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<短編小説>夢幻鉄道ー真っ青な世界とワルモノの盾ー(二次創作)

―――あの家に、僕の居場所なんてない。

 蝉の鳴き声が降りしきる中、街灯がまばらな夜道を歩く。朝も夜も全力で自己主張を続ける蝉は、いつ眠っているのか謎だ。散々叫びに叫んで、あっさりと死んでいく。まるで花火みたいで、綺麗だと思った。
 息を殺して生きる事に、なんの意味があるのだろう。
 地元の中学校に入学して、五か月ほどが経過した夏休み。僕は、小学校からの悪友達と、連日夏休みを謳歌していた。勢いで空けた左耳には、青色のピアスが光っている。蝉時雨を浴びていると、体中の毛穴から汗が噴き出してきた。勝手知ったる細道に、恐怖なんか微塵も感じないから、原因はこの暑さだ。夜になっても、遠慮がない。
 暗い細道を抜けると、視界の先に藤棚が見えてきた。街灯によってライトアップされているようで、この場所はとても気に入っている。しかし、残念ながら、今は美しい青紫の花が咲いていない。季節外れの天邪鬼が残っていないか期待したが、やはり駄目であった。僕はシャツの袖で汗を拭いながら、藤棚の下のベンチに腰掛けた。手を振って顔に風を送るけれど、気休めにもなりはしない。振っている手を止め、腕時計を確認する。
二三時三十五分。念の為に日付が変わるまで時間を潰す。今日は、手術があったのだろうか? 何もなければ、父親はもう眠っているはずだ。この地域で一番大きな病院の院長を務めている父親は、今でも現場に出ているそうだ。突然、見知らぬ人から声をかけられ、父親への感謝を伝えられる事も珍しくない。決まり文句のように『自慢のお父様ね』と、笑顔で言われる度に、こめかみの辺りがピクピクと痙攣を起こす。
 一歳下の弟は、私立中学の受験勉強に勤しんでいるだろう。部屋に閉じこもっているから、顔を合わす事もない。母親は・・・まあ、いいや。ただの置物と成り下がっている。吐き出した溜息を吸い込んでいるせいか、不快感が体の中で膨張していく感覚に襲われる。以前、あまりにも帰りたくなかったから、ここで一晩を明かそうとした。ベンチで眠りかけた僕を起こしたのは、警察官だった。母親が通報したそうで、想像以上の大ごとになってしまった。そして、父親から、犯罪者のように罵られた。迷惑をかけた、心配をかけた為ではなく、父親に恥をかかせた事が原因のようだ。
「ウウン」
 飛び降りるように立ち上がり、ベンチの隅を見た。小さな咳払いが聞こえたが、誰もいない。気のせいだったのだろう。でも、体は正直で、腕に鳥肌が立っている。鳥肌を消すように腕を摩ると、腕時計が視界に入った。時刻は、〇時を回っていた。僕は腕を擦りながら、歩き出した。

 二

「貴様! いったい何時だと思っているんだ!」
 家に入るなり、父親の怒号が鳴り響いた。嫌な予感が的中した。外から陰鬱の象徴である我が家を見上げたら、部屋に電気がついていたからだ。『〇時二十分ですが、それがどうしたのですか?』などと言ってしまうと、火に油なので黙っておく。罵詈雑言が機関銃のように飛んできて、蜂の巣になっていく。
「ヒロの腕時計を盗んだのは、貴様だな!」
 汚い言葉を打ち疲れた父親が、突然話題を変えた。僕は、首を捻りながら、顔を上げる。家に入って初めて見た父親は、般若の仮面を被っているようであった。
「・・・腕時計?」
「しらばっくれるな! 私がヒロに授けた腕時計だ!」
 弟のヒロの誕生日に、父親がプレゼントしていた。小学生には不釣り合いな、高級腕時計だ。父親はこれ見よがしに、弟に送っていた。僕は、ここ数年、誕生日プレゼントなんか貰っていない。父親が自慢げに弟に時計を渡していた姿を思い出した。あの時の気持ちは、なんて表現すれば良いか分からない。勉強ができない僕に、愛想を尽かされた悲しみ。そして、重荷を弟に渡した安堵感。
「腕時計が、いつの間にか無くなっていたそうだ! この家で、貴様以外に誰が盗むと言うのだ!」
 仁王立ちをする父親の背後を見ると、弟が俯いて椅子に座っていた。受験勉強を中断させ、同席させられている。これも父親の命令だろう。これで受験に失敗すれば、弟は酷く罵られるだろう。父親が欲しいのは、自分を満足させてくれる後継ぎだ。
 勉強が苦手な僕は、愛想を尽かされ、私立中学の受験に失敗し、完全に見限られた。父親の自尊心を満たせない存在は、必要がないのだ。勉強が苦手な僕だけど、絵を描く事が好きだった。絵画コンクールで金賞を受賞した時、父親に褒めてもらえると思った。喜んでもらえると、胸が高鳴った事を覚えている。これで少しは、挽回できると期待した。しかし、金賞を取った絵を、父親にビリビリに破り捨てられた。こんなくだらない事に時間を費やすから、成績が伸びないのだとお気に入りの絵画セットを捨てられた。
 僕は、母親を見た。当時、僕の描いた絵を褒めてくれ、金賞を取った時も喜んでくれた母親の姿はどこにもない。項垂れるように椅子に腰かけ、膝の上で組んだ両手を眺めている。昔は、父親の目を盗んで母親と一緒に絵を描いていた。あの時の母親の笑顔が、まるで夢だったかのように、最近では怯えた顔しか見ていない。
「腕時計なんか知らないよ。あいつが無くしたんじゃない?」
「親に向かってなんだその口の利き方は? 優秀なヒロが無くす訳ないだろ! 貴様が盗んだに決まっている!」
 僕は、弟の腕時計なんか、盗んでいない。昔、疑問に感じ友人に訪ねた事があった。結果は予想通りで、敬語を強要する親は一人もいなかった。
 この家は、なんか変だ。
 独裁的な父親。父親の言いなりで、僕を見下す弟。父親の顔色ばかりを伺い、奴隷のような母親。
「勝手にしてくれよ。僕はやってない。そんなに信用できないなら、警察にでも突き出せば良いだろ?」
「そんなみっともない事できるか! 白状しろ! 貴様がやったんだ!」
 何を言っても無駄な事は分かっている。馬鹿馬鹿しくなった僕は、踵を返して部屋から出ていく。
「ちょっと待て! まだ、話は終わっていないぞ! ん? 貴様、ピアスを空けていないか?」
 無視をして、歩いていく。このままここにいたら、話が終わるのは、僕が罪を認めた時だ。認めるもなにも、僕はやっていない。
「中学生の分際で、なにを考えているんだ! 親からもらった体に、勝手に穴を空けて、何様のつもりだ!」
 文句を言いたいだけの父親に、関わりたくもない。背後からぶつかってくる言葉の刃に、必死に歯を食いしばった。急いで靴を履いて、玄関を飛び出した。
「アキ!」
 追ってきた母親の声を聴きながら、夜の闇に溶け込んでいく。

 三

 もうどれほど走ったのか、分からない。目的もなく、ただガムシャラに走り回った。心臓とか足が痛んだけど、それでもかまわず体を痛めつける。足がもつれて転んでも、膝から血が噴き出しても、何度でも立ち上がる。誰も追ってきてはいない。僕は、いったいなにから逃げているのだろう。
 もう走る事もできず、ヘトヘトになりながら、暗い細道を歩いている。重い体を引きずるようにして、細道を抜けた。
「・・・え?」
 思わず立ち止まって、息を飲んだ。顔を左右に振って、何度も確認する。
 こんなところに、線路なんかあったっけ?
 いつの間にか、知らない場所まで来てしまったのか。いや、そんな訳がない。ここは、先ほどまでいた場所だ。線路に沿って歩くと、お気に入りの藤棚が現れた。立ち止まって、放心状態になった。
 藤棚は、美しい青紫の花が垂れ下がっていた。そして、藤棚の前に、電車が止まっている。
「これは、どういう事だ?」
 目を丸くしていた僕は、ベンチに意識を向けた。それと同時に、走り出した。
「あ、あの、すいません!」
 藤棚の下のベンチには、人が座っている。格好からすると、車掌さんのようだ。僕がベンチに辿り着くと、車掌さんはゆっくりと腰を上げ、電車の中へと入っていった。茫然と電車の扉を眺めていると、発車のベルが鳴った。
 こんな所に線路なんかなかったし、勿論電車なんかない。いったい、どこへ向かうのだろう。不思議には思ったけれど、恐怖心はなかった。僕は、急いで電車に飛び乗った。と、同時に、扉が閉まる。
 行先なんか、どこでも良い。ここではないどこかへ、連れて行ってくれるなら。
 電車の中には、何人かの人が座っている。真ん中の通路を挟んで、左右に二人掛けの椅子が、同じ方向を向いて設置してあった。僕は、空いている座席に座った。すると、電車がゆっくりと動き出した。
 窓際の席に座って、窓の外を眺めていた。見た事があるようで、見た事がない景色が後ろへと流れていく。おぼろげながら、この状況を知っているような気がした。しばらく、考え込んでいると、ハッとして座席の背もたれから、顔を出した。周囲の乗客の様子を伺った。どの乗客も背筋をピンと伸ばして、真っ直ぐ前を向いていた。僕が思っていたのとは、違った。僕が思い出したのは、国語の教科書だ。宮沢賢治の銀河鉄道の夜だ。様々な駅を経由して、終点は南十字だ。そして、そこは確か・・・僕は、鼻からフッと息を漏らし、小さく口角を上げた。背もたれに体重を預け、外の景色を眺めた。
 それならそれで、別にかまわない。
 色々考えていると、嫌な顔ばかりが浮かんでくる。だから、考えるのをやめて、宮沢賢治の物語を思い出す事に専念した。すると、終点を告げるアナウンスが流れた。
「みょう・・・なんだって?」
 物語に夢中になっていた為、聞きそびれてしまった。なんて言ったのか、聞き取れなかったけれど、南十字とは言っていなかった。電車が減速を始めた時に、立ち上がって周囲を見回した。僕以外、誰もいなくなっている。気がつかない内に駅に停車し、乗客達は下りていったのだろうか。そこまで、没頭していた気はないのだけど。電車が止まり、扉が開いた。扉から顔を出して、外の様子を伺う。恐る恐る片足を地面につけた。
 顔を上げて、思考が停止した。頭上には、雲一つない、真っ青な空が広がっている。

 四

 そんな長い時間、電車に乗っていないのに、いつの間にか昼になっている。空を見ながら歩いていると、けつまずいて転びそうになった。地面に手をついた時に、目を疑った。地面のタイルも真っ青だ。いいや、それだけではない。建物の屋根も壁も、電柱もポストも全てが青一色だ。一番薄い青と一番濃い青、その濃淡はあるけれど全てが青だ。
「き、気色悪い」
 奇妙な場所にやってきてしまった。青一色だなんて、センスを疑ってしまう。僕は、物珍しく辺りをキョロキョロしながら、探索を始めた。青一色とは言え、さすがに行きかう人々の肌の色や髪の毛は、青ではなかった。だが、服やアクセサリーは青で、僕だけが浮いているように感じた。でも、誰も僕を奇異な目で見てこない。周囲に同調しているのは、ピアスだけなのに。
 当てもなく彷徨っていると、鼻腔を刺激する香ばしい匂いが漂ってきた。なんだか、とても懐かしい気持ちだ。匂いの正体は、すぐに分かった。ハンバーグの匂いに引き寄せられるように、鼻をスンスン鳴らして歩いていく。すると、一件の家へと辿り着いた。まるで、玩具のようにこじんまりとした一軒家だ。僕は、背伸びをして、小窓から中の様子を伺った。目に飛び込んできた光景に、思わず声が出そうになり、咄嗟に口を押えた。
 家の中には、僕の母親と小さな子供が二人、テーブルを囲んでいた。
「いったい、どういう事なんだ?」
 茫然と眺めていると、母親と目が合ってしまい、僕は反射的に逃げ出した。
「アキ! そんなところで、なにをしているの?」
 背後から母親に声をかけられ、恐る恐る振り返った。すると、優しく微笑む母親が、手招きをしていた。
「さあ、早く中に入りなさい」
 金縛りにあったかのように、僕の体は硬直した。指一本動かず、声も出ない。
 いつ振りだろう。母さんのあんな笑顔を見たのは。
「アキ?」
 母さんが首を傾けて、不思議そうな顔を見せると、僕の体は自然と動き出した。母さんに促されて家の中に入り、空いている椅子に腰を掛けた。そして、僕の体は、また固まった。椅子に座る小さな二人の男の子は、ヒロと・・・僕だ。二人とも小学生の低学年くらいだ。目を見開いて二人の少年を眺めていると、テーブルいっぱいの大きな皿を、母さんが運んできた。皿の上には、山盛りに積まれたハンバーグが乗っている。二人の少年は、目を輝かせて、大はしゃぎをしていた。
「いっただきまーす!」
 二人の少年は、声を合わせ腕を伸ばした。僕は咄嗟に、フォークを握るヒロの手を掴んだ。
「ハンバーグを食べて大丈夫なの?」
 不思議そうな顔を見せるヒロと見つめ合っていると、母さんが僕の手の上に手を重ねた。
「大丈夫よ。アキも沢山食べてね」
 優しく微笑む母さんに、妙な恥ずかしさを覚え、素早く手を引いた。丁度、弟が目の前にいるヒロくらいの時の事だ。体調を崩していたヒロが、ハンバーグを食べて嘔吐してしまった。そのトラウマからか、ハンバーグを見たり匂いを嗅ぐと、ヒロは具合が悪くなった。そして、我が家の食卓に、ハンバーグが出る事はなくなった。母さんの作ったハンバーグを食べるのは、いつ振りの事だろう。僕達三人は、夢中になってハンバーグを頬張っている。母さんは、嬉しそうに僕達を眺めていた。
 膨れたお腹を摩りながら、椅子にもたれていると、母さんが皿を片付けた。すると、小さな僕とヒロが、テーブルに画用紙を広げ絵を描き始めた。僕は身を乗り出して、二人が描く絵を眺めた。やはり、僕・・・チビアキの方が、絵が上手だ。
「二人に絵を教えてあげて。アキは、とっても絵が上手だものね」
 僕の隣にやってきた母さんが、僕の肩に手を置いて目を細めた。僕は、ササッと二人の似顔絵を描いてあげると、大きな歓声が上がった。僕達三人は、夢中で絵を描いた。きっと、僕が一番楽しんでいたはずだ。
 僕が、色鉛筆を走らせていると、チビアキとヒロは飽きてきたようで、テレビをつけた。聞こえてくるテレビからの笑い声に、顔を上げた。テレビでは、バラエティー番組がやっていて、咄嗟に母さんを見た。母さんもチビ二人と一緒に、笑っている。我が家では、バラエティー番組は、ご法度だ。父親が、酷く嫌っているからだ。父親の目を盗んで見ていた事を思い出した。僕は、皆と一緒にテレビを見て笑った。そして、母さんの楽しそうな横顔を盗み見して、鉛筆を走らせた。
 僕は、椅子から立ち上がって、母さんに画用紙を差し出した。母さんを描いた絵だ。あまりにも恥ずかしくて、僕は家を出る。
「アキ! どこへ行くの?」
「ちょっと、散歩にいってくるよ」
「早く帰ってきてね」
 母さんは、僕が描いた絵を胸に抱き、心配そうだった。僕は、小さく頷いて、家を出た。
 まるで嘘のように楽しい時間だった。現実との落差を考えると、愕然とした。ここはいったい、どこなのだろう。
「ねえ、アキ!」
 家から遠ざかっていると、突然呼び止められた。振り返ると、小さな僕が立っていた。

 五

 そう、この子が、一番の謎だ。君もアキだろう。
「君は、いったい誰なんだい?」
「僕は、僕だよ」
 チビアキは、僕の足元までやってきて、僕を見上げている。この現実離れした場所は、やはり現実から離れた場所なのだろう。
「もしかして、ここって・・・天国?」
 そう考えると妙に納得できてしまう。僕は、あの電車で、俗に言うあの世に運ばれてきてしまったのだろう。すると、チビアキは、顔を左右に振った。
「ここは、お母さんの夢の中だよ」
「・・・え?」
 僕は、チビアキの言っている事の意味が分からず、茫然と彼の顔を眺めた。
「ねえ、アキ? ヒロの腕時計の事なんだけど」
「腕時計って、あの無くなった?」
「うん。実は、腕時計は、お母さんがもっているんだよ」
「どういう事?」
「お父さんにもらった腕時計は、とても高級な物で、学校につけていったら、クラスメイトにイジメられたんだって。だから、ヒロはお母さんに相談して、お母さんが預かる事になったんだよ。それでタイミングが悪くて、腕時計をつけていない姿をお父さんに見られたんだ。で、凄く怒りだして、ヒロが怖くて動けなかったら、お父さんがアキのせいだって言いだしたの」
 それは、そうだろう。小学生には、あまりにも不釣り合いな代物だ。そんな高級腕時計を身に着けていたら、自慢しているようで鼻につく。父親の言いなりになっているヒロと、父親に怯えている母さんの姿が脳裏に過った。折角の幸せな気分が、台無しだ。
「ところで、どうして君は、そんな事知っているの?」
「お母さんが、教えてくれたの。ここでは、なんでも僕に教えてくれるよ」
 逆撫でされたようで、苛立ちが募った。どうして、僕にはなにも言わないくせに、チビアキには話しているのだ。僕は自虐的に笑って、顔を背けた。
「ここが母さんの夢の中だって? そりゃこっちの方が、居心地がいいよね。息子が家を飛び出したのに、母さんはのうのうと寝ている訳だ」
 我ながら、大人げない事を言っていると、泣きたくなった。でも、嫌味の一つも言いたい。母さんも僕を・・・あっちの世界を見限っているのだ。
「馬鹿っ!!」
 チビアキが、突然怒鳴り声を上げ、身がすくんだ。チビアキは、顔を真っ赤にして、震えている。そして、大粒の涙をボロボロと零した。
「母さんは、不眠症っていう病気なんだ! 自分の力じゃ眠る事ができないんだよ! だから、辛い事や悲しい事があったら、お薬を飲んじゃうんだ! 徐々に、お薬の量が増えてきて・・・」
「で、でも・・・こっちが幸せなら、それでいいじゃないか? 夢の中の方が幸せだって言うなら・・・」
 母さんの笑った顔は、現実ではまるで見なくなった。先ほどまで見ていた母さんの笑顔が、脳裏に焼きついている。辛い現実から逃げたっていいじゃないか。逃げる場所があるのは、きっといい事だ。
「生きてないと、夢は見れないんだよ!」
 チビアキの悲痛な叫びに、頭を殴られたような錯覚を覚えた。脳震盪を起こしたように、視界が歪んでいく。倒れそうになり、懸命に踏ん張った。
「それなら・・・そうなる前に、どうして言ってくれなかったんだよ? 夢の中で君に話すんじゃなくて、どうして僕に・・・」
 話してくれなかったのだ。
「アキは、お母さんの話を聞こうとしたの?」
 心臓が激しく脈を打った。喉の奥に何かが詰まっているように、息苦しくなった。
 僕は、母さんの話を聞こうとしていたのか?
 いつもいつも、父親を母さんをヒロを蔑んでいてばかりだった。自分の不幸な境遇を呪い、家族を呪い―――自分の事ばかりを考えていた。チビアキは、涙と鼻水で顔をベトベトにしながら、僕の足にしがみついてきた。
「お願いだよ。お願いだから、お母さんの話を聞いてあげてよ。もっと、アキの話を聞かせてあげてよ。じゃないと、お母さんは・・・」
 僕は、しゃがみ込んで、チビアキを抱きしめた。抱きしめずには、いられなかった。とてもじゃないけど、僕の顔は見せられない。
「お母さんは、いつもアキの事を考えているんだよ」
「うん、知ってる」
 正確には、ここへ来る事が出来て、知る事ができた。目を開いて、家の方を見た。涙で視界が歪んでいる。すると、この世界に異変が起こっている事に気が付いた。まるで、蝋燭が溶けていくように、建物や道が流れ出した。
「こ、これは?」
 崩れていく街並みを眺めていると、チビアキが僕の手を掴んで走り出した。
「待って! 母さんとヒロが、まだ家にいる! 助けないと!」
「大丈夫! お母さんが、目を覚まそうとしているんだよ!」
 チビアキは、小さな足を懸命に動かし、僕を引っ張っていく。
 母さんは、僕の事を考えてくれていた。
 センスの悪い、青色一色の世界。
 山盛りに積まれたハンバーグ。
 立派な絵画セット。
 テレビのバラエティー番組。
 この世界は―――母さんの夢の中は―――
 僕の好きな物で、溢れている。

 六

 高らかに、電車の発車を告げるベルが鳴っている。僕は、滑り込むように、車内に駆け込んだ。それと同時に扉が閉まり、電車が動き出した。僕は、窓を開け、体を外に出す。
 離れていくチビアキは、体をめいっぱい使って、手を振ってくれていた。
 きっと、チビアキには、二度と会う事はないだろう。
「ありがとう!」
 僕は、小さくなっていくチビアキに、大きく手を振った。体を車内に戻し、先頭に向かって歩いていく。すると、車掌さんの背中が見えた。僕は、車掌さんの後ろで立ち止まった。
「車掌さん、ありがとうございました。ここに連れてきてくれて」
 車掌さんの背中に向かってお辞儀をしたが、彼はただ前を見ているだけであった。近くの座席に座る為に、踵を返す。
「・・・家族の形を知っていますか?」
 声の方へと振り返ると、相変わらずの車掌さんの背中があった。
「家族の形・・・ですか? 丸とか三角とかって事ですか?」
 僕は体の前で、左右の五本指の指先を合わせ、丸と三角を作った。
「いいえ、目に見えるものではありません。形があるものは、壊れてしまいます。家族も壊れます。だから、形があるのです。逆説的では、ありますがね」
 意味が分かるような、分からないような。でも、家族が壊れるという言葉に、ドキッとした。僕の家族は、壊れかけていたのかもしれない。
「理想の形はあれど、正しい形というものは、ないように思います。それぞれの家族に、適した形が存在するのだと思います」
 車掌さんは、独り言のように、ただ前を見ている。僕の家族に適した形・・・家族を壊しかけていたのは、僕なのかもしれない。
 僕の家族は、父親が圧倒的な権力者で支配者だ。その絶対的な存在に、僕は嫌われ弾かれた。そして、投げ出して、逃げ出した。
 母さんは、父親が理想とする妻と母親を、演じていたのだ。
 ヒロは、父親が理想とする息子を演じていた。
 母さんとヒロは、そうやって家族の形を守っていたのかもしれない。
 正しいとか、間違っているとかではなくて、少なくとも二人は守ろうとした。僕とは、大違いだ。
「家族だからと言って、全てを分かり合える訳はありません。自分以外の人間は、自分ではない別の人間です。しかし、『理解しようとする意志や理解してもらおうとする意志』は、大切なのだと思います。お互いに。壊すのは簡単ですが、一度壊れたものを直すのは、とても難しいものです」
 正直、父親の意思を理解するのは、今の僕には無理かもしれない。でも、僕の事を理解してもらう事は、できるかもしれない。少なくとも、理解されなくても、僕の想いを伝える事はできるはずだ。どうせ分かってくれないと、早々に諦めていた。
「伝えますよ。僕の想いを。理解してもらえるまで、何度でも。百回でも、二百回でも。もう逃げ出さない」
「それでも、理解してもらえなかったら、どうしますか?」
「千回でも、二千回でも話します。何度も何度も想いを叩きつけて、あの石頭をカチ割ってやります」
 我が家では、父親が絶対的なルールだ。だから、そのルールを破る僕は、悪者なのだろう。だけど、僕が悪者であればあるほど、矛先は僕に向くはずだ。逃げずに立ち向かえば、母さんとヒロを守る事ができるかもしれない。僕は、悪者の盾になる。そして、父親の歪んだ常識や価値観を割る者になるのだ。
 僕達家族の形は、とてもいびつな形をしているのだろう。でも、それでも、壊れて無くなるよりは、ずっといい。少しずつ時間をかけて、形を変えていければそれでいい。
 だから、チビアキ。楽しみにしていて欲しい。母さんから、家族の話を聞かされる時を。でもそうなると、チビアキの出番は、なくなってしまうかもしれない。
 ごめんね、チビアキ。そして、ありがとう。

 七

 電車から降りると、朝焼けが眩しかった。電車に向き直り、車掌さんにお辞儀をした。車掌さんは、こちらを見ることなく、電車を走らせた。次は、誰を誰の夢の中へと運ぶのだろう。
 帰宅すると、父親はもういなかった。母さんは、リビングのソファに座っていた。体を小さく左右に揺らし、手には錠剤が握られていた。僕は、ソファの前で膝をついて、母さんの手を握った。
「母さん、ただいま。今まで、ごめんね。これからは、僕と沢山話をしようね。母さんの話を聞きたいし、僕も聞いてもらいたいな」
「・・・お母さんね。とても嬉しい夢を見たの」
 それから、母さんは夢の話を聞かせてくれた。まだどこかぎこちなかったけど、母さんの顔はずいぶん柔らかくなっていた。
「ヒロの腕時計は、僕が預かるよ」
 母さんは目を丸くした後、泣き出しそうな顔をしたけど、何も言わず腕時計を渡してくれた。この腕時計は、母さんに持たせていては、いけない気がした。
 その後、ヒロの部屋に向かった。ヒロは、机に噛り付いて、勉強をしていた。僕の存在に気が付くと、悪態をつく訳でもなく、ただ気まずそうに顔を背けた。きっと、昨晩の出来事で、罪悪感があるのだろう。
「ヒロ、ごめんね」
 僕が謝ると、ヒロは驚いた表情で振り返った。そして、すぐに机に向き直る。
「・・・なにが?」
「僕のせいで、面倒な役目を押し付けちゃってさ。それから、これ」
 僕は、ヒロに歩み寄って、机の上に腕時計を置いた。ヒロは、怯えた顔で僕を見上げている。
「昨日の事は、僕が腕時計を盗んだ事にしておこう。父さんには、そう説明して謝っておくよ。それから、これからは、僕が腕時計を預かるから、家に帰ってきたら真っ先に僕の部屋に時計を取りに来る事。机の引き出しに入れておくからね。また父さんにバレたら、僕が盗んだ事にすればいいから」
 僕は、ヒロの頭を撫でた。すると、ヒロに腕を振り払われてしまった。
「じゃあ、勉強頑張ってね」
 僕が部屋から出て行こうとすると、『あり・・・と』と、ヒロの声が微かに聞こえた。振り返ってヒロを見ると、耳を真っ赤に染めていた。
 僕は、青色が一番好きだ。でも、赤色も可愛いと思った。
<完>



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