだんその建物が近づいてきた。
 一方、原稿の内容は脳裏からどんどん遠のいていくようだった。冷や汗が出た。曲がり角の店に今では珍しくなってしまった公衆電話が設置してあったので、私は軽いパニックを起こしたまま、新聞社に電話を入れた。せっかく送ってもらったファクシミリだが、なくしてしまったと言った。向こうもパニックを起こしたようだ。背後でないないとざわめく声が聞こえる。何分かたち、また電話してみた。緑川さんもないという。もし見つかったら、自宅にもう一度再送してほしいと伝えて、電話を切った。
 大勢の大人がファクシミリの紙切れを探して右往左往しているさまがおかしくて、私はすこし笑った。
 「おじさん、プリン食べる?」
 とおかっぱの女の子に声をかけられた。
 低い垣根のむこうから、手招きをしている。例の、高い高い煙突のある家のようだった。その建物はふつうの二階建ての家の向こう側にある。蔵のようなものだろうか。
 「プリンかい?」
 「おっきなプリン。たくさんあるからおじさんにもあげるよ」
 女の子に導かれるまま、庭に入った。
 女の子の母親がいた。白いスーツを着て、椅子に腰掛けて休んでいた。
 「こんにちは」
 「こんにちは」
 「さあ、早く早く」
 女の子は私の手と母親の手をとって、どんどん駆け出そうとする。勢いが余り、地を蹴って中空に浮いてもまだ足が回っている。
 背の高い建物は間近でみると変に生々しかった。そして、甘い匂いがした。煙突の部分を支える下部の球面は黒かった。煙突は白い。
 女の子はその黒い壁面にかじりついた。なんだこれがプリンだったのか。
 「つまらないものですがどうぞ」
 と女の子の母親に言われ、私も顔を近づけて、思い切って口を開けた。口中を満たしたのはまさにプリンだった。やわらかく甘く、ねっとりとして、いくらでも嚥下できる。
 気がついた時にはずぶずぶと体がプリンの中に、いや、建物の中に、どちらでも同じことだが、めり込んでいた。もう視界はなかった。食べれば食べるほど体は中心に引き込まれていく。
 私は怖くなり、もがいた。すると、なにかプリンよりは固く、しかし固くはないものにふれた。女の子の母親の手だった。夢中で握りしめると、あたりに化学変化が生じたのか、ふたりの体は急に上昇しはじめた。きっとあの煙突だと思いながら、私はなおも口中にあふれかえるプリンを飲み込み続けていた。
 だんだん速度が弱まり、もうそろそろ頂上ではないかと思える場所で停止した。私はプリンの中で人妻の手を握りしめており、エロティックな感情が昂進して困った。
 ファクシミリを探し回っている緑川さんの姿が脳裏に浮かび、申し訳ない気持がした。プリンの中に身を浸してじっとしていると、なんだか頭の中から文章が染みだしてくるような気もする。しかし、どうやって原稿用紙を取り出せばいいのだろう。
 私はまだ女の子の母親の手を離したくはない。プリンは私たちの体重を支えきれず、すこしずつ落下している。手を固く握りしめれば、また上昇に転じるのだろうか。
 いつまでもふわふわとしていたい。懐の中の十四文字八十行が痛かった。

(了)

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