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【ショートショート】弾丸特急第二夜

 はっと目覚めた。
 座席に横倒しになり、体を丸めて眠っていたのだ。
 窓の外を眺めた。
 北の大地らしい。
 重苦しい雲が重層的に重なる下、視界いっぱいに大地が広がっている。弾丸列車は光景を切り裂くように走っている。
 うっかり中野駅でこの列車に乗り込んで以来、私は軟禁状態にある。この列車、モスクワまで停車しないんだからなあ。どうかしているよなあ。
 新幹線で乗り過ごしても大変なことになるが、いや、京都、大阪のようにたいしたことない場合もあるけど、だいたいはその日の予定がぶっつぶれるくらいの大事になる。
 まして、東京駅に行くつもりがモスクワだなんて。
 中央線をあなどって悪かった。
 柄にもなく反省していると、車内販売の台車がやってきた。
「目、さめたか。これで顔、拭くといい。私、ナターリヤ・クリスチーナね。ナターシャと呼ぶといい」
 金髪の美女が言った。
「ナターシャ」と私は言った。「日本語わかるのか」
「日本語すこし。聞く、わからないね」
「そうか。聞く、わからないか。これとこれをくれ」
「まいどおおきに」
 ナターシャはコーヒーとサンドイッチを渡してくれた。私は代金を払う。
 しばらくもそもそと卵サンドイッチを食べていて、私は大事なことに気づいた。食って飲んでいてばかりじゃ大変なことになる。
「トイレだ」
 私は声に出して、立ち上がった。
 トイレを探さねばならない。
 中央線の特急にトイレはついていただろうか。なかったような気がするが、これは弾丸列車だからなあ。
 私は全財産であるリュックを背負い、トイレ探しの旅に出た。
 三つ目の車両を通りこそうとしたとき、扉が開かなかった。扉には赤いボタンがついている。私は躊躇なく、ボタンを押した。
 ナターシャがやってきた。
「どうした。日本人」
「矢島だ」
「矢島か」
「トイレを探している」
「トイレ?」
 私はiPhoneで検索した。
「トゥアレートゥ」
「トゥアレートゥ」
 ナターシャはうなずいた。
「グリーン車にあるね。ここから先、グリーン席」
 私は一も二もなく、グリーン席に移ることにした。トイレがなきゃ生きていけない。
「わかった。グリーン席に変更してくれ。ここを開けてくれ」
 うなずきつづけた。
 ナターシャは大きな鍵を差し込んで、ドアを開けてくれた。
 私はトイレに直行し、一息ついた。
 グリーン席は、四人掛けの席に変わっている。人がいないことには変わりない。
 私は中央あたりの席に陣取り、また窓の外を眺めた。
 暗い大地が延々と続いており、まるで列車が静止ししているような錯視に陥る。
「暇か。暇だろう」
 台車を押したナターシャがやってきた。
 台車には本が並んでいる。
 私はアレクサンドル・ソルジェニーツィンの「収容所列島」を手に取った。
「これでも読んでみようかな」
「それ退屈ね」
 とナターシャは言った。
「私のおすすめはこれ」
 筒井康隆の「夜を走る」を指さした。トラブルをテーマにしたアンソロジー短編集だ。大半は読んでいるはずだったが、私はうなずいた。
「うん。筒井康隆は何度読んでも面白い。これにする」
「それがいい」
 ナターシャはうなずきつつ、去っていった。
 「経理課長の放送」を読んで笑っているうちに、外が暗くなってきた。
 えらく暗い。
 真っ暗だ。
 トンネルに入ったのだろうか。
 外が暗いまま、私は、なおも小説を読み続けた。「巷談アポロ芸者」を読み終わった頃、ナターシャがやってきた。
「矢島。腹減ったか」
「減った」
「グリーン席には食堂車があるぞ」
「それはいい」
 私は食堂車に移動した。
 エプロン姿のナターシャがやってきた。
「ナターシャはなんでもやるんだな。というか、この列車、ナターシャ以外に誰か乗っているのか」
「飯、なに食うか」
「ボルシチ」
 私はメニューのひとつを指さした。
「ボルシチ、うまいね」
 ナターシャはうなずいた。
「列車、トンネルに入ったよ。長い長い」
 そうか。長いトンネルか。この上は日本海なのか。私はなぜか大漁旗を思い浮かべながら、ボルシチを食べた。乗り間違えの旅はまだまだ続く。

(了)

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